第9話 道行、その先の影

 池田屋騒動から数ヶ月、斎藤一率いる三番隊は巡察のため門前へ集合していた。

 ただ一人の隊士を除いて。

「……秋月はどうした」

「先ほど沖田先生が拉致……いえ、連れて行きました。

 斎藤先生の許可はとってあるとおっしゃっていましたが……」

「俺は何も聞いていない」

((やっぱり……))

 隊士達と斎藤はため息をついた。

 最近、沖田は隊務の有る無しにかまわず小夜を連れ出すことがたびたびある。

『小夜ちゃんは隊士兼小姓だから』というのが言い分なのだが、小夜は戦力になるためなるべく巡察にいてほしいのが心情だ。

(だが、総司は言って聞く相手ではないからな)

「仕方ない。行くぞ」

 隊士達は斎藤に続きながら、意味有りげに目配せしあった。

 斎藤は、多くを語る方ではない。そのためか三番隊の隊士達は表情や行動など少ない情報から、組長である斎藤の真意(本人が自覚していない部分まで)を汲み取ることに長けている。

 そして、小夜がいないと斎藤の機嫌が微妙に悪くなることも、本人は気付いていないが隊士達は気付いていた。

(なんか組長って彼方に甘いよなぁー)

 他の隊士と同じく斎藤の機嫌の変化に気付いたサブは、そんなことを考えながら歩いていた。


 その頃、小夜は……

「……あの」

「ん?」

「今、僕は巡察に行っているはずなんですけど」

 小夜と沖田は縁側に並んで座っている。というか半ば無理やり連れて来られたのだ。

 でも今日は巡察当番。無断で休んだら三番隊の人達に迷惑をかけてしまうかもしれない。

 そんな小夜の懸念を余所に沖田はのんびりと笑った。

「今日の稽古は土方さんが指南してたから怖くって。

 甘いものがあれば小夜ちゃんが一緒に休んでくれるかな~、と」

 烝くん以外の人から"小夜ちゃん"と呼ばれることに、慣れるまでは違和感があったけど、もう最近は気にならずむしろ今の発言を見過ごすわけにはいかなかった。

「沖田さんは僕をモノで釣るおつもりだったんですか」

 ムッとして沖田を睨み上げる。小夜の眼力は普通の少女よりもかなり鋭いが、相手が沖田では全く通用しない。

「それは残念ですねぇ。せっかく一緒に食べようと思って買ってきたのになぁ」

 沖田は、小夜の鼻先で何かが入った包みを持ち上げた。

「!!」

 こ、この匂いは……!

 みたらし……!

 で、でも、巡察あるし……

 でもでも、みたらし……

「あれ?どうかしましたか?」

 小夜の表情が団子と巡察の間で揺れている。それが手に取るようにわかるため、どうしても意地の悪い笑みが浮かんでしまう。

「あ、小夜ちゃんは巡察があるんでしたっけ。引き止めちゃってごめんね」

 お団子は私が一人で食べますから、と小夜の鼻先から包みをどかせた。

 小夜は捨てられた子猫のような顔をしている。そして……

「…………お、沖田さん……」

「なんですか?」

この時の沖田が満面の笑みを浮かべていたことは言うまでもない。


 小夜は団子を食べながら、隣で同じように団子を頬張る沖田の横顔を眺めていた。

「私の顔がどうかしました?」

 視線に気付いた沖田がこちらに振り返る。

「沖田さんって、すごく美味しそうにお団子食べるなぁと思って」

 小さい頃、烝くんから『小夜ちゃんはほんま幸せそうに団子食うから、見てるこっちまで幸せになるんや』って言われたことがあったっけ。

 なるほど、確かにこんな幸せそうな笑顔でお団子を頬張る沖田さんを見てたら、私まで穏やかな気分にな……

 むにぃーっ

「……いひゃいれふ(痛いです)」

「今、山崎くんのこと考えてたでしょ」

 え?何でわかったの?

