第三曲『この道を行くのなら、振り返らせてはいけなかった』
それからわたしは、バンドの練習にお邪魔させていただく機会もありましたが、レイタさんがメンバーの皆様の前であの旋律を奏でる事はありませんでした。
「あー負けた!アイシャ、付き合って」
バニラのラストノートに拐われたのは、皆様がじゃんけんという激闘を終えられた直後でした。
わたしの手を引く此方の方は、赤い髪をサララと靡かせ、切れ長の瞳が魅惑的な男装の麗人、棗さんです。いえ、男装と申し上げたのはわたしの失言で、棗さんご自身にその意識はなく、女性である事も公言していらっしゃるのですが、ファンの方々はそれを真と受け止めてはおられないのだとか。
「あんたも好きなの、買ったげるよ」
ドリンクを調達しに行くという棗さんに、わたしはお供する事になりました。これは良い機会です。レイタさんの悲願の為、まずは彼女と懇ろに、お話をさせていただく事と致しましょう。
「アイシャは優しいね」
上下左右いっぱい。目を回す程に、色とりどりのラベルがズラリ。わたしが呆気に取られる間に、棗さんは扉を僅かに開けただけで腕を滑り込ませ、目当てのボトルを引き抜きます。
「レイタの為に、口下手なのにさ」
「いえ…!わたしは本当に、あの旋律に魅せられて…」
パトンッ。最後の一本を手にした後の、ガラス戸は少々乱暴に閉められました。それはつまり、
「…これが、ただの遊びなら誰も反対しないよ」
これ以上は無用ということ。
「でもあたしらは、プロになりたくて集まったんだ。最初にそれは約束したし、あいつも分かってるはずだよ」
籠の中に寝かされた、ペットボトル達がごろんごろんと転がります。その上に、レモンスカッシュは放られました。
「好き勝手に曲を振り回されたら、皆が目指す道から逸れる事になる」
弾き合う、カフェラテ、軟水、烏龍茶。林檎ジュースは、隅でじっと我関せず。
「一人の我儘で軸を曲げる事は出来ない」
味の好みは違えども、音の向かう所はひとつでなければ、途端に霧散してしまうもの。
「…レイタと違って、あたしらには戻れる道なんて無いから」
ライブの日が近づいてきたある日、レイタさんは元気が無いご様子でした。
棗さんもあのように仰っていましたし、やはり曲の件が上手くいかない所為でしょうか。わたしは出過ぎた真似をしてしまったのかもしれません。
「ああ…そうじゃないんだ」
今夜は、その月の色を盗んだかのような髪まで全てを覆うように、レイタさんは黒いニット帽を被っておいででした。
「母親に見つかってさ…」
わたしは思わずドキリとしました。まだ彼女の残滓が、振り払えていないと言うのでしょうか。
「俺、家出てて。バンドやってるのも秘密にしてたから…ちょっとした修羅場」
帽子をより目深にしてから、力無く微笑った、のだと思います。彼の表情は隠され過ぎて、わたしに知る事は出来ません。
「話をしようって泣かれて。どうにか振りほどいて来たけど…ライブももうすぐだってのに」
ですがきっと、レイタさんはそうしたくてしたのではないと、根拠のない確信をわたしは持ちました。ライブの事ももちろん心配なさっているのでしょうが、同じ程、お母様の事も気に病んでいらっしゃる。
でなければ、震えるはずがありません。
握った拳は不安定で、つと、後ろの方を見遣っては脚を組み換え。恐らく、どうしたいのかは既にもう、ご自身でも見えていらっしゃるのでしょう。
「お話…しに行かれるべきだと、思います…」
水面のゆらぎ、木々が騒ぎ、全てが彼の背を押したのだと思いました。
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