第13話 7月18日 曇り
◇ AM7:30
その朝、カイは少しだけ浮かれていた。夏休みに入って始めたバイトの最初の給料を、今日、受け取ることになっていたからだ。
バイトは月水金の勤務で、2週間ごとにバイト料を出す約束になっている。本来、最初のバイト料を先週末に受け取るはずだったが、図書館に急ぐあまり受け取り損ねてしまっていたのだ。
『何に使うかなあ』
欲しいものが、次々と脳裏をよぎる。デュエルシリーズのミニフィギュアをコンプリートしたいし、ボードの修理もしなくてはならない…。母と姉にも、何かしら買わねばならないだろう。そして、もちろん、あいつにも。
『図書館通い以外、何もねだったことないよなあ。何をやったら喜ぶだろう』
その前に、どれだけのものが買えるかって話だよな―。そんなことを考えながら、メモパッドを起動させる。バイト先との取り決め書にざっと目を通し、次いでスケジュールを見た彼は、あ、と小さく声を上げた。
「あの本を借りに行くの、明日だったか…」
図書館に予約を入れた本は、返却予定日の翌日に借りに行く決まりになっている。そうでなければ、予約だけ入れて借りに来ないといったことが起き、本当に読みたい人になかなか順番が回らないことになるからだ。
バイトがある日はどうしても閉館ぎりぎりに行くことになるし、そもそも夏休みの予定はそれだけではない。それに、明日は、彼にとってどうしても外せない予定があった。16歳の夏は何かと忙しい。図書館通いばかりしていられないのだ。
とはいえ、あのとき本が借りられずにあれほど落胆し(ほぼ表情が動かないので、あからさまに態度に出すことはなかったが)、次に借りられる日を心待ちにしているであろうレイのことを考えると、何とかしてやりたいとも思う。
これから先のスケジュールを見てさらに厳しい顔になって考えこんでいたカイは、あることを思いつき急に晴れやかな顔になった。
そうか、そうすりゃいいじゃん!
心中で自らの名案を賞賛しつつ、彼は軽い足取りでバイト先へと出かけていった。
***
◇ PM7:20
「ただいま!」
夜。カイが勢いよく玄関の扉を開けると、姉がじろりと視線を投げてきた。
「随分遅いじゃない。母さんは今日は遅くなるし、私も夜勤で、もう出かけなくちゃならないって、わかってたはずでしょ!?」
彼女が出かけてしまえば、レイが一人家に残されることになる。昼はともかく夜はそうならないよう家族皆で仕事を調整していたのに、という姉の怒りはもっともだ。
「ごめん、どうしても買いたいものがあって、でもなかなか見つからなくてさ」
言いながら、カバンの中から取り出した本を見せる。
「…ああ。給料貰ったのね。じゃあ、私はもう出かけるから、後はお願いね」
「わかった、気をつけて」
そう言う弟に1つ頷き、背後を振り向いた。
「行ってくるわ、レイちゃん、また明日ね。早く寝るのよ、歯を磨いてね」
「はい、いってらっしゃい」
そう応える子どもに微笑みかけ、ミナはひらひら手を振って出ていった。
***
◇ PM8:40
2人で夕飯を食べ一緒に皿洗いをした後、カイはレイを居間のソファに座らせた。いつもならテレビのスイッチを入れるところ、今日はそうしない彼を、レイは不思議そうな顔で眺める。視線を感じながら、カイはソファの脇に放り出していたカバンを拾い上げ、物々しい態度でそこから紙袋を取りだした。子どもの目が、好奇に輝く。
「さて」
少し間をおいてレイの反応をうかがって、カイは心の中で微笑んだ。さらにゆっくりとした手つきで、その紙袋から1冊の本を取り出して見せる。
「あ!」
小さな声が上がる。それは、幾度も借り続けた、あの人魚姫の絵本だった。目を丸くするばかりで一向に手を伸ばさないレイに、カイは本をずいと差し出した。
「ほら、取れよ。お前の本だ」
少しサイズは小さいが、見慣れた美しい表紙。だが、この本は、図書館のものとは違って傷も擦れも無い。何となく輝いているようにすら感じられる。気後れしてなおも手を伸ばせずにいると、ぐい、と本を押しつけられた。
ようやく本を手に取ったレイの小さな興奮を感じ、カイは小さく笑った。
「気に入ってくれたか? バイト料が入ったから、プレゼントだ」
「え? プレゼント?」
意外そうな声に、カイは重々しくうなずいてみせた。
「そ、プレゼント。お前、この話がすごく気に入っているみたいだし。図書館のよりは小さいけどさ、でもこれはお前だけのもんだから。もう図書館で借りなくていい。いつでも好きな時に好きなだけ読めるぞ」
「ありがとう」
嬉しさとはにかみが入り混じった表情で、レイが呟くように言う。
「だから、な。その、悪いけど、明日は図書館に行かない。大事な用がある。図書館には、キャンセルを入れたからだいじょうぶだ。また今度一緒に行こうな」
「…わかった」
再び、レイから小さな声が返ってきた。胸の奥がチクリと痛み、カイはそれを振り払うようにくしゃくしゃとレイの頭を撫で、それからテレビのスイッチを入れた。
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