バブルの申し子たち ~時の流れに身をまかせ…
みむらみゆき
ステージ
“ マリーという
1986年、22歳の私は唄っていた。
足元からパフュームの香るスモーク、天井から放たれるライトに揺れる宝石たちの中、私は唄っている。高級クラブの女性は背中のブララインに届く長さのワンレンかソバージュの長い髪。前髪を掻き上げる派かコテとローラーでくるんとセットする派。ピンキー&ダイアンやノーバスパジオのボディコンスーツを日替わりに揃え、高さ10センチのピンヒールを履く。いくつものブランドものの宝飾はその総額を競い合うために身に着けている。今、一番欲しいものはだれしも「シャネル」だった。お金は割と簡単に手に入るけど、シャネルのプルミエールはどこの店でも売り切れで、国内のデパードでは入手困難だったから、みんなその人気のシャネルの時計が欲しかった。帝国ホテルのシャネルブティックに足しげく通ってはショーケースを覗き込んで、やはり無いかとため息をつきながらラウンジでお茶をするのが、最近おきまりのコース。高い天井から下げれたシャンデリアの大きさと足の裏から伝わる絨毯の毛足の深さは、帝国ホテルに居る自分を優越感に浸らせるに十二分だった。ラウンジに並べられたソファーに座ると、その包容力に満足しながら膝の上に置いたマトラッセを撫でる。ああ、やっぱりこの左腕にプルミエールがあったのならどんなに似合うことかしらとまた思う。左手にマイクを握り、店で唯一、その反対側の右の手首にプルミエールをまとった左利きの私は、お店の女の子たちから注がれる羨望のまなざしがなんとも心地良いものだった。CHANELのプルミエール、今一番私が夢中になっている彼からの初めてのプレゼント。彼の年齢は46歳。私の父親とは3つほどしか違わない。特にファザコンというわけではない。彼のボルドーのカルティエの財布にはいつも帯付きの札束が2本入っていた。私の父とは持っているものが全く違った。
連日連夜、店は満員で50人の客に50人のコンパニオン。環七通りで競う夜9時のラーメン屋みたいに入口で席が空くのを順番待ちをする男たち。高級クラブといってもそこは銀座のクラブよりカジュアルでしきたりなんかも無く、若い客が集う新しいスタイルのクラブで六本木、渋谷、赤坂あたりの主流だった。お店にママはいない。店内では黒服がひざまづきながら女の子に新たな指名を耳打ちする。今夜、自分に課せたノルマは50万円。伝票の数字を頭の中で計算しながら、彼女たちは重なる指名に浮足立つ気持ちを抑えきれない。すると今まで客の話しに上の空だったその子は、くるっと客の方に居直り首をすぼめながら、「ホントっ、ごめんなさいっ。でも、すぐ戻りますから待っていてね。」と口惜しそうに謝りながら、手にしていたグラスにコースターで蓋をすると客の膝の上に手をつきながら立ち上り、軽い足取りでいそいそと新しいテーブルへ移動した。指名の重なった女の子のお客同士が見合わないよう、新たな客にはちゃんと離れた席が用意されている。残された客の横にきっと客の好みであろうヘルプの女のコをチョイスして座らせながら、黒服がすかさずフォローする。「すみませんね、お陰さまでリサは最近人気が出てきて。葉山様にかわいがってもらっているからでしょうか、リサにもやっと女性らしさが出てきました。葉山様、リサのこと、いつもありがとうございます。」黒服が丁寧に頭を下げ、後ろにいた若いホステスを葉山の隣に座るよう促しながら客に向かってさらに続ける。「新人のミナミです。ぜったい葉山様のお気に召すはずなんですが、いかがでしょう。」と客に笑顔をくけると、「じゃあ、次はミナミちゃんもかわいがって、売れっ子に育ててみようかな。」とその客は機嫌を良くして言った。店では黒服の手腕も問われる。黒服の言動いかんで女の子の働きやすさも変わってくる。良い店には気の利く黒服がいる。黒服に大事にされているということはお客にとって大きなステイタスの一つでもあった。
