第35話 8月24日 曇り

◇ PM2:00


 水曜日。そろそろ来るころか、と思った途端、扉が動いた。レイの顔が、隙間から覗く。いつものように入ってくるかと思ったが、突っ立ったまま、入ろうとしない。


「どうした?」

 声を掛けると、

「あの、これも、いい?」

 さらに扉を広く開けて、足元を指差した。

 示されるまま視線を落とすと、そこには小さな犬がちょこんと座っている。

 もしかして、この間言っていた犬だろうか、そう思いながら、

「ちゃんとおとなしくしているなら、いいぞ」

 シンは重々しくうなずいた。


 カウンターへと歩き出した子どもの後を、犬がちょこちょこと付いて歩く。ちゃんと躾が行き届いているようで、吼えたり飛びついたりしない。なかなか上手く育てているようだな、そう考えていると、一行は彼の前にピタリと止まった。


「かわいいな。名前は? オス? メス?」

「メル。男の子」

「ふーん。お前が名前つけたのか?」

 うなずく子どもに、シンは、いい名前だな、と言い、次いで、

「海っていう意味がある名前だ。海辺の犬ならぴったりだ。そういえば、“カイ”も、海って意味もあるな」

 と、付け加えた。

「え? …海? カイも?」

 途端に瞠目どうもくし、どうして、と呟き言葉を詰まらせるレイに、シンのほうが驚く。

「あ、いや、深い意味は無い。俺の故郷の国では、海はカイとも言う。メルは、いくつかの国の言葉で海っていう意味がある。そういうことだ」

「…ああ」

 そう呟いてレイは会話を切り、子犬を覗き込んでその頭を撫でた。そのままシンの方には振り向かず、視線を犬に据えたまま、再び口を開く。


「明日は」

「うん?」

「湖に、行く」

 その言葉に、シンは、ああ、と何事か思い出したように言った。

「“研究”してたんだよな。おやつも作って。準備は、ばっちりか?」

「まあね」

 少しだけ得意そうな顔で、今度はしっかりとシンの方を振り向いた。


        ***


◇ PM3:00


 レイによる再度の湖に関する“プレゼンテーション”が終わった後、シンは、

「まあ、とにかく。天気がいいといいな」

 と、ごく平凡な一言を口にした。だが、

「天気?」

 子どもにさも不思議そうに返され、シンもまた

「曇りや雨より、晴れのほうがいいだろ? 特にこのところ、予報が外れて雨が降ることも多かったし」

 不思議そうな顔でそう応えた。


「…雨が降ると、湖が溢れるかもしれないから?」

「え。いや、雨が降ったらピクニックができなくなるし」

「雨だと、ダメなの?」

「濡れちまうだろ? そうなると、地面に座るのだって、まずムリだ」

 濡れちまう…そう繰り返して、子どもはようやく納得したかのように頷いた。

「そうだね、雨だと困るね。

 …でも、水の中の生き物は雨を気にしない。陸の生き物とは違うね」

 どうもいまひとつ言っていることの意味がわからないが、確かに、水の中で暮らす生き物は雨を気にしたりはしないな。そんなことを考えながら、

「まあ、陸の生き物にも、雨は時に必要だけどな」

 シンはそう話をつなげた。


        ***


◇ PM9:00


「おやすみ」

 明日は早いし、子どもはもう寝る時間―そう言ってレイに就寝を促すと、子どもはあっさりと立ち上がって、階上へと向かい始めた。だが、途中で立ち止まって、階段の下にいるカイに、手すりから身を乗り出すようにして呼びかけた。


 見上げて、なんだ? と目で問うと、

「いい天気だと、いいね」

 そんな言葉が上から降ってきた。

「そうだな、いい天気だと、いいな」

 そう返すと、嬉しそうに笑い、レイはメルとともに階上へと駆けて行った。

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