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 馬上で、鎧を身に着けた勇者が、ゆっくりとこちらを振り向いた。銀色の兜の中の表情はよく見えない。

 でも、他の者が粛々と進もうとするのに抗って、勇者の馬が引き返してくる。

 ふたたび群衆が勇者の馬に押し寄せ、また飲まれそうになる。


 おぼれて思わず上げた手に、勇者が手甲を着けた手を差し伸べてきた。

「こっちだ」

 ぐいと力強く引き上げられ、勢い余って馬の背から向こう側に落ちそうになる。

 もう一度逆の方へ引き戻されて、ようやく鞍の後ろにまたがることができた。

 ゆっくりと一息つく。


 こちらに背を向けたままで、勇者はぼそりとつぶやいた。

「それで、名前は?」

 急にたずねてきた。

 名前?

 名前って何だ?

 そうだ、自分のことを呼ぶ言葉だ。

 わからない。覚えていない。

 自分のことを、誰が、なんて呼んでいたか、それも思い出せない。

「俺はユウジン。あんたの名前を教えろ」


 自分は、この広場に群がり集まるその他大勢の一人だ。

 勇者のように、名前を持って、役割を持って、互いに呼び合って、力を合わせたり、世界に働きかけたりするものではない。

「なんとでも……」

 自分はどんな表情をしていたんだろう。

「なんとでも呼んでくれ」

 考えていることとは無関係に、ほとんど自動的に口が動いた。

「名もない村人のひとりだ」


(一旦終わり)

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ルーチンから醒めたモブキャラは異世界に転移した勇者と旅に出る 安岐ルオウ @akiruo

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