売れっ子は毎日のように出勤前に客と食事を済ませてから、一緒に店に入る“同伴”をする。わずか4時間足らずの営業時間内に、すでに彼女を指名して待つ客のテーブルを7つも8つも回る。来客のお礼にと、彼女は用意されたブランデーを一口ふくみながら、「お待たせしてすみません。今日は珍しくお客様が重なってしまって、ごめんなさいね。またすぐ戻りますから。あー、喉が渇いちゃった。一杯水割りを頂いていいかしら。」と言いながら、一息にグラスのウイスキーを飲み干す。満足そうにそれを見守る客。彼女がたくさん飲むのは、心を許しているテーブルだからこそと客は思う。彼女が飲めば飲むほど客は喜び、軽くなるボトルに店も嬉しくなるのだった。売れっ子は、ヘルプと呼ばれる女の子に自分のお客の相手を任せ、ヒラヒラと長い髪をなびかせながら、次から次へとテーブルを移る。客に合わせ話題も移る。彼女の去ったテーブルには、ニナリッチの香水だけがほのかに残った。売れっ子の彼女たちの10本の指には、ゴールドのリングが4つ、5つと輝いた。ダイヤ、サファイア、ルビーにエメラルド。大きくて深い色の石ほど価値がある。リングをかざすその仕草は水割りを作るときにも、たばこに火をつけるときにも意識が置かれる。その神経は、真っ赤に塗られたマニュキュアの長い爪の先にまで及び、琥珀色のウイスキーで満たされたグラスに添えられた白くしなやかな指をデフォルトしている。深くあいたスーツの胸元には、喜平のネックレスとコインがあしらわれたペンダントが重ね付けされている。そうして最強の兵器である彼女のまなざしは、あくまでも優しく密やかに客に注ぎ続けている。彼だけに向けられた彼女のうるんだ瞳に、客はまた今夜こそ、彼女をおとしてみたいと思うのだろう。いえ、今夜も彼女と二人きりで過ごせると思うのかもしれない。華やぐ女性に誘われて、客はダンヒルの財布から、惜しみもなく札束を使い、何枚もあるゴールドカードの中から悠々と一枚を選び出す。現金で払う客は帰るとき、釣銭と領収書の入った会計封筒の中から、領収書だけを抜き取り、あとはテーブルについている女の子に投げ渡す。一万円札以外は、身に着けないのが彼らのルール。ここでは、見栄を張る紳士のための遊びのルールがいくつも作られていた。っ店がはければ、「キング&クイーンのVIPに席を獲るから…」と、店のコたちを連れ出して、深夜の青山、六本木へと続く。ちょっと名の知れたディスコはみんな、バーゲン会場の入り口さながらの長蛇の列。黒服に金を握らせ、行列をなす若者たちが並ぶ階段をさっさとすり抜け、VIPルームへ案内させるコツを知っている遊び人たち。踊りたくて焦れている彼らをしり目に、優越感に浸る瞬間。このひと時の快楽のために、執拗に金儲けに興じていた。深夜の1時を回るころ、ディスコは盛り上がる。ひとしきり夜が長い時代だった。
店に来る客の中でも、とりわけヤングエグゼクティブ、通称『ヤンエグ』は店の女の子たちにモテた。普段は軽く客をあしらい、手玉に取るのが商売の彼女たち。ことあるごとに、『アイシテル』と唇は動くけど、決して心は動かない彼女たち。嘘をつくことは悪いことじゃなくて、自分を守るために必要な手段のひとつだった。彼女のウソを何人の男が信じ、彼女のウソに何人の男が惑わされ、人と金を失ったことであろう。なのに、薄っぺらな彼らヤンエグの腕に自ら抱かれ、あっさりと裸の自分をさらけ出す彼女たち。いつしか強固な自己防衛は彼の用紙とささやかれるたわごとによっていとも簡単に砕き落される。スリムで長身でまつ毛の長い彼。本当の自分を信じて欲しくて、素直になったはずなのに、自分の心を彼に預けた途端、裏切られたと泣いていた。泣けば泣けるほどにこの涙は、彼を愛している証なんだと、みじめな恋にますます焦がれていく。何でもたやすく手に入る時代には、叶わない恋ほど価値があるように思い溺れる。自分の不幸と愛の大きさは比例関係にあった。この商売の女の子たち特有の方程式だった。
