08 小雀、庭に落ちる


 覚悟を決めてから、実行するまでは我ながら早かった。


 なにせ医者からは「近いうちに見えなくなる」という、非常に曖昧な宣告を受けたのである。

 近いうちっていつだ。明日か、明後日か、来年か。

 ともかくそれが分からないなら、すぐにでもやりたいことはやろうと思ったのである。

 そして私は藤先生をつけた。ストーキングである。

 本来なら、教室終わりに捕まえれば良いのだが、他の生徒たちが群がっていて私なんぞは太刀打ちできない。


 だから講義終わりの先生の後をつけて、彼が入っていった古い一戸建てまでやってきた。

 当時の私は、先生はハイソなタワーマンション当たりに住んでいると思っていたため、正直少し意外だった。昔ながらの日本家屋と言った雰囲気の住宅は、敷地こそ広かったがとにかく古かったのだ。

 キャラにはあわないが侵入し易い物件であることは有り難かった。だから私はしめしめとほくそ笑み、こっそり塀を乗り越え庭へと入ったのだ。


「ずいぶん大胆な泥棒がいたもんだな」


 そんな時、先生のものではない声がして、私はずるりと塀から落ちた。

 その様子をケタケタと笑う声を聞きながら身体を起こすと、縁側に一人のじじいが座っていた。


 のちの師匠、『冬風亭圓山』師匠である。


 もちろん師匠の顔は知っていたし、それが目の前にあることに驚いた。こんなことなら色紙を持ってくるんだったと馬鹿なことを考えて、そこで私は自分が不法侵入者であることを思い出す。

