第37話

◇ AM10:30


 湖のほとりに到着すると、レイの興奮はさらに高まった。初めて見るキャンプ場や休憩テント、石を積み上げた竈に、薪の山。

「これは、何?」

 竈のそばで火の番をする男に近づいて、レイが、赤々と燃える火を指差して問う。問われた相手は目を丸くした。

「何って、何がだい?」

「これ、このゆらゆらしているの。熱いねえ」

「これか? これは、火だろう? 見たことないわけないよな?」

 男の驚きはもっともだった。いくら日常生活において火を使う機会が減ったとはいえ、ちょっとしたパーティのときなどに灯される蝋燭など、いくらかは見る機会があるだろう。だがこの子どもは、今初めて火を見たような口ぶりだ。


 知っているのが当然とばかりに言われて、レイは口をつぐんだ。変だと思われただろうか。不安な気持ちが顔に現れたのか、火を起こしていた男は慌てて、

「まあ、今どき珍しいもんな。近くで見るのは初めてかもしれないよなあ? 昔は、こうしてこの熱で料理をしていたんだよ。寒い時には、暖をとるのも火でだったし。

 …と言っても、俺自身、そういう経験があるわけじゃあないんだけどな」

 そういう点では、俺もあんたと大差ないな、笑いながら言い、子どもの頭をポンと撫でた。


「火は、すごいんだね」

 表情を緩めて言うレイに、

「そうだな。正しく使えば有益だ。使い方を間違えたり、悪い使い方をしたりすれば、恐ろしいものにもなる。ま、これは、火に限らず何事もそうなんだけどな」

 ふーん、と生真面目な表情かおで頷くレイを、遠くからリサが呼んだ。いつの間にか、2人から遠く離れてしまっていたようだ。


「あ、行かなくちゃ。教えてくれて、どうもありがとう」

 男にぺこりと頭を下げると、レイはぱたぱたと声の方へと走っていった。


         ***


◇ AM11:30


 しばらく湖の周辺を探索した後、カイが尋ねた。

「ちょっと早いけど、ランチにしよう。ここで食べようと思うけど、どうだ?」

 彼が示した場所は、湖を眼前に見下ろす斜面の、やや平らになったところだった。大きな木が葉を茂らせ、涼しげな木陰を作っている。

「うん、ここ、好き!」

 周囲を見回してから目を輝かせて2人を見る子どもをにこやかに見返すと、カイとリサはてきぱきと準備を始めた。


 ビニールシートを広げて、その上にテーブル代わりのマットを敷く。そこに昼食を並べてくれと頼まれ、レイは、嬉々として作業に取り掛かった。バスケットの中身を1つ1つ、丁寧に取り出しては、そっと並べて行く。その真剣そのものな様子の傍らで、メルまでが思案深げに座りこんで作業を見守っていた。


 すっかり満足がいくように準備ができ、子どもが2人を見上げると、

「よし! じゃあ、食べようぜ」

 カイがその頭をポンと叩いて言った。


        ***


 リサのお弁当は、レイにとって驚嘆の塊だった。

「わ、これ何?」

「ウィンナーでしょ?」

「でも、なんか面白いかたち。こっちは、うさぎ?」

「そう、リンゴうさぎ。見たことない?」

 ない、初めて、と、首をぶんぶんと横に振りながら言う子どもに、リサは満足げに笑ってみせた。こういう反応をされると、本当に作ってきた甲斐があるわ、心の中で呟きながら。


「おやつもあるのよ。近所で買ったチョコレート。まだお茶もあるし、もう少ししてから、そうね、船に乗ってから食べましょう」

 いつクッキーを出したものかと何度もそわそわとポシェットを見る子どもに、リサが言う。その言葉に、ようやく落ち着いた顔になってポシェットから視線を放離した子どもを面白そうに眺めた後、2人はそっと目配せを交わした。


        ***


「絶対、内緒だからねっ! ばれたら承知しないわよ!!」

 鼻息も荒い姉にきつくきつく念を押されながら、レイがおやつ作りに奮闘していることを告げられたのは、3日前のことだった。

 もしもリサちゃんが素敵なおやつを用意してくれたりしたらがっかりするかもしれないし、くれぐれも被らないように気を付けて、そう言いながら子どもの初めての「お願い」について語るミナの姿に、いや確かにそれもあるだろうが、なんだかんだ言ってレイに頼られたことをどうにも黙っていられなかったってのが、本当のところじゃないのか―そんな感想が頭に浮かんだが、姉の怒涛の怒り(過去に何度もこれに晒された苦い思い出がある)から我が身を守るため、それについては、カイは黙っておくことにしたのだった。


 そうしてレイには内緒で共有してきた秘密が、あともう少しで明らかになる。どんな表情で、“ちょっとした”おやつを、差し出してくるだろう? その時には、うんと驚いて感激しなくては。…いや、実際、本当に感激する自信は十二分にあるけれど。実際に口にこそしなかったが、リサとカイ、2人は心中密かに、まったく同じことを考えていた。

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