 それにしても、どうして烝くんの話になると沖田さんは私のほっぺたを引き延ばすんだろう。

 痛いじゃないか。

 抗議の声を上げようとした時、沖田の手が頬から離れた。

「ケホ、ケホッ…ゲホッ……」

「沖田さん?」

「ゴホ、ゲホッ……何、ですか?」

「大丈夫ですか……?」

「小夜ちゃんたら、咳をしたくらいでそんな心配そうな顔をしないでくださいよ」

「……」

 小夜の脳裏には池田屋での光景が浮かんでいた。あの時に様子がおかしかったことは、何度か尋ねてみたが毎回はぐらかされてしまう。

 依然として心配そうに眉を寄せる小夜に、沖田は困ったように笑った。

「私って信用ないんですねぇ」

「だって……」

 だって、心配だし。仲間だもん。

「実は、少し風邪気味なんです。でも大したことはありませんから本当に大丈夫ですよ」

「そうですか……」

「はい。どうも喉にくる風邪らしくて、胸の中が痒いような感じがするんです。だから、近藤さんみたいに口が大きければ喉に手を突っ込んで掻けるのになぁって」

「ふふっ」

 冗談を言ってクスクス笑う姿は普段通りだし、沖田さんが大丈夫って言うなら大丈夫かな

 その時、彼らの背後に、ゆらりと影が立った。

――――ゴツッ

「「い゙っ!?」」

 鈍い音と共に二人の頭へ一つずつ拳骨が降ってきた。

「総司!秋月!俺が師範だから稽古に出ねぇたぁ上等じゃねぇかコルァァァア!!」

「あはははは。土方さん、怒ってばかりいるとそのうち本当に角が生えてきちゃいますよ~」

「僕、巡察当番なんです!だから関係ありませんから!

 ちょ、何で僕まで追いかけてくるんですか!?」

「うるせぇ!おとなしく捕まりやがれ!!」


「もう無理!ちょっと、休ませて……」

「なんだ平助、また休憩か?」

 藤堂はフラフラしながら道場の隅で大の字に倒れた。

「新八さんと連続で試合するとか非道の極みでしょ」

「総司よりマシだろ」

「うーん」

「じゃ、そういうことでもう一発いくか」

「無理無理無理!」

 藤堂につられて永倉も腰を下ろした。道場にはつい先ほど土方に引きずられてきた沖田と小夜の姿がある。

「秋月すごいなぁ。もう平隊士を抜かしちゃってるよ」

 小夜が相手の竹刀を叩き落としたのを見ながら藤堂が言った。小夜は筋が良かったのか、沖田の非常に実戦的な指導のためか、剣術でも平隊士には全くひけを取らない実力を持っていた。

「あー、でもさすがに総司には歯が立たないかぁ」

 今度は沖田と向かい合っている小夜を見て呟いた。

 沖田は、剣先が極端に右へ流れた独特な構えをしている。その沖田から剣を習った小夜は、左利きのためか逆に左へ寄るクセがつき、対峙するとまるで鏡を見ているようだ。

「僕も抜かされちゃうのかなぁ」

 先日試合をした時は勝ったが、小夜の力が自分に迫ってきていることを最近ひしひしと感じる。

「秋月は相手の力を受け流すのが上手いからな。平助みたいな威勢の良さが取り柄の剣は相性が悪いんだ」

「へぇ、さすが新八さん。よく見てるんだね」

 永倉は淡々として見えるが、実は非常に観察眼に長け周囲をよく見ている。藤堂は素直に感心した。

「それにしても、総司が捕まるなんて珍しいよね」

 土方と沖田の追いかけっこ自体は日常茶飯事なのだが、大抵は土方が逃げ切られて終わる。

(さっき総司と秋月を引きずって戻ってきた時の土方さん、完全にドヤ顔してたもんなぁ)

「いや、今日は総司が本気で逃げなかっただけだろ」

「へ?」

 稽古嫌いの総司が?と藤堂は首を傾げる。

「秋月が一緒だからな」

「秋月が?」

「あいつがいるなら稽古に出てもいいと思ったんだろうよ」

「ふぅん」

 いつもいつも沖田に逃げられ悪態をついている土方の様子を思い浮かべ、「秋月すげー」と感嘆した。

「じゃあ総司って、秋月に惚れてんのかな?」

 沖田は稽古の時以外もしょっちゅう小夜にかまっている。確か、池田屋騒動の後くらいからだ。藤堂自身は池田屋で負った額の傷のせいでしばらく養生していため、詳しい経過は知らない。