 怪しいものではありませんと言うのも今更だし、改めて玄関に回るのもどうかと思い、ひとまず私はその場で正座をした。


「ふ、藤先生はいますか!」

「お前、俺を前にして違う男を呼ぶのかよ」

「せ、先生に落語を聞いて欲しくてきたんです」

「いや、人間国宝だぞ俺は。俺に聞かせろよ」

「だ、だって、先生に笑って欲しいので」


 じじいは、趣味じゃないので。


 多分そんな本音も、ぽろっと溢していたと思う。

 師匠は心底呆れた顔をして、それから部屋の奥に向かって「藤っ!」と先生を呼んでくれた。

 家事をしていたのか、藤先生はエプロン姿で現れた。尊い……としみじみ思いながら手を合わせかけて、私はそこではっと我に返る。


「先生、落語を聞いてください!」


 慌ててお願いすると、彼は心底驚いた顔をした。まあ当たり前である。


「小鳥遊さん……だったよな」

「はいっ!」

「あの、どうしてここに?」

「ストーキングしました! 先生に、落語を聞いて欲しくて」

「あの、それは、犯罪……だぞ?」


 苦笑と共に言われ、私は頷いた。


「百も承知です。でもどうしても聞いて貰いたくて。嫌だって言っても聞いて貰いたくて、縄も用意しました」

「縄?」

「いざとなったら、先生を縛って、監禁して、一席やろうかと」

「いや、だからそれは犯罪なんだが、わかってるか?」

「はい! 聞いて貰ったら、ちゃんと自首しますので!」


 でもとにかく、私の落語を聞いて欲しいと言うと、側で成り行きを見守っていた師匠がぶふぉっと笑った。


「お前、えらいのに好かれたな」

「笑い事じゃ無いですよ。とりあえず、この子帰る気なさそうなんで、上げても良いですか?」

「いいぞいいぞ。おい小百合ちゃん、女の子が好きそうな菓子でも出してやってくれないか」


 私の熱意が認められたのか、私はそのまま師匠のお宅に上がらせて貰い、師匠の奥さんにケーキを出して頂いた。

 スーパーで売っているケーキではない、デパートの地下で売っている本物のケーキだった。おいしかった。


「それで、お前さん何をやるんだ?」


 ケーキを食べていると、師匠が身を出しながら聞いてきた。


「初天神です。得意なので」

「真夏にやるもんじゃねぇよ。あ、そうだ、怖いのやれよ」

「私は藤先生を笑わせたいんです」

「だめだ、怪談やれ怪談」


 なぜ藤先生ではなく、師匠の希望を聞かねばならないのかと言う顔をしたら、そこでコツンと小突かれた。


「お前、落語好きなんだろう」

「好きです」

「じゃあ俺のことも知ってるだろう」

「知ってます」

「なのに、俺の提案を無視するのか?」

「尊敬してますし、サインが欲しいくらいには好きです。ただ…あの、その……」

「怒らねぇから素直にいえ。俺は、まごまごしてる奴が大嫌いなんだ」

「……じゃあ素直に言います。自分は師匠の落語がそこまで好きでは無いので、俺の意見を尊重しろと言われても『ふーん』としか思わなくて」


 そこで藤先生がものすごく慌てた顔をした。慌てる顔も素敵だった。


「なんで好きじゃねぇんだよ、俺は人間国宝だぞ」


 怒らないと言っていたのに、師匠は明らかに怒っていた。だから私はこれ以上彼を怒らせないよう、まごまごせず、思った事ははっきり言おうと決めた。


「だって師匠、顔が五月蠅いから」


 そこでぶふっと、今度は藤先生とケーキを出してくれた奥さんが噴き出した。

 噴き出した藤先生も、やっぱり素敵だった。


「笑うなよそこ! おい、顔が五月蠅いってどういうことだ!」

「言葉の通りです、落語をやってるときの顔が五月蠅いなって感じるんです。だから師匠の落語は、いつもCDで聞きます」

「CDならいいのか」

「どの噺家のCDよりも聞いてます」

「なのに好きじゃねぇのか」

「CDは好きです。でも見るのは、藤先生の落語が一番好きです」

「こいつの方が顔が五月蠅いだろう。彫りが深くて、目も大きくて、髪もさらっさらなイケメン顔だぞ! 俺より五月蠅いぞ!」

「先生は五月蠅くないです。それに五月蠅い顔が更に五月蠅くなるより、圓山師匠みたいな不健康そうで地味な顔が五月蠅くなるのが問題なんです。気が散るんです」


 そこで奥さんが先ほどより盛大に噴き出し、師匠はちょっと、拗ねたような顔をした。


「お前、絶対初天神やらせねぇからな」

「えー」

「えーじゃない! ほら、藤もなんか言ってやれ」


 急に話を振られ、藤先生は困ったように笑った。やはりその顔も、素敵だった。


「師匠は言い出したら聞かない人だから、腹をくくるしか無い」

「でも藤先生に笑って欲しくて」


 先生に落語を披露するのは最後の機会になるかもしれないし、それならば笑顔を目に焼き付けたい。

 そう思って答えに困っていると、押し黙る私の頭を藤先生がぽんと撫でてくれた。


「初天神は、今度落語教室で聞くよ」

「じゃあ、やります」


