第7話 桜、時々、血
「今日はここまで」
「あ、ありがとうございました」
小夜は額に浮かんだ汗を拭い、頭を下げた。
「はい秋月くん」
「……ありがとうございます」
笑顔で差し出された大福を受け取った。まるで餌付けされてるみたいだな、と思うけど、美味しいから断れない。
「大分上達しましたね~」
「本当ですか?」
沖田に剣の稽古をつけてもらった後、縁側に並んで一緒におやつを食べるのは、いつの間にか習慣のようになっていた。
「本当ですよ。剣も放り投げなくなってきましたたし」
「なら、もう結ぶ必要無いじゃないですか」
小夜は稽古の間中、両手と竹刀を結んでいた手拭いをヒラヒラさせた。
「それはダメです」
「どうしてですか?」
「だって、縛った方が面白いですから」
にっこり笑顔で、とんでもない理由を述べた沖田。普段は親切で優しいのに、こういう感覚がどこから来るのか理解できない。
本当に、よくわからない人だよなぁ
「それから、秋月くんはもう、刀で人を斬ったでしょう?」
「…はい」
今年に入ってすぐの巡察で、小夜は初めて刀で人を斬った。その時の感触は今も手のひらに残っている。斬った瞬間に感じたことも。
でも、そのことを沖田さんに話した覚えは無いんだけど
「一度、生身の人を斬ると剣は変わるんですよ。やっぱり経験の差なんでしょうかね?」
「…」
人懐こい笑顔に黙り込む。確かに、その違いは自分にも覚えがあった。
「あれ?」
「何ですか?」
「血が滲んでますね」
稽古の間に拵えてしまったのか、小夜の頬に血が滲む程度の小さな傷ができていた。
「別にこれくらい、何ともな…」
いです、という言葉の続きは、喉の奥に引っ込んでしまった。
ぴしっと、金縛りにあったみたいに動けなくなった。自分の頬を、温かいものが滑っている。
沖田の指先が、血の滲んでいる部分を、驚くほど優しい所作でなぞっていた。
「困ったなぁ。きみの顔に怪我なんてさせたら、保護者の山崎くんに怒られそうですね」
「……」
前に頬を引き伸ばされた時とは全く違う。ただ手が触れているだけなのに、身動きすらとれない。
でも、よくわかんないけど、
沖田さんの手、すべすべして、あったかい……
身動きできないまま、目の前の笑顔を眺めていると、今度は妙な感覚に陥ってきた。沖田の指先が触れている部分が、じわじわと熱を持ち始める。
……何、これ
一度生まれた熱はあっという間に頬から耳の辺りまで広がってしまった。何故か目を合わせていられなり慌てて横を向く。
「やっと女の子らしくなってきましたね~。そっちの方が可愛いですよ」
ふわっと小夜の顔を覗き込むようにして笑った。次の瞬間、
―――――バシッ
沖田の右の頬に重たい衝撃が走った。縁側を転がるように駆けて行く小夜の姿が視界の端に映る。
「あれれ。こういう時は、平手打ちって聞いたんだけどなぁ。永倉さんから」
小夜の拳が炸裂した、ヒリヒリ、というよりもズキズキと痛む頬を抑え黒い笑みを浮かべる。
「ふぅん。明日の稽古が楽しみですねぇ~」
「沖田さんは、小夜ちゃんが女の子やってこと忘れてるんと違う?」
昨日、沖田の頬をぶん殴った小夜は今日の稽古でいつも以上に散々な目に遭った。手当てをしてもらおうと山崎の所を訪れたのだが、小夜の怪我を見た山崎はずっと怒りっぱなしだ。
「大体、何で稽古でこないなまで怪我するん?全くあの人は」
「しょうがないよ。今日は半分くらい私も悪いし」
昨日の出来事は山崎には話していない。頬に触れた沖田の指先を思い返す度に、何故か身動きできなくなってしまう。あんな感覚は生まれて初めてだった。
「しょうがなくないやろ!いいから小夜ちゃんは黙ってじっとしててな」
「烝くんって、沖田さん苦手?」
烝くんは、滅多に声を荒げたりしない。それに何だか苛々してるみたいだし。だから、もしかしてと思って言ってみた。案の定、烝くんは眉間に皺を寄せている。
「俺が怒ってるんは、小夜ちゃんに怪我させたからや!」
そう吠えてから、烝くんは小さな声で付け足した。
「……沖田さんを好かんのは、ちゃんと笑わへんからや」
「え?」
私の記憶違いでなければ、沖田さんは笑顔を浮かべていない時の方が少ない。それに“ちゃんと”って?