 だが、ある日屯所中の壁や柱に大量のクナイが突き刺さっていて、自室にいて良かったと心の底から思ったことがあった。

 今日だって、巡察当番のはずの小夜が道場にいるのは、きっと沖田絡みで連れてこられたのだろう。

 総司に関する女の噂など聞いたことがない。だから余計に気になる。

「まぁでも惚れてるなら、あんなボロボロにしないよね普通」

 聞いておきながら自分で結論を出して「うんうん」と頷く。現に今、目の前で沖田が微笑を浮かべながら小夜をボコボコにしているからだ。

「そこまで!」

「……?」

 お互いに礼をして、沖田が後ろを向いた後の小夜を見た永倉の眉が寄った。小夜の表情があまりにも淋しげだったからだ。

(負けたのが悔しいならわかるが……)

 だが俯いた横顔は、ただ試合に負けたにしては不自然だった。まるで、迷子になった幼子のような表情……

 そういえば、ふとした瞬間にこういう顔をする秋月を最近になってしばしば見ている気がする。

 いつ頃からだったろうか?

 入隊時よりも表情豊かになり口数も増えてきたため気付いてやれている者は少ないのではないか

「なぁ、平す「「おかえりなさい。伊東先生」」

 ちょうどその時、道場の入口に人だかりができた。中心にいるのは色の白い背のすらりとした男。

「あ、ごめん新八さん。僕ちょっと行ってくる」

 藤堂は永倉の言葉を最後まで聞くことなく人だかりの方へ駆けて行く。

 男の名は、伊東甲子太郎。今年の秋、江戸で新たな隊士を募集した際に入隊した人物だ。藤堂や山南と同じ流派の剣を使う。学もあり、非常に博識らしい。

 自分が武家ではなく農家の生まれであることを気にしている近藤や、伊東と同じく学問に明るい山南は入隊を歓迎した。藤堂は、かつて剣を学んだ道場の主というこもあり特に喜んでいて、最近は永倉達よりも伊東達と居ることの方が多いくらいだ。

 しかし永倉は、この男にどこか胡散臭いものを感じていた。弟のように可愛がっている平助が尊敬している相手だから、無下にはしていないし、誘われれば伊東や伊東が連れてきた彼の弟子達と酒を飲んだりもする。

(だが、どうも信用はできねぇんだよな)

 理屈は無い。所謂、勘というやつだ。永倉は複雑な思いで、生き生きと伊東と何か話している藤堂を見ていた。


――――――…


「秋月」

「はい」

「夕飯、外に食い行かねぇか?」

「え?」

 予想外な人物からの予想外な提案に、小夜は目を数回パチパチさせた。

「飯」

「誰が?」

「お前が」

「誰と?」

「俺と」

「…………何で?」

「いいからいいから」

 それから永倉と小夜は、

「小夜ちゃんに一滴でもお酒飲ませたら承知しませんからね永倉さん」

 と、刀の柄に手をかけた沖田のどす黒い笑顔に送り出され町へとやってきた。

 先を行く永倉の背中を眺めながら小夜は首を傾げていた。

 屯所にいればご飯は食べられるのに、どうして外に食べに行くんだろう?

 永倉さんや原田さんが隊士を連れてよくお酒を飲みに行くことは知っているけど、私を誘ったってことはお酒が目的じゃないよね。

 でも呼び出されるような悪いことした覚えは無いし……

 そんなことを考えているうちに永倉は足を止めた。

「悪いな。あんまり金が無ぇからよ、一番安いのでいいか?」

「永倉さんの懐が常に寒々しいのは知っていますから」

「お前、いつの間にか言うようになったな……」

(剣だけでなく生意気なところまで総司に似てきちまったらしい)