 頭を撫でられた喜びと、次があるうれしさで、私ははじかれたように顔を上げた。

 それに師匠は面白くなさそうな顔をして、それから手ぬぐいと扇子を私に押しつける。


「それかしてやるから怪談やれ。……あれだ、『牡丹灯籠』やれよ」

「えー、アレ長いじゃ無いですか」

「有名な所だけでいいよ? あ、そもそもお前、覚えてるのか?」

「覚えてますけど、アレやるとお腹すくんです。だから、ケーキもう一個食べて良いですか?」


 私の言葉に、師匠が自分の分のケーキを差し出したので、遠慮無く食べる。

 やっぱりケーキは美味しかったので、コレは気合いを入れなければと思い直し、私はキリッとした顔で師匠の手ぬぐいと扇子を拝借した。


 正直、それから後のことは、良く覚えていない。


 あの頃はまだ未熟で、一度噺に入り込むと客観的に自分を見ることが出来なかったのだ。

 そもそも、祖父母以外の前で落語をやったのはコレが初めてだったし、藤先生が見ていることに凄まじく緊張していたのだと思う。


 下げの台詞を口にして深く頭を下げると、ようやく目の前が光が溢れ、私は現実に引き戻された。

 そして恐る恐る顔を上げたとき、待っていたのは師匠と藤先生と奥さんの、唖然とした顔だった。

 怪談話として、この反応は正しいのだろうかと考えたが、牡丹灯籠は祖父母にも聞かせたことが無いので分からない。

 とりあえず、ポカンとしている三人を見つめていると、そこで藤先生の表情が僅かに暗くなった。


「……下手でしたか?」


 慌てて身を乗り出すと、彼は僅かに言葉に詰まってから、私ではなく師匠の方を見た。その顔は、何故だかとても苦しげだった。

 そこで師匠も藤先生の方をチラリと見て「……すまん」と小さく溢す。

 やりとりの意図が分からず途方に暮れていると、師匠が台所から更にもう一個ケーキを持ってきた。


「食べろ」

「良いんですか」

「ああ。……ところでお前、このケーキは好きか?」

「好きです。それよりあの、感想は?」

「いいたくねぇ」


 苦虫をかみつぶしたような顔をされ、渋々藤先生の方を見ると、彼はいつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。

 悪くは無かったらしいとわかり、ほっとしていると、食べかけていたケーキの皿を、師匠が突然攫っていく。


「このケーキ、好きだって言ったよな」

「はい」

「毎日食べたいか」

「食べたいですね!」

「じゃあ、俺の弟子になれ。そうしたら、毎日食わせてやる」


 なんと素晴らしい申し出だろうと喜びかけて、ふと気づく。


「弟子って、私ですか?」

「ああ。お前ケーキ好きだろう」

「好きです」

「落語も好きだな」

「メチャクチャ好きです」

「藤を笑わせたいんだよな」

「はい、笑わせたいです!」

「なら、俺のところで修行しろ。お前は、なんつーか、まだまだだから、今のままじゃ笑ってもらえないぞ!」


 ショックのあまりフォークを取り落とすと、藤先生が、それをすっと拾ってくれる。

 でもそれを喜ぶ余裕も無かった。自分はまだまだなのだと、先生を笑わせられないのだというのが悲しかったのだ。

 自分には時間が無いのにどうしたらいいのだろうと考えていると、私は師匠が人間国宝であることを思い出す。

 彼の下で修行をすれば、人よりずっと早く落語が上手くなるかもしれない。そうすれば、目が見えなくなる前に藤先生を笑わせる噺ができるかもしれない。

 その時の私は、そんな考えに至ったのだ。


「弟子にしてください! 私、藤先生が私の落語で笑った顔を、どうしても見たいんです」

「じゃあ決まりだな。あれだ、親御さんに挨拶にいくから支度しろ」

「あ、今日は無理です。面会時間過ぎてるんで」

「面会?」

「うち、家族はもうお爺ちゃんしかいないんです。でもぼけちゃって、今施設にいて」

「お前、じゃあ今一人なのか?」

「はい。だからあの、弟子になるって話しても、『今日の干物は美味しいね』しか言わないと思うんですけど、大丈夫ですかね」


 調子が良いときは少し会話が出来るのだが、夏はいつも干物か干し柿の話しかしないのだ。でもじいちゃんは、干物も干し柿も苦手で、食べたことが無いのである。

 それが不思議だ……ということをついうっかり語っていると、ものすごく複雑そうな顔をされたあげく「とりあえず今日は泊まっていけ」と言われた。


 不法侵入したお宅に泊まるのは申し訳ないと思ったのだけれど、「夕飯はすき焼きにする。藤が用意する」と言われ、私はつい頷いていた。すき焼きなんてもう十年は食べていなかったからだ。


 そしてその日から、私はずるずると、師匠のお宅で暮らすようになったのだ。

 美味しいご飯と、ケーキと、藤先生の側にいられるという餌に釣られて。

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