第52話 エピローグ ラスの手紙

『親愛なるレイ、いや、メル(君はどちらの名がより好きかな?)


 僕は今日、遅ればせながらの夏休暇に発つけれど、その前に、君宛の手紙を書いている。いつか君と一緒に遊んだ、文字が消える“秘密のインキ”でね。


 君がこの手紙を読む確率なんて、大昔に恐竜を滅ぼした巨大な隕石が5つまとめて落ちてくるより低いんだろう。馬鹿げているかもしれない、でもとにかく僕は書かずにはいられないんだ。それはもう、長い長い手紙になるけれど。


        ***


 君がいなくなって、そろそろ1ヵ月。あれから僕たちは、深く悲しみ続けてきた。特に、マキシマ家の人たちの悲しみようといったらなかった。でも、最近ようやく、誰もがみな少しずつ日常を取り戻しつつあるようだ。

 カイは言った、いつまでも泣いてられないと。リサも同じ気持ちだと。ミナと母上も言った、そんな彼には負けられないと。…今も時々、不意に涙を零したりしているけれど。


 そんな彼らを、僕は複雑な思いで見ている。彼女たちと同等の哀しみと、そして、後ろめたさ―君について、彼女たちにすら語れない秘密を持っていることへのね。


        ***


 秘密。

 みんながずっと“レイ”と呼んでいた君の名前が、実は“メル”であったこと。

 9年前のある日、赤ん坊だった君が海に出ていた漁師に連れられやって来たこと。その手に1枚ずつ、しっかりと小さなコインを握りしめて。漁師は言った、『イルカが海ン中からこの赤ん坊を船縁に押し上げてきた』と。そんなまさかと誰もが言ったそうだけど、実際、君は普通の人間とは到底思えないほど、水に強かった。そう、君は数十分も、水中に留まることができる。バイタルを見ても、水の中のほうが、水の外よりも楽だったみたいだね。

 だけど、そうして水中で多くの時間を費やしてきた君が、数年前から、長時間水の中で過ごすことが減ってきた。僕にだけこっそりと、ずっと水に入っていると、体が変化するようで怖い、と言ったね。だけど、ずっと水の外にいるのもしんどい。研究者たちはどうしたことかと言っていたけれど、僕はそのころ1つの仮説を立てていた。まあ、それについては、あとで触れよう。まずは秘密の続き。


 どうした経緯か、君が7年前から、僕も属している研究機関で研究対象となっていた(そう、僕の勤めるトリニタホスピタルは、実は単なる病院ではなく生態的な研究機関も兼ねている)。当時まだ医学生だった僕は、学費免除の代りに、君に秘密裏に関わることになった。そんな知り合い方だったけれど、僕は、君をずっと小さな親友と思っていたよ。君がどう思っていたかは、わからないけれど。

 さらに秘密がもう1つ、君があのマキシマ家の人々と出会い、一緒に過ごすことになったのは、決して単なる偶然ではなかった、ということ―。


        ***


 6月の半ばに、君が、外の世界に行きたい、あの小さな迷い犬の飼い主を自分で見つけたいと言い出したときは、本当にびっくりした。外の世界に憧れていることは知っていたけど、実際に言い出すとは、しかもそのために驚くべき計画まで立てていたとは、思ってもいなかったから。


 結果的にかなりうまく行った君の計画だけど、当然、最初は僕も止めた。でも、君は、別人のように食い下がってきたね。それで、最後には僕も協力したわけだ。

 君は知らないだろうけど、あれは上の承諾を得ず、僕の一存でやったことだった。だから、君が病院に運び込まれるたび正直ひやひやものでね。研究棟と病院は離れているから、まあバレる恐れはなかったけれども。そんなわけで、君が出て行った後は大騒ぎになったんだ。特に、ずっと君を“研究”してきた彼はすごい剣幕で、絶対に連れ戻すと息巻いた。でも、もし追い詰められた君がすべてをぶちまけてしまったら―君の人権を無視して、強制的にあの研究室の水槽で“飼育”してきたことなんかをね―匂わせたら、関係者の誰もが波が引くように及び腰になり、黙認の態度に転じた。

 …ありがちな展開だろ? 自分を危険に晒したくない、くだらない連中だからさ。


 でもね、本当に最初はとっても心配したんだ。それは杞憂だとすぐにわかったけどね。可愛い闖入ちんにゅう者(君だ)にすっかり心を奪われたミナが、自ら“レイ”と名付けた子どものことを逐一語りたがるおかげで、僕は、ただ耳を傾けているだけでいろいろ知ることができた。君は本当にうまくやっていたようだね。


        ***


 さて、この手紙の目的は、近況報告や思い出話だけじゃなく、他にもあるんだ。

 僕たちは秘密を共有してきたけれど、実は僕自身、君に対して秘密を持っていた。それを、明かしておこうと思う。

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