「おまちどうさん」

 二人の前に運ばれてきたのは湯気の立つうどん。

「このうどん屋は隊士を連れてたまに来る。俺はうどんより蕎麦派なんだがここは別だ。奢ってやるからしっかり食え。むさぼり食え」

 言われるがまま箸を取り、うどんを啜った。温かい麺がダシの風味を伴って喉を滑り落ちる。夜の冷気で体が冷えていたのか、すごくおいしい。

 半分ほど食べたあたりで永倉が箸を止めた。

「……で、どうしたんだ」

「何がですか?」

「最近元気ねぇだろ。今日の稽古でも総司に負けた後とか、妙に淋しそうな顔してたじゃねぇか」

「……」

 もしかして永倉さん、私が落ち込んでいることに気付いて、うどん屋さんに連れてきてくれたのかな。

 最近、ふとした瞬間に焦りにも似た悲しい気持ちになることがあった。自分の問題だからと思って、誰にも言わないでいたけれど……

「池田屋に、僕の兄が来ていたのは知っているんですよね」

「あぁ。総司が手合わせした奴だろ。悪いが土方さんの部屋で話したことは全部聞いてる」

「また三人で押し入れに隠れてましたもんね」

「なんだ、気付いてたのかよ」

 池田屋騒動の後で土方さんの部屋に呼び出された時、永倉さん原田さん藤堂さんは私が入隊した日と同じように押し入れでごそごそと聞き耳を立てていた。もう面倒だったから声は掛けなかったけど。

 小夜は麺を吹いて冷ましながら、ぽつぽつと話し出した。

「あの時、兄上に全然適わなくてすごく悔しかったんです。もっと強くなりたいって思った。

 今までは仕事をこなせれば他の力なんて必要無かったのに……でも、そんなすぐには強くなれないんだなぁと。稽古でも沖田さんに歯が立たないし」

「他の平隊士たちより歯は立ってると思うけどな」

「僕は……沖田さんや兄上にも負けないくらい強くなりたいんです。でも、剣を始めたことは良かったと思ってます」

「ほう」

「前に、巡察で初めて人を斬った時……安心したんです」

 相手の体に刀を突き刺した瞬間、感じたのは安心感だった。

「安心?」

「僕達には[流拳]や[爪]があるから大抵素手で殺していたんです。相手の肉を貫く感触って結構ぞっとするけど、刀なら素手より断然マシです。自分の手も痛くならないし」

「……」

 いつの間にかうどんを啜る手が止まっていた。こいつが殺し屋だったことを知ってはいたが、毎日を共に過ごしているうちに、そんなことは意識しなくなっていた。

 こいつは、本当に人を殺して生きてきたんだな……

 いまさら恐ろしいとは思わなかったが、人を殺す感触を淡々と語った姿が悲しかった。

「あの……永倉さん、伊東先生ってどう思いますか?」

 せっかくだからと、小夜は最近気になっていることを聞いてみた。

 永倉さんなら冷静な意見を言ってくれそうだし。

 物思いに耽っていた永倉は、昼間考えていた人物のことをずばり尋ねられて現実に引き戻された。

「秋月も、あいつは怪しいと思うか?」

「怪しいっていうか……」

 伊東甲子太郎が入隊してきた時、小夜は幹部付きの小姓兼平隊士とだけ紹介された。

 伊東と初めて屯所で会った日……

「失礼します。お茶をお持ちしました」

「おぉ、ありがとう」

 小夜は近藤と向かい合うに人物に目を向けた。傷一つ無い白い肌に黒い縮緬の羽織姿。藤堂から聞いていた通り、今までの新撰組にはいない感じの人だと思った。

「あぁ、幹部付の小姓というのはキミか。近藤先生から伺ったよ」

「秋月と申します」

「ほう……秋月、君か」

――――ゾクリ

 伊東の目がスッと細められた。まるで獲物を見つけた蛇のように。

 なに、この人……

「お茶、いただくよ。ありがとう」

 気付けば、伊東の目は既に穏和なものに戻っていた。

 見間違い……?

