第32話 8月22日 曇り のち 晴れ のち 雨
◇ PM2:00
月曜日。例の“事故”から、3日目。救急車で運ばれていった子どものことを、シンは考えるともなく考えていた。
…今日は、来ないかもしれないな。
あれからどうなったかが気になり、落ち着かない気分を持て余し続けていた。病院までは付き添ったものの、ご家族ではない? では、ここから先は我々にお任せください、と帰宅を促されたのだ。子どものほうから連絡してくるはずもなく(そもそも連絡手段を教えていない)、ただ待つしかできない状況は、案外神経に堪えた。
「そういえば、No.1、ダメにしちまったんだっけな」
ようやくゲットしたのにな―そう独りごちながら、シンはモバイルに手を伸ばし、業者の番号を呼び出した。
30分後。入口の扉が小さな鐘の音と共に開き、いつものか細い声であいさつをしながら、レイがひょこんと入ってきた。普段と特段変わらないその態度に、シンは我知らず深い安堵のため息を漏らす。
「よう。久しぶりだな。…あれから、どうした?」
「あれから?」
近づいてくる子どもにシンが何気ない風で声をかけると、さも不思議そうないらえが返ってきた。あんなことがあったのに、忘れてしまったのか?
「病院に、行ったろう?」
そう言われてようやく、ああ、とレイは声を上げた。どうやら、本当に忘れていたらしい。呆れるような思いでその顔を見ていると、
「検査して、だいじょうぶって。おねえちゃんと、帰った」
話が随分部分的な気もするが、どうやら何事も無しと判断され、家族と帰宅したのだとわかり、シンは心中のもやもやがようやく解消した気分になった。
「あのときは、カバンありがとう。持ってきてくれて」
「いや…。それより、車には気をつけないとな」
釘を刺すように言うと、レイは素直に、ごめんなさい、と頭を下げた。
「わかったなら、いい。ほら、今日もやるんだろ?」
そう言いながら、機器を指差すと、ちょっと複雑そうな笑みを浮かべ、いつものようにその前に陣取った。
***
結局、前回ほとんど使わなかった小遣いまですべてつぎ込んでも、今回はレアアイテムをゲットすることはできなかった。小さくため息を吐いたものの特に不満を口にすることも無く、レイはカウンターの椅子によじ登る。
いつものように茶を出してやると、なぜか手に取らない。そわそわした様子で何度も自分のポシェットに視線を走らせるレイに、
「どうした? そのカバンが、どうかしたか?」
そう聞くと、少し躊躇うような顔をしてから、ポシェットから何か取り出し、無言のままシンに差し出した。
「何だ?」
そう言いながら受け取り、渡された小さな包みを検分する。中には、渦巻き模様のクッキー。物問いたげな彼の視線を受け止めて、レイはゆっくりと話し出した。
「作ってみた。まだ、練習だけど」
「へえ! すごいな。もらっていいのか?」
途端に照れくさそうな顔になって頷くのを見て、シンは包みの中身を出しその包みの上に並べた。ちょっと焼き色が濃い気もするが、その辺はご愛嬌だろう。
「なかなかよくできてるな。味も、いけるぞ」
1つ手にとって口にしながら言うと、
「まだまだだけどね」
頬を上気させながら、それでも澄ました口調で応えた。
少し焦げたクッキーを自分もつまみながら、レイはぽつぽつと語り出した。
カイとリサが、今度の木曜日に湖に連れて行ってくれること(実のところ、シンにはリサが何者か見当がつかなかったのだが)、そのため昨日は3人で図書館に行って湖についていろいろと“研究”したこと、リサがおべんとう係でカイが飲物係だから、自分はおやつ係になりたいこと、おねえちゃんに教えてもらって、一緒にクッキーを作ったこと、今日のは二度目に作ったもので、明日本番用を作るときはきっともっとうまく行くと言われたこと、本番のクッキーには得意のお絵描きを活かしてすごいのを作るつもりだけど、これは当日までカイには内緒なこと―。
「なるほど、忙しかったな」
木曜日の湖へのピクニックが楽しみで舞い上がっていた週末、と、頭の中で要約しながら、シンは納得したように頷いた。
「行ったことある?」
「ん?」
「湖」
「いや、無いな」
「無いの?」
「ああ」
意外そうに言う子どもに、シンは、だって結構遠いだろ、と、半ば言い訳のように呟いた。
「じゃあ、知ってる? あの湖、底のほうで海につながっているかもしれないの」
「へえ。そうなのか」
「うん、図書館で研究したときに本に書いてあった」
そう頷きながら、その後も次々と、一生懸命、湖とその周辺についての知識を伝えようとするレイに半ば閉口しつつ、シンは熱心に話を聞いてやった。まったくもって俺らしくない、と思いながら。
***
◇ PM4:30
「もうこんな時間? ごめんなさいねぇ、すっかり長居しちゃって…」
ふと、壁に投射された時計を見て、妙に大人びた口調で子どもが言った。
まったく、子どもってやつは。こういう言い草を、どこで覚えてくるんだか―。
笑いたいのをこらえて、シンが無言で頷くと、レイは椅子からするりと降りて、
「お邪魔しました」
ぺこりと頭を下げて、扉を押して出て行った。
扉が閉まった途端、シンはついにこらえていた笑いを溢れさせた。
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