「ああいう薄っぺらな笑顔見とると腹立つわ」
笑顔が薄っぺらいって、どういう意味だろう?
「よし、これで手当ては終わり。あとは俺が沖田さんに、小夜ちゃんがやられた分を仕返しすればバッチリやな」
「それはまた喧嘩になっちゃうからダメだって!」
前のように運良く藤堂が通りかかるとは限らない。とにかく話題を変えようと、大急ぎで別の話題を探す。
「そ、そういえば明日だよね?」
「あぁ、そやな」
明日は新撰組でお花見に行くらしい。発案者は局長の近藤さん。もちろん隊務を怠るわけにはいかないから、全員では行かないみたいだけど。
「小夜ちゃん行くんやろ?」
「うん。お花見したことないって言ったらサブが『絶対行こう』って」
私はみんなが常識として知っていることを知らない場合が多い。お花見然り、こいなか然り。
それは多分、私が育った環境のせいなんだろうけど。でも、これから知っていけばいいんだよね
そう考えられるようになったのも、新撰組のみんなのおかげなのかな
「烝くんは?」
「俺は行かへん。幹部の留守中に何かあったら困るし」
「つまんないの」
「ま、小夜ちゃんがそう思ってくれるのは有難いわ。ほなら、俺はちょっと沖田さんの所に……」
「だから喧嘩はダメだってば!」
「人聞き悪いこと言わんといてな。隊務や、隊務」
「じゃあその大量のクナイは何?!」
「あ、バレた?」
「もうっ」
――――――…
「新撰組!満開の桜に向けて、いざ出陣!!」
「「おーう!!」」
翌日、近藤の号令と共に、新撰組一行は桜を見るべく出発した。
「わぁっ」
目的地では、まさに“満開”という言葉がふさわしい桜が咲き誇っていた。思わず弾んだ声を上げた小夜に、隣を歩いていたサブが苦笑する。
「彼方ってば、はしゃぎすぎ」
「だってこんな桜、見たことない」
「お前、花見したことないって本当だったんだ」
「なに。疑ってたの」
「あっ!あっちで準備やってるから手伝いに行こうぜー!」
誤魔化すように走りだしたサブの後を追おうとした……のだが、
「あ、秋月くん。ちょっといいですか?」
「ぶはっ!?」
いきなり背後から襟を掴まれて首が締まった。
「橘くん。この子借りますよ~」
「人をモノみたいに言わないでください」
「そうですよ沖田組長!彼方はオレのもんです!!」
「いつから僕はサブのものになったの」
「二人共、何か私に文句でも?」
―――――ぞくり
「「いえいえいえいえっ!」」
沖田さん顔は笑ってるのに怖い!
サブは恐怖に顔を引きつらせて、皆が集まっている方へ行ってしまった。
「あの……何か用ですか?」
一昨日のことを気にしているのだろう。こちらを警戒する小夜があまりにも怯えた猫そっくりで、何だか可笑しくなった。
「ちょっとね」
手を伸ばして小夜の髪に触れる。
「?」
「動かないでください」
首を傾げようとした矢先に言われたため、妙な角度で静止してしまった。
うぅ、この角度キツい……沖田さん何してるんだろ?
「よし、と。取れました」
髪に触れていた手を、小夜の前で開いた。
「花びら?」
沖田の手から零れ落ちた小さな桜の一片を、自分の手のひらで受け止めた。
「髪に付いていたんですよ」
そっか。髪に花びらが付いてたから取ってくれたんだ。でも……
「それだけ?」
あ、口に出しちゃった。
「ん?」
しかも普通に聞き返されちゃった。
「な、何でもないです」
「髪から花びらを取る以外で、何か用事が欲しかったんですか?」
何だか笑顔が輝いているのは気のせい?てゆうかちゃんと聞こえてたんですか意地悪沖田さんめ
「そういう意味じゃないです!何か……」
そういう意味ってどういう意味だ、と頭の中で勝手に一人芝居が繰り広げられる。
だ、だから、ただ髪から花びらを取るだけならサブがいたって良いんじゃないのって思っただけで!
