02 夜鴉、雲雀と鯛焼きの夢を見る
物心ついた頃から、俺は聞き分けの良い子だと評判だった。
常に愛想が良く、笑顔を絶やさず、言いつけを決して破らない子供だった。
誰に言われたわけでもなく、自然とそんな振る舞いをしていたのは、そうしなければ家族に認めてもらえないと子供ながらに察していたからかもしれない。
だから常に完璧で欠点がない。そんな人間であろうと、俺は小さな頃から努力し続けてきた。
しかし自分は完璧では無いと思い知らされたのは、嵐のような少女と出会った時だった。
「藤先生! いますごくムラムラしたい気分なんです、芝浜を聞かせてください」
「会っていきなり、往来で堂々と破廉恥なことを言うんじゃない……」
少し前の自分なら、どんな馬鹿げた質問や言葉も笑顔で交わすことが出来たはずだった。
気の利いた返しをして、逆に相手を煙に巻くのが得意だったのに、俺の顔には動揺と呆れが浮かんでしまっていた。
「あっ、もしや今日の私がいつもより可愛いんで、ドキッとしました? 突然声をかけられて、胸が高鳴りました?」
「してない」
「知ってます? 胸の高鳴りは恋の高鳴りなんですよ。つまり、今、藤先生は私とのめくるめく愛の旅路へと踏み出したわけですよ」
「恋も愛も胸の高鳴りもない」
思いのほか冷たい声が出てしまい、俺は困惑する。
雲雀はようやく見つけた居場所を奪った元凶で、何よりも憎い存在だった。なのに彼女は俺を好きだと言い、付きまとい、馬鹿げた言葉でイライラさせてくる。そのせいか、俺はまるで拗ねた子供のように、冷たく素っ気ない対応しか出来ないのだ。
「あ、あそこの鯛焼き美味しいですよね! あーいいなー鯛焼きいいなー」
「……人の話、全然聞いてないな」
「鯛焼き、鯛焼き食べたいなー」
「ねだっても買わないぞ」
「ねだってないですよ。ただ買ってくれないと、あそこの水たまりに背中から飛び込んでごねるだけです」
「お前は初天神の金坊か」
「おー、このネタが通じるなんてさすが藤先生」
「おだてても買わないぞ」
「ケチ。お便所がどうのって会社の社長のくせに」
「……ベンチャー企業と言いたいのか?」
一応突っ込んだが、雲雀は鯛焼きをじっと見つめるばかりで聞いちゃいない。
「……それで、どの味が食べたいんだ」
「買ってくれるんですか!」
「最初からたかる気だったくせに」
「もうっ、冗談ですよ冗談。好きな人にたかるほど、私は落ちぶれちゃいないんです」
言うなり、雲雀はスタスタと俺から遠ざかっていく。
「おい、これから師匠の稽古だろう」
「そういう気分じゃないので」
「圓山師匠の稽古をサボるなんて罰当たりも良いところだぞ」
「大丈夫ですよ。仏みたいな顔してますけど、師匠はあれでもまだ死んでないんで罰とかあたりません!」
言うなり、雲雀は脇目もふらず、あっという間にいなくなってしまう。
「なんなんだあいつは」
鯛焼きを買う気にさせておいて、いなくなるとはどういう了見だと腹立たしかった。
だから腹いせに自分と師匠と奥さんの分だけ鯛焼きを買って、俺は師匠の家へと向かう。
「おいっ、雲雀はどこだ!」
そして家に着くと、案の定師匠が血相を変えてやってくる。
「買い出しの途中で見ました。会うなりメチャクチャなこと言ったあげく、稽古をサボると言い出して……」
「サボるのはどうでも良いんだよ! あいつ、なんか変じゃなかったか?」
「変でしたけど、それはいつもでしょう」
「でもなんかこう、思い詰めた感じはなかったか?」
「なかったですけど、何かあったんですか?」
師匠の様子がどこかおかしい気がして、俺はすぐに尋ねる。
「さっき施設から電話があって、あいつのじいさんが危篤だって……。それで一緒に病院に行こうって言ってたんだが、先に飛び出していっちまって……」
師匠の言葉に、気がつけば俺もまたその場から駆け出していた。
来た道を戻り、雲雀が消えた方へと俺は走る。
たぶん向かった先は駅だと思い、改札を抜けてホームに駆け込むと、雲雀はベンチに座りぼんやりと電車を待っていた。
さっきまではあんなにはしゃいでいたのに、馬鹿馬鹿しいことしか言わなかったのに、雲雀の顔は暗く沈んでいた。
「あっ……鯛焼き……」
なのに俺を見つけた途端、彼女は何事もなかったような顔で笑った。
それを見た瞬間俺は悟ったのだ。
彼女もまた、自分と同じように、本当の自分を隠しながら生きているのだと。
なぜそうしているかはわからないけれど、彼女は悲しい顔を人に見せない人間なのだと、俺はそのとき気づいたのだ。
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