「トシ。伊東さんにも秋月君の事情を告げても良いんじゃないか?隠し事はどうも苦手でなぁ」

 伊東が座を辞した後、近藤は困ったように眉を下げた。

「そうだよ。伊東先生は柔軟な考えをお持ちだし、非難したりはしないと思うけどなー」

 藤堂も近藤の言葉に同意した。対する土方は厳しい表情をしていてなんだか肩身が狭い。

「いや、伊東さんに秋月の素性は知らせねぇ。事情を知っている者が増えるほど露見する可能性も高くなる。

 それに屯所を予定通り移転した先でバレたら、先方に何言われるかわかったもんじゃねぇからな」

「土方君。屯所移転の話は、君の予定にはあっても私の予定にはありませんよ」

 山南がトゲのある声音で口を開き、部屋の空気が一気に重くなった。

 最近、屯所を別の場所へ移転させるという話が幹部の中で進んでいた。隊が大きくなった今、屯所として借りている屋敷が狭くなってきたからだ。

 だが土方と山南で移転先の意見が合わず、このところ二人の間にはいつも刺々しい空気が漂っている。

 普段から二人の意見が割れることはあるけど、土方さんと山南さんは仲が悪いわけじゃないと思う。

そういう時は山南さんが、土方さんの意見もちゃんと汲んだ案を考えてくれる。土方さんは意地っ張りだから表には出さないけど内心では山南さんを頼っているみたいだし、どちらかと言うと二人は仲良しなんじゃないかな。でも、今回はなかなかうまく話がまとまらないみたい。

 本当は伊東さんよりもあの二人の方が心配なんだけど……

「秋月。伊東には気をつけろよ」

「そんなこと、藤堂さんの前で言ったら怒られますよ」

「だから今言ってんだよ」

「……」

「……そうだ。お前さ、一回総司以外の奴に稽古つけてもらえよ。一ちゃんとか。それに俺だって面倒くらいみるぜ?」

「え?」

「剣の話だよ。総司に勝ちたいんだろ?」

「……はい」

「総司の真似じゃ総司には勝てねぇからな」

 沖田さんの強さは半端じゃない。でも、私はもっと強くなりたい。私の居場所にいられるように。人を殺す以外の強さが欲しい。

「……永倉さん。僕、新撰組に来たばかりの頃は長居するつもり無かったんです」

 雨風が凌げてご飯が食べられればどこでもいいや、と思っていた。

「飽きたら逃げようと思ってたんですよ。脱走しても逃げ切る自信はありますし」

「まぁ、お前なら逃げられるだろうな」

「ここが、新撰組が気に入ったみたいです。僕の、生まれて初めての仲間だから」

(やっと笑ったな)

 永倉は満足気な表情で残りの麺を一気に啜り込んだ。

 そしてこの日から、小夜の目標は「打倒・沖田総司」となったのだった。


――――――…


「お願いします!」

 小夜は斎藤に向かって竹刀を構えた。先日永倉からの助言を受け早速、斎藤に剣の指導を頼んでいた。

 うわぁ、緊張する……

 沖田さんの発する気は、こっちを圧迫してくるような感じだけど、斎藤さんはまるで氷の刃を喉元に向けられているようだ。

「手加減はしないぞ」

「はい!」


「はぁっ、はぁ……」

 斎藤の竹刀はまっすぐ小夜の眉間に突き付けられていた。斎藤が腕を下ろすと一気に緊張が解かれて思わず膝をついてしまう。

「太刀筋は総司譲りだな。速いし柔軟だ。無駄な動きも少なかった。身のこなしはお前自身の、今までの鍛練からくるものだろう。

 だが、一太刀にかかる重みが足りん。これは体格の違いによるものだ。いくら鍛えてもお前は女だ。体力には差が出る」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

 それって、女の私じゃ絶対に沖田さんや兄上に勝てないってこと?

「お前の強みは速さだ。それに磨きをかけるか、……もっと研ぎ澄ませろ。対象を斬ることだけを目標にするな。その先まで突き抜けるように意識しろ」

 その先まで、突き抜ける……

「以上だ」

 斎藤は立ち去ろうとする。

「あっあの、斎藤さん」

「何だ」

「ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げた小夜を見る斎藤の表情が一瞬だけ柔らかく緩んだ。

「小夜はうちの隊の隊士だろう。だから俺がお前の面倒を見るのは当たり前のことだ」

 小夜が顔を上げた時にはもう斎藤は無表情に戻っていて、それ以上は何も言わずに去って行った。

――――ビュンッ

 沖田の留守を見計らい、斎藤や永倉に稽古をつけてもらうようになってからしばらく経った。

 本当は烝くんも協力してくれようとしたんだけど、何故か尖った竹を仕込んだ落とし穴とか毒矢とかを教えてくれて、沖田さんを殺しても意味が無いから今回はお断りした。

 今は二人に教わったことを思い返しながら中庭で一人竹刀を振るっている。見ているのは白猫親子とタマだけ。静かな空間の中、竹刀が空気を斬る音だけが響いていた。

 沖田さんが手強いのは何と言っても速さと、太刀筋が柔らかくしなること。本当に刀を扱ってるのか疑いたくなるほど、あらゆる角度から繰り出される素早い突きは何度手合わせしても読み切れない。