って、何でこんなに焦っているんだろう私は
「もちろん、ちゃんと用事はありますよ」
一人で混乱している小夜をお構い無しにのんびりと笑うと、すぃっと小夜の耳元に顔を寄せた。
沖田の吐息が感じ取れるほどに。
「さっきみたいにあんまりはしゃいでると、女の子だってバレちゃいますよ」
「っ!」
「こんな話、橘くんがいたら出来ないでしょう?」
自分の意志とは関係なく頬や耳にかぁっと熱がこもる。沖田はすぐに顔を離したのに、小夜からはなかなか熱が引かなかった。
私、どうしちゃったんだろう
「あ、向こうはもう始めてるみたいですね。私達も行きましょうか」
何事も無かったかのようにふんわりと微笑む沖田さんは、やっぱり親切なのか意地悪なのかよくわからない。
手の中の花びらを、そっと空へ放してから沖田の後を追った。
沖田と小夜が皆の所へ着いた時には、既に何名か酔っていた。
「いいかぁ!?よーく聞けよ!オレの腹は、そんじょそこらの腹じゃねーんだ、金物の味を知ってんだぜぇっ!!」
上半身の着物を完全にはだけた原田が、徳利片手に雄叫びを上げていた。見れば彼の腹には真一文字の傷痕がある。昔、口喧嘩が発展して切腹しかけた傷なんだそうだ。
どうやら酒を飲むたびに披露しているらしく、永倉は「見飽きた」と欠伸をした。
「あいつ、故郷の伊予じゃ“死に損ねの左之助”なんて呼ばれてたらしいぜ。しかも本人はそれを自慢にしてんだから大した奴だよ」
「つまり大した馬鹿ってことですか」
「そうだな」
「ぁあ~?てめーら腹も切れねぇくせに何言ってんだぁ?つか小夜も飲めよ……ぐぶぁっ!」
「他の隊士が居る時に名前呼ばないで。何回言えばわかるの原田さん」
「……やっぱり馬鹿なんだな。そういやぁ、酒はいいのか?」
小夜の鉄拳を腹の傷痕に食らって悶絶する原田を横目で見ながら、永倉は徳利を振ってみせた。
「僕、お酒飲んじゃいけないらしいんです。何でか知りませんけど」
小夜は実家の父親から飲酒を固く禁じられていた。だから酒を飲んだことは無い。
「ふーん。ま、無理して飲むモンでもねぇからな。じゃ、一ちゃん飲みな」
「その呼び方はやめろ」
とても嫌だ、という感情がこれ以上無いほど滲み出ている声がした。
「なんだ怒るこたぁねぇだろう」
「怒ってなどいない。嫌なだけだ」
振り返るとそこにはいつからいたのか斎藤が不機嫌な顔で座っていた。
もしかして“一ちゃん”って、斎藤さんのこと?
「……ぷっ」
「笑うな」
「す、すいません。なんか……」
本人の印象とあだ名がかけ離れてて面白いです!
なんて言えるはずもなく、必死で笑いをこらえた。
「いいじゃねぇか。仏頂面より笑ってる方が。ってことで今日は飲もうぜ。な?一ちゃん」
「……」
永倉はほろ酔い気味なのかわざとなのか、斎藤が出すピリピリした空気をあっさりと受け流している。両者に挟まれた小夜の、居心地の悪さは相当なものであった。そんな矢先、
「秋月ー!こっち来てー!枝に手ぇ届いたよ!」
見ると桜の木の下で藤堂が、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。
藤堂さんって、なんて間の良い時にいつも声をかけてくれるんだろう。
「はい!」
小夜はピリピリした空気から逃げ出すように藤堂のところへ走って行った。
それから小夜と藤堂は、ひらひらと舞う桜の花びらを空中で受け止めようと追いかけたり、どちらが多く枝に手が届くか競ったりと、幼子のように駆け回った。
「悔しい」
「仕方ないよ。さすがに秋月より僕の方が背ぇ高いし」
体格の良い幹部隊士の中で藤堂は唯一小柄だが、それでも小夜よりは背が高い。小夜は恨めしそうに自分の手が届かなかった桜の枝を見上げた。
「誰かに肩車してもらえば届くんじゃない?」
「かたぐるま?」
「あ、知らないかな。肩車ってのは「おーぅ、オレに任せろッ!」
「ひゃっ!?」
突然、身体が宙に浮いた。思わず目を瞑ってから、恐る恐る目を開けると、
「は、原田さん!?」
小夜は原田の肩に座っているような格好になっていた。気を抜いたら後ろに倒れてしまいそうで、咄嗟に原田の髪をギュッと掴む。
「うぉ!イテーよ!」
「だって、何これ、何してんの」
「ぁあ?肩車だよ。小夜から頼んできたんじゃねーか」
なるほど、肩に乗るから肩車か。でも頼んだ覚えは無いんだけど……って、高い!原田さん大きいから余計に高い!
