第5話

◇ PM 8:20


「私はミナ。こっちがカイ、私の弟よ。ね、あなたのお名前はなんて言うの? ミナおねえちゃんに、こっそり教えてくれないかな?」

 警官たちが去った後、ミナは残された子どもの前に屈み込み、目線を合わせながら聞いた。見知らぬ(しかも少々怖そうな感じの)大人に囲まれた緊張感が名乗るのを躊躇ためらわせたのかもしれないと考えたのだ。だが、彼らが言ったとおり、子どもはただ俯いて、首を横に振るだけだった。

「そう…。じゃあ、とりあえず、名前を決めないとね」

 そんな姉の発言に、

「そんな、犬や猫じゃないんだから」

 と反論したものの、

「じゃあ、どうやって呼ぶのよ?」

 その一言には、カイも返す言葉がなかった。


「でも、ほんと、どうしよう? あなた、自分でつけたい名前、ある?」

 子どもと目線を合わせながらミナはさらに問うが、相手はさらに困り顔になるばかりだった。そりゃそうだろよ、自分が何者なのかすらわからず困惑しているってのに、自分で呼び名を決めろだなんて。

 2人のやり取りを横目で見ながら、カイは心の中で呟いた。


 ミナは、少し思案顔に、見つめてくる子どもの顔を見返した。

「そうね…じゃあ、レイはどうかしら?」

 そう言いながら覗き込むミナに、子どもは少し目を見開き、次いではにかんだような表情でうなずいた。

「レイ? どうしてレイ?」

 そう問いかける弟に、

「小さな名無しのお姫様、Little Embraceable Infanta、だから」

 ミナは茶目っ気たっぷりに答え、なんだそりゃ? てか、言語が複数混ざってんじゃね? という弟の皮肉な呟きには、知ったこっちゃない、と、耳も貸さず、子どもの背を押しながら居間へと入っていった。


        ***


 わずかながらミルクとビスケットを口にし、シャワーを浴びて着替えると、子どもの表情は少し和らいだように見えた。だいぶ落ち着いてきたかな、そう思ったミナは、レイを階上の一室へと導いた。そこは、かつての父の書斎であり、今はすっかり物置と化している、西向きの角部屋だった。改装中の客間のベッドと簡易箪笥までが運び込まれ、部屋はさらにごたごたした状態になっている。


 扉を開け中に入ると、物珍しげにキョロキョロする子どもにミナは語りかけた。

「とりあえず、今夜はここがあなたの部屋ね。一応掃除はしたけれど、随分長いこと物置みたいに使ってるし、改装中の部屋の家具まで運び込んであるしで、このとおりすごくごちゃごちゃなんだけど…でも、ごめんね、今はここしかベッドのある部屋がないのよ」

 だが、子どもはそのごちゃごちゃした雑多な空間が気に入ったらしい。部屋の中央までそろそろと進んで、しばらく辺りを見回してから、

「ここが、いい。ずっと、ここがいい」

 と、初めて口を開いた。やった! 一歩前進! 心中で快哉を叫びながらも、それを表に出して再びレイの態度を硬化させないよう、ミナは努めて軽い口調で返した。

「そう? ならいいけど。ここにあるものは、色々見て構わないから。

 あと私とカイ…弟は、この部屋と階段を挟んで反対側の部屋にいるからね。右が弟の部屋、左が私。何かあったら、いつでも来てちょうだい。いつでもよ」


 その言葉にきゅっと唇を引き結びはにかんだようにうなずきながら、レイは再び、部屋中を珍しげに見渡す。その視線が、窓の下に置かれたどっしりした木のライティングデスクに止まった。とことこと近づいていき、そっと机の表面に手を触れて、それから感触を味わうようにゆっくりと撫ではじめた。


「それが気に入ったの?」

 意外そうに言うミナに、子どもは小さく頷き、ほぅ、と小さな息を吐きながら、

「ん。やわらかいねぇ」

 と、ふんわりとした声で応えた。


「気に入ったのなら、使っていいよ。…あのね、実はこれ、私が作ったのよ」

 もっと感情を引き出そうと、机にしがみつくようにして表面の板を撫で回し続けている子どもに屈み込み、内緒話を打ち明けるように、ミナがそっと囁いた。

「へー!」

 途端、レイが眼を丸くして振り返る。しっかり食いついてきた子どもに向かい、

「と言ってもね」

 そういいながら咳払いをし、ミナは少しもったいつけた様子で、説明を続けた。

「ほらここ、偽物だから」

「?」

「ほら、見てて?」

 そう言いながら、2番目の引出しの取っ手を握りがたがたと揺すってみせる。と、それは引き出されることなく、1枚の板となって、がたん! と外れた。

「あれ?」

「引き出し作るのが難しかったから、飾りにしちゃったのよ。この机の上の穴から、消しゴムのカスとか中に捨てるようにして使っていたの。

 実はね、この“引き出し”のことは、母さんもカイも、誰も知らないの。だから、ね、これは2人だけの秘密よ。いい?」

 ウィンクしながら言う彼女を見上げたレイの表情に変化はなかったが、キラキラと輝きを増した瞳から、小さな興奮がうかがえた。秘密を共有し自分に対する親近感を増したらしい子どものこのわずかな変化を見逃さず、ミナは満足げに微笑んだ。

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