 斎藤さんの剣は一度の斬撃が重くて速い。まともに受け止めたら手がビリビリ痺れてしまう。それに斎藤さんは初太刀が重要な居合い術が得意だから、最初の一撃で決まってしまう時もある。

 永倉さんは独特の威圧感があってどんな構えでも全く隙が見つからない。反撃の機会を探しているうちに、気付けば端まで追い詰められてしまっている。

『総司の真似じゃ総司には勝てないからな』

 永倉さんの言葉を思い出して納得した。今まで沖田さんの稽古しか受けたことなかったから、一人一人の剣の特徴が違うことも面白かった。

 剣って、面白い

 この面白さを知るきっかけをくれたのは沖田さんだ。

 ……だからこそ、私は沖田さんを越えてみたい

 それにしても、永倉さんがあんなに面倒見のいい人なんて知らなかったなぁ

 冷静な人という印象だったけれど(お酒が入ってる時以外は)、私が落ち込んでたのを見抜いてうどんを食べに連れて行ってくれたり親身に稽古をつけてくれたり、意外と懐が深いんだ。

「っ」

 額を流れる汗が目に入り、竹刀を振っていた手を止めた。

 ちょっと休憩しようかな

 汗を拭い竹刀を置いた。誰もいないのを確認してから目を閉じた。

「ふぅぅぅ……」

 呼吸を静めながら、ゆっくりと手足を動かしていく。

――――ヒュンッ

 時折、手や足が鞭のようにしなやかに素早く宙を切る。

 小夜が演じているのは[流拳]の型。[流拳]には攻守それぞれ数種類の動き方を定めた型があり、一人稽古ができるようになっている。

 新たな汗が首筋を伝うまで[流拳]の型を次々に演じていった。

 しばらくやってないからうまく動けないな、兄上と遭遇した時のためにたまには[流拳]の修業もしなくちゃ

 不意に縁側からギシッと軋んだ音がして、動きを止めた。

「これは失礼。邪魔をしてしまったようですね」

「いいえ。こんにちは、山南さん」

「はい。こんにちは」

 そこには微笑みを浮かべる山南が立っていた。たまたま縁側を通ったら小夜がいて、足を止めたらしい。

 笑ってる山南さん見るの、久しぶりかも

 最近は土方との討論だけでなく体調を崩すことも多いため、大げさではなく山南の笑顔を見るのは久しぶりだ。

「それが[流拳]というものですか。まるで舞のような動きですね」

「舞、ですか?」

 [流拳]は手足の先まで細かい動きが決まっていて、確かに、動き自体は暗殺術とは思えないほど優雅なものだ。

「とても美しかったですよ」

「…」

 笑顔でさらりと言われ、何となく面映ゆい気持ちになって俯いた。

「そういえば、永倉君から聞きました。沖田君から一本取りたいそうですね」

「はい。あ、えと、無謀だとは思いますけど……」

 試衛館にいた頃から沖田さんの強さを知ってる山南さんから見たら私の目標はとんでもないものかもしれない。

 だが、山南は目を細めたまま微笑みを崩さなかった。

「いえいえ、目標を高く持つのは良いことです。それに秋月君なら達成できるかもしれませんよ。私は応援します」

「……ありがとうございます!」

 うん。なんか力が湧いてきた。

 近頃はともかく山南さんは、入隊する時は鋭い人に見えたけど普段はいつも穏やかに笑っていてすごく安心できる人。

 多分、私が新撰組にとって危険かもしれないって考えたからああいう言動をしたんだよね。新撰組を大切に思っているからこそだ。

 小夜は、夕食の刻限まで竹刀を振り続けた。


