第25話

◇ PM4:30


「ほら、飲め」

 いつもの作業を終え、一段落してカウンターにやって来たレイに差し出されたのは、いつもの“ついでに淹れた”紅茶ではなくアイスココア。普段と違う待遇に戸惑う子どもに、

「ああ、さっき笑っちまったから、まあ、お詫びってことで」

 そう言うと、

「じゃあ、いただきます」

 先ほどのことを思い出してちょっとまた難しい顔になった子どもは、冷たい飲物を一口口にして、すぐに表情を和らげた。

「甘くておいしいね。…これ、何?」

 機嫌は直ったようだな、そう思った直後に付け足された言葉に、シンは驚いた。

「何って、ココアだろ」

「ここあ?」

「飲んだことないのか?」

 子どもなら大抵、飲んだことがあるはずだろうに。そう思いながら尋ねると、無言で首を横に振った。

「そうか。ま、気に入ったんならよかった」

 特段気にする風も無く言いながら、シンは子どもに本を返した。


「虹を、見たことある?」

 しばらく黙り込んだ後、子どもが不意に尋ねる。

「虹? って、あの空に架かるやつか?」

 唐突な質問に戸惑ったようなシンの問いにうなずき、不思議そうに聞き返す。

「他に虹ってあるの?」

「どうかな。たぶん無いと思うけどな」

「じゃあ、その虹。見たことある?」

 興味津々那表情で覗き込んでくる顔に、今度はシンが不思議そうな顔をした。


「そりゃ、虹くらい見たことあるさ。お前だってあるだろ?」

 この辺りは、天気が変わりやすい。晴れていても急に雨が降り出したり、1時間と経たずにまた日が輝いたりといった天気は日常茶飯事、当然、虹が出ることも多い。だが、当然のように言うシンに、レイは唇をきゅっと引き結び、首を横に振った。

「無いのか?」

「うん。だって、あんまり外に出たりしたことなかったし」

「はぁ~。箱入りだな」

 適切な表現ではないと知りながら、なぜか頭に浮かんだ言葉で形容してみた。

「箱入りって?」

「大事に大事に、表に出したりしないで箱の中に入れて育てられたってことだ」

「ふーん。そっか」

 納得顔の子どもに、

「当たってるか?」

 と問い返す。目の前の子どもは、どう見ても、箱入り娘という感じでは無い。だがレイはシンを見上げながら、まあね、と言い、それからカウンターに突っ伏すようにして腕の中に顔を半ば埋めながら、

「箱じゃなくて、水槽だけどね」

 聞こえるかどうかの声で呟いた。

「水槽?」

 それを聞き逃さずシンが問うと、レイは黙ったままわずかに頷き、次いで、

「じゃあ、海に架かる虹も見たことある?」

 と尋ねた。

「海に架かる虹?」

「うん、願いが叶うって」

「ないな、一度も」

「ないの? 一度も?」

「南向きだからな、ここは」

 海が見える場所なのに? そう目を丸くするレイに、シンは説明してみせた。

「虹は、陰のできる方向にできるだろう? ここから海上に出る虹を見るには、太陽が北から出ていなくちゃならない。実際には、北から太陽が照ることはないからな」

「でも、海に架かる虹を見たらお願いを3回言って、そうすると叶うって」

 誰かに教えられたらしい話を懸命に伝えるレイに、シンは肩をすくめて見せた。

「そんな話、俺は初めて聞くけどな。…まあ、なかなか見られないから、そんな言い伝えみたいな話が生まれたんだろ」

 そう言いながら、近くにあった紙に簡単に図を描きながら、説明してやる。レイはその手元を熱心に覗き込み、やがて納得した顔で、そっか、と、一言呟いた。


        ***


◇ PM5:00


 2人して無言で飲み物を口にする。沈黙が流れる。決して息の詰まらない、むしろ心地よい沈黙。それがしばらく続いたころ、レイの視線が、カウンターの端に置いてあるチェーンが切れたロケットの上に止まった。つと手を伸ばしてチェーンを掴んで持ち上げる。蓋が緩んでいたのか、それは簡単に開いた。思いがけず開いたそれに驚きの表情を見せた子どもは、すぐに中の写真に興味を奪われ中を熱心に覗き込んだ。

「こら、勝手に見るなよ」

「これ誰?」

 決して本気ではない、シンの軽い叱責を気にすることもなく、レイは訊ねた。

「俺の彼女。一緒に住んでいる」

 あいつに持たされたんだよ、声に照れが交じらないように、用心深く答える。

 目の高さに持ち上げた写真をさらにしげしげと見ながら、レイがさらに訊ねる。

「けっこんしてるの?」

「いや」

「一緒に住んでるんでしょ?」

「ああ」

「…けっこんじゃないの?」

 以前、家に飾ってある写真の中の見知らぬ男の人のことを尋ねたとき、ミナはその人と自分たちの関係、家族というものとその成り立ちについて説明してくれた。好きになったら、けっこんというものをして、それから一緒に暮らして、子どもが生まれたりして―。

 そんな認識を持つレイにとって、シンの話は、完全に理解の範疇を越えていた。


「うーん…」

 どう説明したものか。というか、同棲なんて、今どき珍しくないだろうに、本当に知らないのか? からかわれているんだろうか?

 だが目の前の顔に邪気は一切感じられない。

「…つまりな。結婚するとずっと一緒に住むだろう?」

 目線を若干落とし、子どもの認識する結婚の定義をなぞるように、説明を試みる。レイが頷く気配が、目の端に感じられた。

「今は、そのお試し期間ってところかな」

 もっとも俺たちは、結婚までは考えていないけれど。心の中で呟きながら目を上げて、ぎょっとした。レイは目を丸くしながら、椅子の上に膝立ちになって乗り出している。顔が10数センチの距離まで近づいていた。

「お試し? 何を? 愛? 愛を試すの?」

 急に早口になった子どもから距離を置こうと身を引きながら、

「いや、愛っていうか、一緒に暮らして上手くやっていけるか、とか」

 シンはしどろもどろに答え、子どもはさらに目を丸くする。

「お互いに愛していても、上手く一緒に暮らせないときがある?」

「そりゃ、元々他人同士の二人が一緒に暮らすんだから、いろいろあるだろうさ」

 宥めるように頭に手を置いて、軽く叩いてやる。まだ納得していない表情ながら、子どもは再び椅子に腰を下ろした。

「上手く暮らせないってわかっても、愛はそのまま続く?」

「うーん、どうかな。大抵は、そうはいかないと思うが」

 上手くやっていけないとわかったら、後は、別れがあるだけだろうな、そう考えていると、

「じゃあ、やっぱり試してるのは、愛じゃないかなあ?」

 同意を求めるように、レイが顔を向けて言った。

 ああ、ガキは厄介だ、その顔を見ながら、シンは心の中で呟いた。


 恋人同士、なんだろうと思う。でも、未来の約束はない。

『そんな不確かなものは信じない。なぜ皆、すぐに“永遠の愛”を誓いたがるの?

 それって、そんなに簡単に、見つかるもの? 本当に信じているの?』

 同居する彼女の、そんな台詞が脳裏に蘇った。

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