第二曲『重ね重ねて、代々木公園にて、波形』

 落ちる、水の音は絶え間なく。

「…」

 代々木公園を舐めていく夜風はどこか素っ気ないもので、レイタさんの溜め息が池に波紋を伝染してしまいそうでした。弱々しい星を映した水面は均衡を保てず、ベンチに腰を下ろすわたしたちを恨めしそうに見ています。

「…どうか、なさいましたか」

 いつもなら、此処で時を忘れるまで、黙々とギターを弾いていらっしゃるはずですが。今宵はまだ、ケースに手を掛けてすらいないのです。

「…没った」

「?」

「渋谷でアイシャが良いって言ってくれたやつ」

 申し遅れました。わたしはアイシャと申します。

「正確には裏メロだけな。主旋その他はそのままいく」

「うらめろ…?」

「こないだの、ギターだよ」

「そんな!あの素敵な旋律を、なくしてしまわれるのですか」

「…そういう事になった」


 レイタさんの両の瞳は、黒に揺らされ漸う水面を貪ります。其処からはじまる草木のざわめき。朝に眠る星があるなら、これは彼の遺言でしょうか。

「…俺は、歌くらいは綺麗な夢であれなんて思わない」

 東京で一番広い空の下、彼はギターケースを開きます。

「現実はもっと汚くて…理想とはかけ離れたものだってこと、みーんな良く知ってる」

 六本の弦が月を浴み、命がとくとく沸き出すように、爪弾く所から素裸の音色が、折り重なって響きます。

「嘘や建前だけじゃ、輝いたってそれは上っ面で、」

 ペグを回して弦を弾いて。何度かそれを繰り返しましたら、レイタさんは薄く、そうとは分からないくらいに微笑みます。

「そんなものは、誰にも見向きもされずにすれ違ってく。表は裏がなければ、裏は表がなければ、」

 水音がキラキラと、拍手をしているかのようでした。わたしの心臓も呼応して、この期待の音が聞こえますか。

「いつまでもただの薄っぺらの、のっぺらぼうだろ」

 そして奏でられたのは、あの夜のメロディでした。まるで終わりなど知らないように、あれからわたしの中でずっと鳴り続けているものです。

「誰かと目を合わせたいなら、顔を持たなきゃ…その為に、」

 切なく猛る、叫びのようで願いのようでもある音色。

「嘘には真が」

 より一層の情感は、また、わたしに新しい音を与えて呉れます。

「…建前には、」

 次々と、それらは重なって行くのです。

「…」

「…」


 ――生き生きと。そして、色と形を持った、波となれ。


 高く聳え立つ噴水は、蒼に照らされ揚々と空を羽織ります。其処からはぐれた飛沫の煌めき。夜に光る蝶があるなら、あれは彼女の鱗粉でしょうか。

「…この旋律が、レイタさんの本当の音なのですね」

 余韻は、その景色が独り占めにしてしまいました。

 弦をそっと撫でてから、レイタさんは先程よりかは顔を上げ、自嘲気味に口の端を歪めます。

「そう。だから隠れてなくちゃいけないのに」

「…?」

「…みっともなく闇雲に動き過ぎだって、言われた」

「…」

「…主旋を食うからって。それも実際当たってる」

 ピックを弦の間に差し込むと、レイタさんは組んでいた脚を下ろしました。

「俺は最初から、裏で終わらせる気がなかった。それを皆、気付いてたんだと思う」

 懺悔と呼ぶにはあまりに、純粋すぎる思いが匿われているように思われました。誰も触れることは出来なくて、

「ヴォーカルのパートと対等にやり合うつもりで、」

 触れられることも出来なくて。

「それで…俺は誰かと目を合わせたかった」

 レイタさんの横顔には、強い意志が宿っていました。「誰か」と言いながら、まるでその人をもう、見つめていらっしゃるかのような。

「でもそれだと、バンドの曲として成り立たないんだよな、多分」

「…」

 相槌すら打てないわたしに、彼はふっと笑みを下さいます。

「でもさ、だからって訳じゃないけど、あの夜アイシャがじっと聴いてくれた事、感謝してる」

 それは段々と深く。

「このメロディを見つけてくれて、…素敵だって言ってくれて、」

 どこまでも無垢に。

「本当に嬉しかった」

「…いえ…わたしは…」

「救ってくれたんだよ、俺の本音を」

 何かとても大きな、わたしなど近づくことすら憚られるものが、其処には収められているのでしょう。ですから、わたしに出来ることは唯ひとつだけ。

「…わたしは只、美しいものを愛でただけです…」

 顎の下で結ばせた、グログランリボンが少し邪魔です。

「…ありがとうな」

 ぐうっと。これが、照れ。不安や怯え等ではない、嬉しい感情の仲間なのですね。こんな時にも、人は下を向きたくなる事を、たった今わたしは知りました。

 すると、ぽん、ぽんっと勢い良く、コルク栓が飛び出るように、興奮しきりの言葉がわたしの唇を離れます。

「本当に素敵で、心を掴まれて…今もまだ、鳴りやみません。わたしの中で次々、音を重ねて、膨らんで…」

 はっとした時には既に、レイタさんは心底楽しげに身を乗り出していらっしゃいました。

「…うん、それで?」

「…ええと…」

「弾いて教えてくれよ、ほら」

 そう仰ってストラップを脱ごうとなさいますが、わたしは慌ててそれを止めます。

「あ…わたしは、楽器は…」

「んー、だったらピアノは?なんか出来そうだけど」

「いえ…何も…」

「音楽、興味なかった?」

「…好きです、とても」

「じゃあ今からでも何か楽器、始めてみろよ。アイシャの中でどんな風に鳴ってるか、すごい興味あるし」

「…駄目です」

「なんで?」

「…」

 わたしは、もっと言葉に迷うと思っていました。もう二度と会わない、会えない。そういう決意で此処に在るはずのわたしですのに、いとも容易く、この口は。

「…母が、悲しい顔をします…」

 がんじがらめに。未だにわたしは、縛られているのです。

「…そっか」

 毛羽立つ空気を宥めるように、レイタさんはしばしの沈黙の後、静かに「ごめんな」と呟かれました。お気を遣わせてしまいました。

「いえ、いえ。でも…」

 今一度、鳴りっぱなしのこの旋律の群れに、わたしは耳をそば立てます。上手く言えなくても、伝えたい気持ちに変わりはありません。心に流れる音楽を精一杯、彼に、言葉と誠意を尽くしてみたい。

「…綺麗な顔を、していらっしゃいます」

 薄っぺらい、のっぺらぼうなどでは決してありませんでした。

「レイタさんとわたしとは、今、目が合っています。すれ違わずに、こうして…」

 向かい合って、瞳に同じ世界を映して。

「このメロディはわたしの中で、奏でる毎に厚みを増して」

 波を打ち、形を成し、重なり行く。

「…泣いてしまいそうな程、美しいです」

 そうして見上げた夜空には、星が息を吹き返したかのよう。

「…」

 レイタさんは、下を向いてから、仰いました。

「そっか。…だったら、同じかもな」

 呼吸すら今、心地よいのは。

「きっと俺たちの波形は、ぴったり重なる」

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