 それから数日後。

「どうしたんですか?改まって、試合がしたいなんて。

 最近私に隠れてコソコソしてたのは知ってましたけどね。容赦はしませんよ、秋月くん」

 沖田さんは剣――今は竹刀だけど……を持つと前みたいに私を"秋月くん"と呼ぶ。

 道場にいる時は周りにほかの隊士達がいるからだろうけど、同じ刀を持つ者として扱われている感じがして、"秋月くん"と呼ばれると自然に気が引き締まる。

 中庭には非番だか非番じゃないんだかの人達が見に来ていた。

「そんじゃ二人とも構えろー」

 審判を買って出た永倉が声を上げ二人は竹刀を手に向かい合った。

 沖田は相変わらず剣先が右に寄った構え。小夜は左寄り。

「始め!」

――――ガツッ

 試合が始まってしばらくすると、小夜と沖田は互いの竹刀を打ち合わせたまま膠着状態になった。小夜は必死で踏張るが、少しずつ後ろへ押されてしまう。

 腕力じゃ沖田さんには勝てない。この状況を変えなきゃ負ける!

 どうにかして体勢を変えようと足に力を込めた瞬間、ふいに沖田の力が緩んだ。

 え……?

 ふわりと沖田の身体が揺らぐ。枝から離れた木の葉のように。つられて力を抜きそうになるが、

「っ!!」

 小夜の竹刀が沖田の竹刀を擦り上げた。互いの竹刀が離れ、沖田の胴が空く。小夜は思い切り懐へ飛び込んで行った。

 鋭く、その先まで突き抜ける……!!

――――バシッ

「まぁ、努力は認めますよ」

 小夜は、いつもの稽古と変わらず床にひっくり返っていた。

 渾身の突きを、沖田の竹刀に絡め取られた……と思った次の瞬間、逆に打たれていた。

 突きは外すと死に体になる。それはわかっていたけど、沖田さんは体勢を崩していたし勝てると思ったのに。

 電光石火の素早さに最早、唖然とするしかなかった。とりあえずわかったことは、

 ……また負けた

「あーあ。今日こそ負ける総司が見られると思ったのになぁ」

「小夜だって頑張ったんだからいいじゃねーか」

「秋月が頑張ってるのは僕だってわかってるよ!」

 汗を拭く沖田の耳にそんな会話が入ってくる。あからさまな藤堂を筆頭に、観ていたみんなは小夜を応援していたらしい。

(ひどいなぁ)

 そう思いながらも腹を立てることはなく苦笑を浮かべた。竹刀を片付けみんなのところへ向かう。少し遅れて小夜も戻ってきた。

「永倉さんですか?小夜ちゃんに入れ知恵したの。あと一くんですね」

「何だよ入れ知恵って。人聞き悪いな」

 竹刀を合わせれば、誰が小夜ちゃんの稽古に付き合ったかくらいわかる。それに、最後に小夜ちゃんが放った左手の突きは一くんのそれにそっくりでしたし。

「小夜ちゃん。お疲れさま」

 負けて悔しそうな顔をしていた小夜の頭をよしよし、と撫でる。

 以前ならば、さらに不機嫌になっていただろうが、今は目を細めてさえいる。小夜本人は自覚していないようだが。

 本当に猫みたいですねぇ

 喉をくすぐったらゴロゴロって鳴くんじゃないかとも思ったけど、また拳で殴られたら痛いからやめておいた。

「……沖田さん、途中で力抜きましたよね」

 私の攻撃を誘ったのかもしれないけど、何となく不自然だったような気がした。

 沖田さんはまだ私の頭を撫でている。前は他人に触れられることに慣れていなくて困ったけど、今はそれほど気にならない。むしろちょっと安心する……とか思ったらまた顔に熱が集まってきて、慌ててその考えを追い払った。

