08 夜鴉、最後の朝の夢を見る
「それじゃあ、来週の初天神は絶対聞きに来て下さいね!」
絶対ですよと念を押しながら、雲雀は俺の箪笥から勝手に拝借したシャツを着て、俺の作った朝ご飯をかき込んでいた。
泊まるとごねたあげく、風呂場や寝室に突撃してきた昨夜の所業を思うと怒りたくなるが、俺が贈った手ぬぐいと扇子をニコニコしながら見ている所を眺めていると、叱る言葉が出てこない。
「いいですか、絶対ですよ!」
「何度も言わなくて良い。わかってる」
「遅刻厳禁ですよ」
「わかった」
「あと、できるだけ前の席に座って下さいね」
「ああ」
頷きながら、俺は雲雀の横に腰を下ろし、せわしない食事風景をぼんやりと眺めた。
すると彼女がふと顔を上げる。寝起きのせいか、彼女もまたどこかぼんやりした眼差しを俺へと向けていた。
見つめ合っているのに、何かが少しずれているように感じたのは、多分後ろめたさのせいだろう。
初天神を聞きに行くと約束したのに、俺はそれを破るのだ。
「じっと見てますけど、もしやムラムラしましたか?」
「するわけがない」
「えー、せっかく彼シャツ着てるのに」
「そもそも彼じゃないだろう」
「キスまでしたじゃないですか」
「キスだけだ」
「じゃあ今度デートしましょう。あと私の乳首も……」
「見ないぞ」
「見たくないんですか!?」
「見たいわけがない」
間髪入れず返すと、「成長が足りないのかな……」と雲雀は自分の胸をさすっている。
まあ確かに平らだなと、俺は笑った。
笑いながら、雲雀にこれ以上色気が出なければいいのにと、俺はこっそり思う。そして誰も彼女の魅力に気づかず、一生独り身でいればいいのにとも思う。
「……俺は、本当に馬鹿だな」
「へ?」
「いや、独り言だ。それより早く食え、そしてさっさと帰れ」
本当は帰ってほしくなかったけれど、側にいれば決意が鈍る気がして、俺は彼女が食事を終えるとすぐに服を着せ、玄関まで追い立てた。
「じゃあ、おじゃましました」
「ああ」
「また来ますね。呼ばれなくても、来ちゃいますからね」
「良いからさっさと帰れ」
「あっそうだ、帰る前に忘れ物しました」
「そんなものはない」
「とか言って、わかってるくせに」
何かを期待するように見上げられ、俺はため息をつく。
それから俺は身をかがめ、雲雀の唇をそっと奪った。
欲しいとねだるくせに、唇を重ねれば小さな身体はこわばり竦む。
でもそこが堪らなく愛おしくて、俺は彼女を強く抱き寄せたくなる。
「……これで、満足か?」
けれど結局、俺はすぐに唇を離した。
「満足しました!」
嬉しそうに笑って、雲雀が俺の部屋を飛び出していく。
その姿がドアの向こうに消えたあとも、俺はしばらくその場から動けなかった。
「本当に馬鹿だな、俺は……」
何故自分は、雲雀を選べないのだろう。
どうして自分のことを欠片も愛していない家族を捨て、彼女の側にいる努力をしないのだろう。
今更家族に未練など無いはずなのに何故、どうしてと考えながら、俺は壁に寄り掛かり、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
その身体が無様に震えているのを見て、俺は今更のように気がつき、自嘲する。
――俺は多分、未練が無いからこそ、怖いのだ。
25年近く生きてきたのに、俺は家族を失うことに欠片の未練も湧かない冷たい人間になってしまった。
実の親も、育ての親も、誰一人俺を愛してくれなかった。そして俺も、家族を愛せなかった。
そんな自分が、今更雲雀や師匠のような温かい人間の側で、上手くやっていける自信がなかったのだ。
一緒に暮らすうちに自分が冷たい人間であることが露見して、ようやくできた大切な人たちに嫌われるのが恐ろしかった。
そのくせ、彼女を正しく遠ざけることも出来ず、別れも言えず、無様に逃げ出すことを選んだ自分が、俺は情けなくて憎かった。
でも情けなくて憎らしい自分を変えることも出来ず、俺はその日のうちに家財道具を処分し実家へと戻った。
「利用できる駒が戻ってなによりだ」と、父は――父だと信じたかった人は笑ったが、歓迎されているわけではないのは察していた。
「正気に戻ったのなら、今後は二度とあの馬鹿げた芸事について喋るな」
父の言葉に「はい」と応えた自分の声は、どこまでも虚ろで空っぽだった。
冷え冷えとした声を聞いていると、自分はもう二度とご隠居や与太郎や熊さんにはなれないのだと今更のように自覚したが、なりたいという気持ちはすでに心の奥に沈み込み、見えなくなっていた。
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