「さっ左之さん足!」
しかも恐ろしいことに、酔っている原田は足元がフラついていた。その振動はもちろん小夜にも伝わる。
「原田さん!肩車の意味はわかったから下ろして!」
こんな状態で転ばれたら、原田さんも私も大変だよ!
「はっはっは。いいってことよ。オレぁまだまだ酔ってねーから」
「お酒臭い」
「それより、桜は見ねーの?」
そう言われて顔を上げると、ちょうど目の高さに桜が咲いていた。
「うわぁ……!」
目の前を覆い尽くす桜の花。視界が薄桃色に染まっている。幻想的な光景に、小夜は思わず手を伸ばした。
その後、あっという間に時間は過ぎ夕暮れとなった。隊士のほとんどはもう帰営するらしい。
「あ、サブ」
蓙の上で一人座り込むサブの後ろ姿を見つけた。
「そろそろ帰るって……「彼方ぁぁぁぁっ」
振り向きざまサブはこちらに倒れかかってきた。
「なに?」
「オレもうダメなんだぁよぉ~」
「……はぁ?」
何故か、サブは大粒の涙をボロボロと流している。
「うわぁぁぁぁ~ん」
自分の辛い過去を話した時さえ、懸命に涙を堪えていた人物と同一とは思えないほど泣き喚くサブ。首を傾げていると斎藤がやって来て、有無を言わさずサブを引きずり起こした。
「橘は酔うと泣く。放っておけ」
「……」
「うわぁぁぁぁ~うえぇぇぇぇん…………うぷっ」
突然口を抑えたサブを、斎藤は無言で隅の方へ引きずって行った。
よくわからないけど、やっぱりお酒は飲まなくて正解かな
散らかった食べ物や酒を皆で片付けた後、ほかの隊士達と帰ろうとしたところで、土方に呼び止められた。
「これから試衛館の面子で飲みなおすんだ。斎藤は巡察があるからいねぇが、秋月も残れよ」
「どうして僕が?」
小夜は斎藤の三番隊なのだから巡察当番だ。それに試衛館の人達が飲んでる中に私がいるなんて、変だと思うんだけど。
「お前は幹部の小姓だろ?居ても咎める奴なんていねぇよ」
「……」
うーん。でも試衛館の人達って昔からのお付き合いなんだよね?だったら積もる話もあるだろうし
「いえ、帰ります。僕、お酒飲めないし」
「細かいこと気にすんじゃねぇよ」
「うわぁ」
ひ、土方さんが無邪気に笑ってる!
これもお酒の力!?
結局、初めて見た土方の屈託ない笑顔に押されて、その場に残ることになった。
「あのな、こういうのは雰囲気を楽しめりゃそれでいいんだ。
お前はもう殺し屋じゃねぇんだ、もっと人生の楽しみ方くらい知っとけ馬鹿」
土方は酒が入り薄ら赤らんだ顔でそう言い捨てた。
最後の二文字が、かなり気になるけど……もしかして気を遣ってくれたのかな
土方と近藤、山南達は大きな桜の木の下で談笑している。昔の思い出話でもしているのだろうか。向こうの方では原田と藤堂が何か大声で騒いでいる。そして、薄桃色の桜が舞う藍色の空……
夜空に散る桜って、こんなに綺麗なんだ。これが見れたから、やっぱり残って良かった
いい空気に浸ってのんびりしていた小夜の所へ、原田と永倉がやって来た。
否、やって来てしまった。
「おい小夜!おめぇ全っ然飲んでねぇじゃねーか!」
原田は既に千鳥足だ。顔も真っ赤だし、相当飲んだのだろう。
「だから、僕お酒は飲めないんだってば」
「花見で酒を飲まねぇなんて非常識だろうが!!」
さっきは比較的まともだった永倉まで、ただの酔っぱらいと化していた。
永倉さん、言ってることが昼間と正反対なんですけど……
「僕には永倉さんの自論の方が、非常識に聞こえます」
「ぁあ!?花見と酒ってのはな、切っても切れねぇ関係なんだよ!いいから飲めって」
「ちょ、」
永倉は猪口に酒を注ぎ、小夜の手に押し付けてきた。
永倉さんってこんな人だったっけ?