「小夜ちゃんって、女の子なんだなぁと思って」

 小夜の質問に沖田は笑ってそれしか答えなかった。

「なぁ~今日は小夜が頑張ったってことで飲もうぜー」

「どうして原田さんは全部お酒に繋げるの」

「細けーこと気にすんなって。もちろん小夜も飲むよな?」

「やめといた方がいいよ左之さん。総司に斬られるよ」

「じゃあ小夜は茶で参加だな!よっし今夜は宴会だぁーっ!」

 楽しそうに台所へ駆けて行く原田の後ろを、藤堂が何か言いながら追いかけていった。

「ま、何はともあれ頑張ったな、秋月」

「ありがとうございます。斎藤さんもありがとうございました」

「礼には及ばん」

「また何かあったら力になるからよ」

「はい。お願いします師匠」

「師匠?」

「あ、俺こいつの師匠になったから」

「ふぅん。何の師匠なんです?」

「……人生の?」

「それは小夜ちゃんの将来が台無しになるのでやめてください」

「俺もそう思う。新八さんはやめておけ」

「お前ら年長者は敬えよ!」

「僕は師匠と斎藤さんについて行きます!」

 小夜の言葉に、沖田は子どものように口を尖らせた。

「二人共、私の小夜ちゃんを盗らないでくださいよぉ~」

「ほう。お前、総司とはそういう関係……」

「待て、小夜はうちの三番隊だ。総司に渡した覚えなど無い」

「沖田さんんんん!!色々と変な誤解を招くような表現やめてください!」

 てゆうか私は沖田さんの所有物じゃありませんよ!

「あれ、恋仲の意味はもう知ってるんですね」

「…時尾さんが……」

「顔、赤くなってます」

「なってませんっ!」


 皆の笑い声が厠の方向へ消えていく。やがて、誰もいなくなった後の道場で、一つの影が動いた。

「ふふふ……キミの力は素晴らしい。“秋月”君」

 黒縮緬の羽織を着たその人影は――――伊東甲子太郎


 夜。大広間から隊士達の賑やかな話し声が聞こえる。だが沖田は一人、人気の無い道場の裏にいた。

「ゲホ、ゴホッ……」

 口を抑えた右手には少量だが……血が付いていた。

 ……昼間は、危なかった

 彼女に答えたことは、半分は本当で半分は嘘だ。鍔迫り合いになった時、小夜は精一杯の力を入れているようだったが自分にはまだ余裕があった。

――――これなら勝てる

 そう思い力を込めようとした時、

――――!!

 頭の中がクラッと揺れ、奥から何かが込み上げてくる感覚……

 今は、ダメだ……!!

 周りにはみんながいるし、何より目の前には小夜がいる。咳をするのは堪えられたが、足元がふらつくのは止められなかった。

「ゲホゲホ……はぁ、はぁ……」

 みんなには小夜ちゃんの攻撃を誘ったように見えたはず。藤堂くんも「総司って本当に性格悪いよなー」って言ってましたし。

 池田屋騒動以来、しばしば咳が止まらなくこの状態に違和感があった。他の人には風邪で通しているけど。

 もしかして、労咳……でしょうか

 労咳といえば患えば死に至る病。だけど自分でもその考えに現実味が持てなかった。

 だって別に、元気ですし

 昼間のようなこともたまにはあるがそれ以外は何の異変も無い。隊務も普通にこなせる。

 それに、医者に通ったり誰かに言えば近藤さん土方さんあたりは必要以上に心配するだろうし、江戸に残してきた姉にも伝えられてしまうだろう。

 書簡でしか様子を知られない姉さんが、弟の自分が病だと知れば……どれほど心配させてしまうか。

「やっぱり言えないな……ゲホッ、コホッ」

「総司」

「……んっ、あれれ、本当に一くんは心臓に悪い人ですね。いつからそこにいたんです?」

 どうやら考え込んでいたせいで気付かなかったらしい。

(こんなことでは一番隊組長の名が泣きますねぇ)

「昼間の試合、わざとよろけたわけじゃないだろう」

「わざとですよ。藤堂くんも言ってたでしょ。私は性格が悪いんです」

 そこで斎藤は、沖田の手に赤いものが付いていることに気がついた。

「それは血か?」

 沖田はハッとして手を隠すと無言で歩み寄ってきた。その姿に思わず刀に手が伸びそうになる。沖田の目に浮かんでいたのは殺気ともとれるような激しい光だったからだ。

「一くん」

 月明かりの下で見ると唇の端にも血が付いていた。

 ……血を、吐いたのか

「今見たことは、誰にも言わないでください」

 いつも笑顔で自分とは対称に口数の多い沖田の、こんなに必死な表情を見たのは初めてかもしれない。

 斎藤は、長年付き合いのあったこの友の身体が、月明かりの下にいるにもかかわらず黒い影に覆われているような錯覚を覚えた。

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