第3話

◇ PM 5:30


 あの後、どうなっただろう?


 居間のソファに寝転びぼんやりと天井を眺めながら、カイは考えた。こうして独りでいると、どうしても意識はそこに行ってしまう。ため息をついてクッションを抱えなおし、何度目かの寝がえりを打った。

 そうしているうちに、ミナが帰ってきた。この7つ年上の姉は、父親不在のこの家で、母が働きに出ている間、なにくれとなく面倒を見てくれる。姉と言うよりはもう一人の母のような存在で、カイは昔から頭が上がらない。


 居間に入ってきたミナは、珍しく落ち込んだ様子の弟に気づき、さりげない調子で言った。

「あらぁ、珍しいじゃない、そんなしょぼくれた顔して」

「そう?」

「そうよ。明日からお待ちかねの夏休みなのに。…何かあった?」

 夏休み、の言葉に僅かに顔を曇らせた弟に、僅かに声のトーンを落として聞く。

「うん…」

 いつもながら鋭い姉の問いに、カイは今日の午後の顛末を話した。


        ***


「とりあえず、逃げなかったのは偉かったわ」

 想像していたよりはるかに深刻な事態に一瞬言葉を失いながらも、これまで見たこともないほどに落ち込んでいる弟をそれ以上追い詰めまいと、ミナは努めて軽い調子で言う。

「逃げないさ、当たり前だろ!」

「そうね。でも、母さんにも早めに言っておかないと、ね」

「…うん」

 それを考えると、気が重い。母も、姉同様、自分を厳しく責めることはないだろう。だが、父の分までがんばろうと日夜奮闘している彼女に心配をかけることは間違いない。それが、カイにとってはたまらなくつらいことだった。


 一刻も早く伝えるべき、との姉の忠告に従い、カイは母にメールで事のあらましを告げた。ショートメッセージで告げるには重すぎる内容だと思ったから。何度も迷い書き直し、やっとの思いで送信したそれに、彼女はすぐさま返信を寄こした。

『起きてしまったことは変えられないわ。だから、この先、誠意を持ってできる限りの対応をしていきましょうね』

 何度も返信を読み返し、安堵と居たたまれなさが心中で入り乱れるのを覚え、カイは小さくため息を吐いた。


         ***


◇ PM7:45


 その晩の夕食は、極めて静かな時間となった。もうとっくに来ていてもよさそうな警察からの連絡は夕食の時間になってもまだ届かず、そのことが家族全員を何となく自分の思いに沈ませ、最小限の言葉しか発しない状況を作り上げたのだ。


 そうして食事が終わろうというときに、玄関のチャイムが鳴った。

「誰かしら? もしかして…」

「俺が出るよ」

 立ち上がりかけた母親を制し、カイは玄関に向かった。予感に、鼓動が速まる。


 玄関脇の覗き窓から様子を窺うと、そこには男が2人立っていた。インターホンのボタンを押して、応答する。

「はい」

「こちら、マキシマさんのお宅でしょうか?」

 男の、落ち着いた丁寧な口調。

「そうです」

「誰?」

 少し離れたところから、母と姉が問う。


「警察の者です。カイさんという方は、こちらにいらっしゃいますか?」

 予想はしていたものの、警察と名乗る人物に名を呼ばれ、どきりとする。緊張しているつもりはなかったのに、口の中がからからになったように感じられた。

「俺、です」

 渇いた口から、声を搾り出すようにして返答する。気が付くと、母と姉がすぐ背後に立っていた。

「今日の午後、子どもとぶつかりませんでしたか?」

「そうです、俺です!」

 緊張から来る苛立ちで、知らず語気が荒くなる。それを鎮めるように、相手はことさらに穏やかに語りかけてきた。


「ああ、わかりました。だいじょうぶですよ」

 だいじょうぶって、何がだよ? カイの苛立ちは全く通じていないようだ。相手は一層、穏やかな声になり話し続ける。

「実は、お願いがあって、こちらにうかがったんです」

「え。お願い?」

 予想とは違う話の流れに、カイは訝しげな声で問い返した。“加害者”に、一体何をお願いすると言うのだろう?


 彼の疑問は予測済みだったようで、扉の向うの男は辛抱強く繰り返した。

「そう、お願い、です。よろしければ、まず開けていただけると嬉しいのですが」

 男の言葉に、姉が横から割って入った。

「申し訳ないのですが、まず、警察の方という証拠をお見せいただけます?」

「ああ、失礼。もちろんですとも。…いかがですか?」


 インターホンのカメラに差し向けられた警察手帳に向け認証システムを作動させていた姉が、OKのサインを出した。

「だいじょうぶ、本物だわ」

 その言葉に、カイは鍵を外し、扉を少し押し開けた。

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