誰かに助けを求めようと辺りを見回すと、一人手酌で飲んでいる沖田を発見した。
「あの……沖田さんっ」
「ん?」
沖田は、永倉と原田に挟まれた小夜を見ると、にっこり笑った。
「あ、酔っ払った永倉さんに捕まっちゃったんですか~。ご愁傷さま」
た、助けてくれないんですか!?
絶望した表情の小夜に、笑顔のまま軽く合掌すると、
「土方さんに二日酔いになってもらおうっと♪」
徳利を手に行ってしまった。残されたのは、酔っぱらい二人と小夜のみ。
「えーと、藤堂さんはどこに?」
「平助ならあっちで倒れてるぜー。オレと飲み比べなんて百年以上早いってんだ!」
頼みの藤堂さんまで!!
胸を張って威張る原田に、小夜の希望は微塵に打ち砕かれた。
「秋月。まさかお前、俺が注いだ酒が飲めねぇってんじゃあねぇだろうなぁ!?」
「な、永倉さん落ち着いてください……」
「これが落ち着いていられるかぁっ!!」
普段は冷静な永倉さんを、こんなにするなんてお酒の力、恐るべし。
ともかく永倉さんを静めるには、私がお酒を飲むしかないのか
父から禁じられた未知の液体。
昼間から散々目にしてきた、酒のせいで変になった皆の姿が脳裏を過る。
私もあんなになっちゃうのだろうか
だけど、飲まなきゃこの危機を乗り越えることはできない。
「……じゃあ、一杯だけいただきます」
「おう、その返事を待ってたぜ!」
申し訳ありません父上!私、飲みます!
手元の杯を睨み、小夜は意を決して酒を喉に流し込んだ。
「……」
「どうよ?人生初の酒の味は」
「普通。なんか、舌が痛い」
初めてのお酒は、拍子抜けするほど普通だった。鼻の奥でほんのりと炊く前の米の香りがする。が。永倉さんみたいに喚きたくなったり、サブみたいに泣きたくなったりはしない。
「もっと、とんでもない物だと思ってました」
「お、こりゃあイケる口かもしれねぇな。左之がそろそろ限界らしいから付き合ってくれよ」
永倉は満足そうに笑い、酒を注ぎ足してきた。
一杯だけって言ったのに。
まぁ、もし何か異変が起きたら止めればいいかな
それからしばらくは何の変化も無かったのだが。
「……」
身体が熱くて、目のふちがぼうっとなってきた。頭の中がふわふわする。
「なんだ?酔ったか?」
「……僕、屯所に帰ります」
立ち上がると、足から骨が抜けてしまったかのように力が入らない。これじゃまるでさっきの原田さんだ。
「おぅそうか。残念だなぁ」
ちょうど酔いが落ち着いていたらしい永倉は意外にもあっさりと解放してくれた。
どうやら私は酔ったらしい。
酒の力で豹変した人達のことを思い出し、酔った姿を他人に見られるのは絶対に嫌だと思った。
小夜は覚束ない足取りのまま、一人で屯所へ向かって歩き出した。
「梅の花ぁぁぁ!一輪咲いても梅は…………梅だああああッ!!」
「あははははっ!土方さん面白すぎ!」
これ以上聞いてたら、お腹が捩れちゃいそう!