通称ヤンエグは、20代半ばから、30代前半。サロンで焼いた肌をジョルジョアルマーニのスリーピースで包み込み、ミラショーンのベルトにポケベル。左わきには携帯電話とダンヒルのセカンドバッグを抱えながら、開閉音が自慢のデュポンのライターでたばこに火をともす。愛車はAMG560SEC.。全面に貼られたスモークウィンドーに、かすかに映る彼の横顔は、六本木の深夜のネオンの街に照らされ神秘的にさえ見えた。重く大きなドアを引いて、左足からその車に乗り込めば、ゆったりと深く包み込んでくれる温かなレザーシート。革の匂いと様々な香水が混じるその助手席に身をゆだねた瞬間、隣でハンドルをに握っている男がとても価値のあるように思えた。店ではヘネシー、カミュのXOをクラッシュアイスで。市価1万円が、店の伝票では5万円に化ける酒。店の子のバースデーにはピンドンをあけ、フルーツ盛りでテーブルを飾る。ロレックスやコルムの光る腕を彼女の肩にさらりとまわし、アラミスにすせるほどの距離で、何かをささやく。一週間に何人の彼女に同じセリフをささやくのだろう。歌舞伎町のホストに見間違う彼らだったが、おじさまばかりのお相手にいささかつかれた彼女たちにとっては、ヤンエグを気取る彼らはさながら白馬に乗った王子様だったのかもしれない。その王子様はおとぎ話同様、はやてのように現れた。そして、簡単に稼いだお金でたくさんの酒を浴び、簡単に買った彼女の心を簡単に自分のモノにした。しかし、裕福な時代の王子さまは大金を払ったにもかかわらず、モノのように買った彼女の心をまるでヴィトンの靴のように、少しすり減るとすぐさま新しいものに買い替えた…。おとぎ話の真実は残酷。
そんな彼らの職業は、不動産、ゼネコン、金融、証券、ゲーム屋などだ。何をやっても金になった。大金を手にするためには、そんなに努力はいらなくて、他の誰かより少しの度胸があればよかった。
毎晩のように20万円以上使う、20歳の客がいた。自分はたいしてお酒を飲まないのに、来店すると必ず新規のボトルを入れて女の子たちに飲ませる。味のことはわからないが、お金のありそうな人たちが飲んでいるから、いつもヘネシーのXOを頼むのだそうだ。彼らの職業は俗にいう「紹介屋」なるものだそうで、新聞やビラなどの広告に『お金貸します』と掲載して、電話のかかってきた客に対応する。事務所ではなく外で落ち合って客を金融業者へ案内する。借りられた金額の中から2割ほどをその手数料として取り上げるのだそうだ。彼ら「紹介屋」に事務所は無い。構えていない。電話一本での商売。しかも、客に紹介する金融業者は自分たちと提携している店でも知っている店でもなんでもないのだ。あらかじめ広告でリストアップした縁もゆかりもない金融業者に客を連れて行き、飛び込みで融資の依頼をするよう促すだけ。自分たちはその結果を案内した金融業社の“外”で待つ。そうして、金を貸してくれる店に客が出会うまで転々と店を連れまわすだけのこと。ここ「紹介屋」を利用するたいていの客は、すでにブラックリストに挙がっているので名の知れた金融業者では融通されない。いろいろな客を連れだって歩くにつれ、比較的たやすく借りることが可能な店を次第に自分たちも覚えていくのだそうだ。「それって、捕まるんじゃないの?!」と尋ねると、「そうだね、そんなに長く続けられる商売じゃないよ。今のうちに儲けるだけ稼いで、その時が来たら違う仕事でも見つけるよ。でもさ、たいした高校も出ていない俺らが、こんな高価な酒を飲んでこんな美人と話ができるなんて!すごい時代だよ。いや、ヤバイ時代かな…。」彼は短期間にしてこの店のVIPになった。私が席に着くことに感謝し、私の唄を無邪気にほめた。若い彼はこの店ではいつでも紳士的だった。他の誰よりもスマートな物腰でお行儀よく店で過ごしていたと思う。彼は言う。「この世の中、ばかなヤツがいっぱいいるんだよ…」
確かにこの頃、金の無い奴は馬鹿だったかもしれない。父や母が教えてくれたお金の大切さなんてたいした意味も持たない世界。価値のない札が右から左へと夜の街を移動しているだけ。もったいない、なんて言葉は死語で、努力や根性よりも時の運。もちろん私もその時の運とやらで輝かせてもらっていた。でも、なぜだか心の奥底からいつも聞こえてきていた。「世の中、そんなに甘いもんじゃない」と。優等生だった頃の自分がからだのどこかに染みついているのだろうか。すっかりこの世の中に流されている自分を少しでもたしなめるように、気がつけば私は必死で気休めのブレーキをかけていたのかもしれない。
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