第42話

 その一瞬の後、不意に、操舵を握った乗員の目が大きく見開かれた。

 船上に小さな人影が現れ、急ぎ足でこちらにやってくる。

「レイちゃん!?」

 その表情の変化に不審げな顔で振り向いたリサが、驚愕の声を上げた。


 船のすぐそばまで来ると、レイは弾む息でしゃべり出した。

「あの、ドアが開いていて、メルがキッチンに入っちゃって。それで、あの…」

 ごめんなさい、と、勝手にキッチンに入ったことを詫びる子どもに、乗員は激しく狼狽した。盲点だった。仲間は、客室は点検しただろうが、キッチンの隅に子どもが入り込んでいるとは思わなかったのだろう。


 どうする? どうしたらいい?

 恐らくこれが最後の救命ボートだ、この子を置いていくわけにはいかない。自分が降りるか? でも、そうしたら、ボートを操舵する人間がいなくなってしまう。もちろん、他の乗客に代りを望むなどあり得ない。じゃあ、どうしたら―?


 ものすごい勢いで脳内に思考が過ぎるが、妙案はまったく浮かばない。時間だけが刻々と過ぎて行く。

「どうした、なぜ乗せない?」

 固まってしまった乗員に、カイが苛立ちの声を投げた。

「む、無理なんです。こ、このボートの許容重量は、あと0.2キロしかない。それを超えて乗せれば、ああ安全装置がはたらいて、エンジンがかからなくなってしまう」

 震える声で返され、カイとリサはもちろん周囲の乗客たちも顔色を失った。


 一瞬の後、リサがよろよろと立ち上がろうとした。ボートが揺れてあちこちで悲鳴が上がる。

「動かないで! バランスが!!」

 制止する乗員の声を無視して、

「わた、私が! 私が残るから、だから…っ!」

 いつもの彼女とは似つかない、高く掠れた声で鋭く叫んだ。

「ダメだ! 俺が残る、俺の家族だ!!」

 立ち上がった彼女の腕を引きながら、カイが語気鋭く言った。


 船の上にいるレイは、その様子をメルを抱えたまま瞠目して眺めている。数回瞬きし、ハッとした表情になり慌ててしゃべり出した。


「平気! だいじょうぶ。あっちのボートに、まだ子ども1人分、場所あるの」

「え? まだ救命ボートが? てっきり、これが最後だと…」

 船の裏側の方角を顎で示しながら言う子どもに向け、乗員が、驚きの声を上げた。

「向こうも、自分たちが最後って言ってたよ。やっぱり重さがぎりぎりで、犬までは無理だって言われちゃって。だから…」

 そう言いながら、おずおずと腕の中の子犬を示す。

「重さは?」

「…2キロとちょっと、くらい」

 3日前は2キロだった。今、どのくらいになっているかはわからない―。先ほど0.2キロしか余裕が無いとの彼の言葉を思い出し、レイは恐る恐る告げた。

「すまない、重量オーバーだ。かわいそうだけど、その子は船に残して、君は、早く向こうのボートに…」

 乗員の言葉にレイの顔が泣きそうに歪みかけた、そのとき。

 ボートの反対側から水音が響き、許容重量表示の数字が0.2から2.1へと変化した。

 水音のした方を見ると、先ほど話をした少年・マキと、その叔母・ミトの姿が目に入った。目を丸くして見つめてくるレイに向け、少年は、

「正義のロボットだからな」

 と、ぼそりと呟いた。

「ロボット? って、あのガラクタ? あんた、そんなの持ってきてたの?」

 ミトの呆れたような驚きの声が響く。

「ガラクタじゃない! そのおかげであの犬が助かるんだ」

「はあ? なぁに言ってんの! あんたがそんなもの持ってなけりゃ、最初からすんなり乗せられたでしょうが!」

 途端に始まる丁々発止のやり取りに割って入るように、

「ダメです! まだ足りないかもしれない。安全のため、犬は諦めるしか…」

 と乗員が叫んだ。途端に2人はぴたりと口論を止め、次の瞬間、ミトが腕から例の黄金の宝飾品を引き抜いてボートの縁から手を伸ばしてポチャリと投げ入れた。

「あ!? それ、いざというときの…!」

 レイがさらに大きく目を見開いてミトを見つめて言う。その視線を受け止め、

「そうよ。いざというときのため。今がその“いざというとき”だわ。違う?」

 その言葉に、子どもは何とも名状しがたい表情を見せた。

「…残り重量、2.4キロ。行けるかな?」

 そんなレイに、乗員が声をかける。我に返ったような顔で彼を見た子どもは、何度も大きく頷き、手の中の犬を差し出した。近くの乗客がそっと受け取る。


 ピッ!

 表示が、残り0.2キロを示した。


        ***


「もう行かなくちゃ。あっちのボートが行っちゃったらたいへん!」

 船の中の人の手から手へとリレーされメルがカイの腕に収まるのを見届けて、レイは誰にともなくそう告げ、また後で、と、もと来た方角へと踵を返した。

「レイ! 気をつけろよ!!」

「また後でね!!」

 カイとリサが同時に呼びかけ、レイは振り向くことなくただ右手を軽く上げてそれに応じ、走り去った。


 突然、カイに抱かれたメルが激しく吠え、それから悲しげに鼻を鳴らし始めた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶだ。すぐまた会える。岸に着くまでの辛抱だ」

 初めて聞くメルの吠え声に驚きながら、カイは子犬に顔を寄せ、言い聞かせた。

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