先程、小指の先くらい申し訳なく思いながら小夜を見捨てた後、思惑通りに土方を酔わせた沖田は大満足していた。
土方は下戸である。江戸に居た頃はよく皆で土方に酒を飲ませ、翌日の凄まじい二日酔いをからかったりしていたが、京へ来てからはそんな時間も金も無かった。
「すぁ(さ)しむかぁう~……」
土方が叫んでいるのは彼自身が詠んだ俳句。“鬼の副長”の肩書きとは裏腹に土方の句は女性的なものが多い。
私は土方さんの句、好きですけどね。可愛いし。
普段は自分の句を他人に見せたがらないが、今日は随分うまく酔いが回ったらしい。
「……あれ?」
ふと辺りを見回すと、一人いなくなっていることに気が付いた。
「永倉さん。秋月くんはどうしたんです?」
「あいつぁ……ひっく、非常識な奴だ……」
「私には、今の永倉さんの方が非常識に見えます」
沖田の言葉に、気持ち良く酔い潰れていた永倉は薄目を開けた。
「何だぁ総司、おめぇ秋月みてぇなこと言いやがって……そういやあいつ、どこ行ったんだ?」
「私はそれを聞くためにわざわざ酔っ払って面倒くさい時の永倉さんに話しかけてしまっているんですよ」
永倉は自分が罵倒されていることにも気付かず、懸命に記憶を辿りだした。
「えーと確か……あぁ、あいつ酒飲めねぇとか言ってたくせに、飲ませたら意外といけてなぁ……で、なんか酔ったから帰る……みたいなこと言ってなかったっけか?なぁ左之…」
「ぐお~ぐお~ぐお~」
「無理やり酒を飲ませた挙句、一人で屯所まで帰らせたんですか」
こんな人達の所に秋月くんを置き去りにするんじゃなかった。
何だか嫌な予感がする。
「山南さん。私は先に失礼します。土方さんをお願いできますか?」
強ばった沖田の声から山南は何か察してくれたらしい。
「えぇ、かまいませんよ。こんなに面白い土方君は滅多に見られませんしね」
「総司!へめぇ、まだ俺の句は終わってねぇっ」
「はいはい土方君。私で良ければ拝聴しますよ」
土方を宥める山南に頭を下げてから、夜道を駆け出した。
何だかすごく鼓動が速い。まるで私を急き立てているみたいだ。
早く秋月くんを見つけなくちゃって。
「知れば迷いぃ……」
土方の声が、駆ける沖田の背を追うように響いた。
――――――…
小夜は京の夜道を、フラフラとした足取りで歩いていた。
うぅ~、これは飲み過ぎってやつかなぁ
身体を動かすのがひどく疲れる。気を抜いたら座り込んでしまいそうだ。意識もはっきりしなくて、自分が今どの辺りを歩いているのかもよくわかっていなかった。
――――とん
何かが肩に触れた。だがそれも小夜の意識を覚醒させるには至らず、そのまま通り過ぎようとしたのだが、
「兄ちゃん。ごめんなさいは?」
「は?」
「人にぶつかったら謝るんが筋ってもんやろ?」
「……」
「兄貴。こいつ酔ってるみたいですぜ」
いつの間にか四五人の人相の悪い男達に囲まれていた。刀を差してはいるが身なりは汚く、藩主を持たない浪人らしい。
「丁度えぇ。謝るついでに、色々もろうてくか」
「女みてぇな顔した野郎だな」
「へへっ、兄ちゃん自身が売れるんじゃねぇか?」
男達が勝手なことを言い合っている間も、小夜はぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
逃げ、なきゃ
自分が危険な状況にあるのはわかっている。だけど、どうしても体が動こうとしない。
「こいつ、全然反応しねぇな」
「かまうもんか。やっちまえ!」
男達は一斉に飛び掛かってきた。
――――どくん
「?」
――――どくん、どくん
自分の鼓動が妙に大きく耳を打った。
これもお酒の影響?でも、この感覚……
意識が急速に奪われていく。
(人間……人間だ……私の前にいるってことは、殺していいんだよね)
(さっきの桜、綺麗だったなぁ。……あれ?桜なんて見たっけ?)
(ダメだ。頭がフラフラする……)
「あーあ。秋月くんって運が悪いんですねぇ」
数人の男達に囲まれている小夜を遠目で見つけた。まさか見捨てるわけにもいかず、静かに刀を抜き、走り出そうとした瞬間、
小夜を囲んでいた男達の喉から勢いよく血が噴き出した。
「なっ……!?」
――――ドサリ
男達は己が流した血の海に倒れた。歩調を緩め、気配を消して近づく。彼らを屠った者が近くに潜んでいると思ったからだ。
(誰も、いない?)
