09 圓山、間違いに気づく


 その後、親友は何を誤解したのか、俺と藤の再会場所にホテルのスイートルームを選んだ。


 目立つところに避妊具と「不倫はほどほどにね」というメモまで置いてあり、真面目な話をするどころでなくなったのは言うまでも無い。


 けれど今思えば、そんなアホな状況だったからこそ、誕生会のときとちがって、俺たちは言葉に詰まること無く、身の上話をすることが出来た。



 俺は小雀に散々手を焼かされていることを語り、藤は十年前に姿を消した理由を話した。


 藤が消えた一番の理由は、奴と家族との――特に父親との――確執だった。

 噺家になりたいと言い出したとき、藤は家族と相当揉めたらしい。

 だがまあ、当たり前と言えば当たり前だ。藤は大学時代から会社を起業できるような頭の良い奴だったのに、いきなり噺家である。


「揉めた末に、父から『冬風亭圓山』に弟子入りできたら、認めてやると言われたんです。俺には無理だと思っていたようですし、万が一うまくいっても、人間国宝の弟子なら最低限のメンツを保てると考えていたんでしょう」

「それで、俺の所にきたのか?」

「元々俺はあなたに憧れてましたし、師匠に弟子入りできなかったら意味は無いと思っていたので」

「何でそれを言わなかったんだよ。そうしたら俺は、お前を……」

「言えば選んでくれるとわかってたんです。でも雲雀を押しのけてまで、弟子にはなりたくなかった」


 それに怖かったのだと、奴は項垂れた。


「小さい頃から、師匠の落語を聞くことだけが生きがいでした。でもそれは許されないことだと、ずっと言い聞かされてきたんです」


 幼い頃から、奴は俺の落語を聞いて、いつかこんなふうに喋ってみたいと願ってくれていた。

 だがそんなささやかな願いを、彼の父は許さなかった。

 落語を聞いていることを知った父親は、藤を激しく殴り、叱責したのだ。

 藤の父は、息子に完璧さを求める男だった。子供らしく笑う事を許さず、他のオモチャすら買い与えないような男だったと言うから、落語もまた不要な物だと判断されたのだろう。


「落語を二度と聞くなと約束させられたとき、師匠のCDやテープを全部、俺の手で捨てるようにと父は言いました。そしてそのときのことが、ずっと頭から離れないんです」


 CDをたたき割った時の感触や、テープをこの手で引き裂いたときの辛さが消えないのだと告げる奴の身体は、震えていた。


「師匠と大学で出会って、運命だと思って、今度こそは落語の側で生きていこうと決めた後も、俺はそれが忘れられなかった……。いつかまた、この手で大切な物を壊す日が来るのではと、怖かったんです」


 だから逃げたのだと震える肩を、俺は優しく抱いてやった。

 そうすると、奴はどこか怯えるように身を強張らせた。


 多分この男は、誰かにこうして慰められたことがなかったのだろうなと、俺は思った。

 どんなに悲しいことがあっても、こいつは一人で耐えてきたのだろう。


 きっと、小雀のことを放っておけなかったのもそのせいだ。

 辛いとき、たった一人で耐える苦しさを身をもって知っていたから、小雀の世話をかいがいしく焼いていたに違いない。

 そして懐かれ、こいつ自身も小雀が大事になり、余計に苦しんだのだろう。


「俺は師匠のようになりたかった……。なのに顔も、仕草も、考え方も、落語を捨てろと言った父にどんどん似てくるんです」


 そして落語のやり方も忘れてしまったんです。

 あいつの好きな『猫の皿』ももう出来ないんです。


 重なる声はあまりに苦しげで、聞いていられなくて、俺は藤の背中を強く撫でた。


「忘れたなら、俺が思い出させてやるよ。むしろ前よりずっと、上手く喋らせてやるよ」


 猫の皿は俺の十八番だぞと笑うと、藤がゆっくりと顔を上げる。


「それに俺も小雀も、お前なんかに壊されるほどヤワじゃねぇよ。むしろお前、あいつに壊される心配しろよ。この10年で、あいつは前よりずっと破天荒な女になったぞ」 


 そう言って笑えば、ようやく奴の顔にほんの少しだけ人間らしさが戻ってきた気がした。


「なあ藤、お前は今もあいつが好きか?」


 気がつけば、俺は尋ねていた。

 一方藤は俺の言葉に、困ったような、途方に暮れたような顔をしていた。


「自分でも分かりません。結局一度も、俺はあいつの落語を聞きに行っていないので」


 それこそ意識している証拠じゃないかと思ったか、今の藤は自分の気持ちを上手く理解することが出来ないようだった。


 この十年で奴に何があったかは知らないが、藤は自分というものを無くして、ただ虚ろに生きているように見えた。


 そしてそのきっかけを作ったのは、俺だ。


 いつもいつも、俺は大事な物を見逃してしまう。

 小雀の目が見えなくなることも。そして藤が複雑な事情を抱えていたことも、俺はすぐには気づけなかった。

 そのことに誰よりも早く気づいて「気にせず俺に頼れ」と受け入れていれば、きっと二人は仲良く並んで落語をやっていたはずなのに……。


「小雀の落語、聞きに来いよ。それでもしあいつの落語に笑ったら、もう一回俺の所にこい」


 今度こそ弟子にしてやるからというと、藤はやっぱり困ったような顔をした。

 そんな簡単にいかないことは、俺だって分かっていた。

 奴は大企業の社長で、御曹司で、今更簡単に仕事を放り出せる立場ではないだろう。


 でも言わずにはいられなかったのだ。

 

 俺は藤が幸せそうに笑っている姿を見ていた。

 それに小雀が、藤の側で笑っている姿も見てしまっていたから。


「俺が弟子にしたら、親父さんだって認めてくれるんだろう?」

「もう十年も前の約束ですよ」

「でも、約束は約束だ」

「それに師匠は、一人しか弟子は取らないんでしょう」

「あんなのは弟子とは言わないから、いいんだ」


 俺の言葉に藤が小さく笑った。愛想笑いではない、本物の笑顔だった。


「ともかく聞きに来い。お前もそうだが、あいつもずっと迷子なんだ」


 だから小雀の落語を聞いてやって欲しいというと、藤は小さく頷いた。


■■■      ■■■


 そして律儀な藤は、時折寄席に顔を出すようになった。

 その頻度が少しずつ増え、小雀に色男のファンが付いたと周囲も騒ぎ出したのはそれからすぐのことだ。

 小雀本人は素知らぬ風を装っていたが、察しの良いあいつが藤が近くにいるのを感じていないわけがないと俺にはわかっていた。

 それに藤も、自由すぎる小雀の落語を聞いて、窮屈な世界に戻れるわけがなかった。いやたぶん、奴はその覚悟で寄席に足を運んだのだろう。


 とはいえ思ったように事は進まず、特に藤の方は煮え切らない。

 だから小雀の合コンを計画して揺さぶりをかけたりと、俺も影ながら手を尽くした。



 そして藤と再会した半年後――、俺はやつに『冬風亭夜鴉』という名前をようやくつけてやることが出来た。

 おかげで小雀は拗ねてばかりだが、黒峰龍介なんてもんよりずっと相応しい名前をつけてやったと、俺は思っている。

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