第43話
◇ PM2:40
霧深い湖の上、ボートはじれったいほどゆっくりな速度で走っていく。重量の関係で、これが精いっぱいのスピードなのだと告げられた乗客たちは、ただ黙ってその“船旅”に耐えていた。それからどれだけの時間が経ったのか。
「あ、虹」
不意に誰かが呟き、皆がふと顔を上げた。淡い7色の、ぼうっと煙るような虹が架かっている。
「…きれい」
「うん」
「人間って、こんなときでもきれいなものをきれいと感じるのね」
「こんなときだから、じゃないか」
「…そうかも」
そんな会話を交わしながら、カイとリサもその光景に見入っていた。
***
膝を抱え蹲っていると、水音と微かな光が、心地よささえ感じさせてくれる。自分が今どこでどうしているのかも忘れて、無心に水音に耳を傾ける。
なぜか、子守唄のようだ、と思った。
どのくらいの時間、そうしていたのか。わずかに足を濡らす水の感覚に、ふと意識を引き戻された。自分がよく知るあの人工の水とは違う感触。触れた足先から何かがゆっくりと侵食してくるような感覚に、耐え切れず靴を脱ぎ捨てる。脱いだ靴を抱きしめながら、慎重に足を引き寄せて水から引き揚げ、水滴をふるい落とすが、違和感が止まることはなかった。
小さくため息を吐いたその直後、どくん、と心臓が高鳴り、体がすぅっ、と冷えて行くのを感じた。覚えがある。数ヵ月前に、あの水槽の中で感じたのと、同じ感覚、同じ違和感。じっとり冷たい汗が体中に浮かぶ。息苦しさから逃れようと深い呼吸を繰り返したが、それは叶わなかった。まるで、そこはもはや自分のいるべき場所ではないのだと言われているよう、そんなことをぼんやりと考える。
今回は、これからさらにまた変化が起きるのだろう。今度はどうなるかわからないが、おそらく、もう、後戻りはできない。
ああでも、思っていたよりも恐怖は無い、そう思いながら再び目を伏せようとしたとき、視界の隅に何かが映った気がした。顔を上げると、目に飛び込んできたのは、湖の上に架かる色のアーチ。海の上じゃないけれど、同じような広い水の上の―虹。
……ならば、あの虹にも、願を掛ければ叶うだろうか。みんなが無事に岸まで辿り着けるように。自分がいないこの先の日々も、ずっとずっと、幸せであるように。
再び目を閉じると、体内へ侵食する「何か」が勢いを増し、細胞という細胞が呼応するように変化していくような感覚に襲われ、体が震え出した。だが、裏腹に、その心の中に広がるのは、ひたひたと迫る水のように茫洋と穏やかな感情だけだった。
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