周りに自分と小夜以外の人の気配は無い。だが男達が倒れた時に小夜が刀を抜いたようにも見えなかった。今も、まるで何事も無かったかのように死体の中心に立っている。しかし現に目の前で、小夜を襲おうとした連中は全員、喉を切られて死んだ。
――――ザリッ
(しまった!)
焦りからか、草履が砂利を踏んでしまった。その音で小夜がゆっくり……ゆっくりと振り返る。
「……」
小夜の左手から鮮やかな紅い液体が滴り落ちている。酒のためか微かに上気した顔は、面のように無表情だった。そして何より目を奪ったのは……
小夜の瞳が、秋空のような澄んだ蒼色をしていたこと。
「やっぱりきみは、ただの女の子ではないみたいですね」
明らかに様子がおかしい。自分にも向かって来るかもしれない。
「……」
小夜が、ふらふらと沖田に歩み寄って来た。小夜の後ろには血まみれで倒れた男達の姿がある。
(斬る、しかないですか)
刀を構え、地を蹴ろうとした、その時、
――――ヒュッ
黒い人影が小夜の脇を通り過ぎ、小夜はその場に崩れ落ちる。
「ご無事ですか、沖田さん」
暗闇から現れたその人影は、山崎だった。
「私は、無事です」
「秋月なら問題ありません。目が覚めれば元に戻ります」
その言葉から、小夜が今のような状態になることがあるのだと、山崎は知っていたとわかった。
「今のは一体何ですか?お酒を飲んだ秋月くんは血に狂った殺人鬼になるなんて、私は聞いていませんよ」
一瞬で人の命を奪ったこと。蒼い瞳。そして人形のような表情。
どう見ても普通では無かった。
「俺も、我を忘れてこうなった秋月は初めて見ました。今のは秋月家に伝わる[猫]という秘術の一つです。恐らく酒のせいで暴走したのでしょう」
「ねこ?」
「はい。とりあえず俺は死体の処理をするので、沖田さんは秋月を屯所まで運んでいただけますか?」
「別にいいですけど……」
「屯所に着くまでなら目覚めないかと思いますが」
「そのことじゃありません。帰り道で秋月くんが起きて、まだ狂っていたら私が斬りますから。ただ、」
「ただ?」
「秋月くん、血まみれだなって思っただけですよ」
沖田は「よいしょ」と言いながら軽々と小夜を抱き上げ、屯所の方へ歩き出した。
「小夜ちゃんは、いつだって血まみれなんや……」
残された山崎は、表情を歪め一人呟いた。
(秋月くんは刀を抜いていなかった。でも相手の喉の切り口は、刃物で切ったようにすっぱりと切れていた。それにしても、手が、血だらけじゃないですか……)
山崎が戻ってきたのは夜中を過ぎた頃だった。
「沖田さん。秋月は?」
「まだ目を覚ましていないから、部屋に寝かせてきましたけど」
「っ!今の秋月から目を離したら駄目です!」
山崎は何故か慌てて勝手場へ向かう。
「あぁ……間に合わんかった……」
――――――…
翌日、小夜は永倉と原田から凄まじい勢いで頭を下げられた。
「そんなに謝らないでくださいよ。僕、昨日のこと覚えてないし」
永倉から酒を飲まされたことまでは覚えているが、その後は何故か記憶が無い。山崎の話では、帰り道の途中で眠っていたところを沖田が発見し、連れて帰って来たらしい。
それ、つまり酔い潰れてたってことだよね?
うわぁぁ恥ずかしい。後で沖田さんに謝ろう。
そして屯所では一つ事件が起きていた。勝手場にあった食料が大量になくなっていたのだ。土方が二日酔いで行動不能のため落雷には至らなかったが、朝食と昼食は残り物を搔き集めた雑炊のみだった。空腹感を引きずりながら、小夜は縁側へ向かう。
「あ、秋月くん」
目当ての人物、沖田はやはりそこにいた。
「昨日はすみません。迷惑かけてしまったみたいで……」
「何のことです?」
「沖田さんが、潰れた私を屯所まで運んでくださったと聞いたので」
「あぁ、気にしないでください。それより、本当に覚えていないんですか?昨晩のこと」
「うーん……」
昨日は、初めてお花見をした。
桜が綺麗だった。
原田さんはやっぱり馬鹿だった。
土方さんが笑った。
それから夜桜を見て、酔っ払った永倉さんにお酒を飲まされて、
その後は……?
