07 夜鴉、苦い記憶を夢に見る


「雲雀に、手ぬぐいと扇子を見繕ってやりたいんですが構いませんか?」


 圓山師匠にそんな打診をしたのは、「もうすぐバレンタインですね」と雲雀が五月蠅くさえずり始めた頃の事である。

 雲雀がいない隙にこっそりと提案すると、師匠はひどく驚いた顔で俺を見つめていた。


「かまわねぇが、何故そんなことを聞く」

「師匠が、買うつもりになっているかと思ったので」


 手ぬぐいと扇子は噺家にとって大事な商売道具だ。だから初めて高座に立つ弟子へのはなむけとして、師匠が贈ることは少なくない。

 特に圓山師匠が雲雀をいたく気に入っているのはわかっていたから、彼がすでに用意しているかもしれないと思い、あえて一声かけることにしたのだ。


「考えてはいたが、あいつはお前から貰った方が喜ぶだろう」


 それしか使わないと言い張るところが見えると、師匠は笑った。


「しかし、あいつと仲良くしてるようでほっとした。特に年が明けてからは、ずいぶん構ってやってるみたいだしよ」


 確かに、俺は雲雀と過ごすことが多くなった。彼女は少しずつ俺に遠慮が無くなってきたし、望まれれば俺は時間を作り側にいてやることも多い。


「お前、あいつに惚れたのか?」

「そう、見えますか」

「はぐらかすなよ。あいつのこと、好きで堪らねぇって顔してるぞ」

「だとしたら怒るところでは?」


 自分は彼女と十も年が違うし、十七の少女に本気になるなんて犯罪だ。

 だから逆に雲雀が心配にならないのかと尋ねたが、師匠は楽しげに笑うばかりだった。


「あんだけ真っ直ぐな好意向けられて、逃げられる奴がいるかよ」

「じゃあ最初から、こうなると思っていたんですか?」

「まあな。それにお前なら、あいつを幸せにしてやれそうな気がしたし」

「買いかぶりすぎですよ」


 師匠が思っているほど、俺は出来た人間ではない。

 誰かを、幸せに出来るような人間ではない。


 確かに俺は雲雀に惹かれている。彼女の好意を、近頃は正面から受け止めているが、それは彼女を幸せにするためではない。ただ俺が、逃げそこなっているだけなのだ。


「俺は師匠や雲雀が思っているほど、ろくな人間じゃないんです」


 なぜならこのとき既に、俺は決めていたのだ。

 次の春までに、落語と落語に関する全てから縁を切ると――。

 師匠とも、そして雲雀とも縁を切り、別のところで生きていくと。


「お前は時々、自分を卑下しすぎる傾向があるな」


 でも俺の決意など知らない師匠は、優しい笑顔を浮かべながら、俺の肩をポンと叩く。


「なんでそんなに自信が無いのかわからんが、お前は噺家としても、男としても、立派になると思うぞ」


 師匠の笑顔と言葉は、暖かくて優しかった。

 彼に認められることは嬉しかった。そして幸せだった。


「うちにも、お前みたいな息子がいたらな」


 けれど同時に、師匠の言葉は、俺の胸を深く抉った。


「俺も、師匠の子供になりたかったです」


 もし彼の子供だったら、きっと笑顔が絶えない毎日を送れただろう。

 そして雲雀とも、ずっと一緒にいられただろう。


 だがどんなに願っても、俺は師匠の息子にはなれない。

 落語の才能があっても、師匠が息子にと望んでくれても、俺の身体に流れているのは噺家の血ではないのだ。

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