「山崎くんからは、他言するなと言われたんですけど」
「はい?」
「今日は、黒目なんですねぇ」
「―――!?」
え、
……まさか、
思い当たったのは恐ろしい可能性。
いや、あり得ない。使った覚えなんて無い。
懸命に記憶を手繰る。お酒が回って何だか頭がぼうっとして、それから……
『かまうもんか。やっちまえ!』
記憶の底から漸く浮かび上がってきたのは、桜と血が舞う夜の空。
「どう、して」
思い出した記憶に納得がいかない。相手を殺すつもりなんて、無かったのに。
混乱する小夜に追い討ちをかけるように、沖田は笑顔のまま言葉を継いだ。
「あんな光景見たら、益々きみを信用できなくなりました」
「え……?」
今、“益々”って言った。
「どうして私がいつもきみの近くにいるか、わかりますか?」
―――いやだ、聞きたくない。
直感で聞いちゃダメだと思った。次の言葉に、きっと私は耐えられない。
「私がきみの近くにいる理由は、きみが新撰組の誰かを狙う刺客かもしれないからです。山崎くんは否定していましたけど。でも可能性は否めないでしょう?もし、きみが怪しい動きをしたら斬りますよ。
つまり、私は秋月くんのことを信用していないってことです」
「……」
それ以上は耐えられなかった。何を言う余裕もなく沖田に背を向け、小夜はその場から逃げ出した。
私、沖田さんの前で使ったんだ。
そうか、父上が私に飲酒を禁じたのは、私がお酒に酔うと[あれ]を解放してしまうことを、きっと知っていたんだ。
自室まで駆け戻り、ぴったりと襖を閉めた。今は、誰にも会いたくない。
『私はきみを信用していないってことです』
笑顔のまま放たれた沖田の言葉。私はここに来た日からずっと、仲間だとは思われていなかったんだ。
稽古などのやり方は荒っぽかったり意地悪だったりしたが、小夜は沖田に大きな反感を持ってはいなかった。だけど、沖田さんは違ったんだ。
『ああいう薄っぺらな笑顔見とるとイライラする』
あの笑顔は表面だけ。本当はずっと、沖田さんは私を疑いの目で見ていた……
誰かから信用されていないことなんて、以前の私なら何も感じなかった。人はただ、仕事の対象。そして相手から信用されることは仕事の内に入らないんだから。
それなのに今は……胸の奥がヒリヒリして、息を吸うたびに体が震える。
私、本当にどうしちゃったんだろう
あの不思議な感覚をもたらした、頬に触れた沖田の手の感触が頭を過ったが、それも今は小夜を痛めつけるだけだった。
――――――…
「ふぅ。ちょっと言い過ぎましたか」
「ちょっとどころではないだろう」
振り向くと、いつからいたのか斎藤が立っていた。
「いやだな、盗み聞きですか?」
「ふん。随分と心にも無いことを言ったものだな」
「……最初はただ、あの無表情を崩してみたかっただけだったんですけどね」
斎藤は呆れたように鼻を鳴らして通りすぎて行った。
初めて会った時には、何を言っても笑わない、変な娘だなぁと思った。だからこそ、たまに表情が変わるのを見るのが面白かった。軽い興味本位で稽古をみることにもなって。彼女の表情が変われば、それが怒った顔でも戸惑う顔でも、どうでも良かったのだ。
だけど……
秋月くんが、新撰組に入り込んだ刺客じゃないかって、全く疑っていないわけじゃない。
だけど、私の言葉を聞いた彼女の表情は……
小夜の頬に触れた感触が、不意に思い出される。柔らかくて、あったかかった。頬を染める小夜を見て、ずっと触れられたらいいのにと思った。
そして、そう感じた自分に、戸惑っている自分がいたことは確か。
にゃーん
「あ。きみは、タマ……でしたっけ?」
中庭に現れた三毛猫が、じっとこちらを見つめていた。屯所に寄り付く猫の中で、一番小夜に懐いている猫だ。声をかけたついでに手を伸ばしたのだが、
に゛ゃっ
怒ったように背を丸め、タマは走り去ってしまった。
秋月くんのこと、きみまで怒っているんですか?
「はぁ……」
沖田は、タマが去った方角をぼんやりと見つめていた。
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