アラフォーの旅立ち

 酷暑、酷暑、酷暑。

 毎朝繰り返されるニュースを横目で見ながら雅人まさとは朝食を食べていた。とけてしまいそうなアスファルトがテレビに写し出される。さらにその上を行き交う人々の足元が陽炎で揺らめいているのを見て気分がさらに沈む。

『各所で猛暑日となる見込みです。熱中症にはくれ……』

 そこまでニュースが流れた所で雅人はリモコンの電源ボタンを押した。アナウンサーの声がプツッと暗転した画面と共に途切れる。

 その話題は今のこの家ではタブーだ。だからと言ってテレビに当たることも出来ず、雅人は茶碗に残っていた白米を口の中へと掻き込む。

 行き場のない苛立ちだけが口の中に広がる。噛んでも噛んでも消えることのないそれを水と一緒に一気に流し込んだ。

 目の前に置かれた、手の付けられていない食事をそのままに。自分の使った物だけを流しへ運ぶと洗い物は後回しにして出掛けるための準備をする為に寝室に入る。

 朝陽が網戸を通り、カーテンで遮られつつも暑さを感じさせる光が差し込んでいる。その寝室で寝ていたはずの真奈美まなみが上半身を起こしていた。

「起きてたのか?気分はどうだ。朝ごはん食べるならテーブルにあるよ」

「……」

 真奈美はゆっくりと首を横に振る。

「そっか。お腹空いたら言ってくれよ」

 真奈美の横を通り過ぎると、着替えるために棚子の引出しを開ける。

「……どこか行くの?」

 静かな声が後ろから聞こえた。

「お義兄さんに呼ばれたんだ。本を虫干しするから手伝ってくれないかって言われてさ。飛鳥あすかがよく遊びに行ってたし、写真も何枚かあるって言うからついでに……」

 そこまで言って雅人は言い淀む。背後で真奈美の視線をひしひしと感じたからだ。おそらく暗く、うつむき加減で睨み付けているであろう真奈美に雅人はどうすることも出来ない。

「そうなの……」

 真奈美が気が抜けた様子で呟く。それと同時に視線を感じなくなる。きっと真奈美は、瞳を閉じてしまっているのだろう。

「ああ。だから行ってくるよ」

 平静と言う名の仮面を装いながら返事をする。

「あなたは……どうして平気なの?」

 そんな問いかけが来ることは覚悟していた。だから雅人の仮面は崩れない。

「平気じゃないさ。ただじっとしてられないんだ。すぐに飛鳥の事ばかり考えてしまってさ」

 ぐっと唇を噛み締める。そんな事を言えば真奈美が傷つく事はわかっていたはずだ。でも言わずにはいられなかった。

 真奈美の様にじっとし、傷ついた心を癒す方法もあるかもしれない。でも、日に日に顔色が悪くなっていく真奈美を見ていたらそれではダメな気がしてきていた。

「……私は貴方みたいに強くはなれない」

 今はそれでいい。傷が癒えるには時間が必要なのだ。今はそう思うしかない。

「行ってくる」

 雅人は真奈美を見ること無く部屋を出た。

 外はニュースで見た数字よりも暑く感じた。体にまとわりつく湿っぽい熱気が不快度を増させる。

 汗が垂れてきて目に入りそうになる。反射でまぶたを閉じるが間に合わず、目に染みる。

 帽子でも被ってくれば良かったのだと今更ながら気づく。少し前まではそう言うことは全て真奈美頼りだった。

 そんな小さな事柄からもいかに気を使わせていたかがわかる。

 汗を拭う為に指をまぶたに運ぶ。

「雅人おじ様?」

 不意に声を掛けられ、焦ってその人物を確認しようとして目を開けた為に涙で景色がにじむ。

 白いンピースを着た少女が立っていた。

 背中にかかる黒い髪が風になびいている。その姿はまるで……

「……飛鳥?」

 呟いてしまってから、そんな筈はないとまばたきをする。

 もう一度確認するとそれはこれから行こうとしている神永家の一人娘である沙良だった。

「沙良ちゃんか。綺麗になったから誰だかわからなかったよ」

 雅人の言葉に沙良は驚いた表情を浮かべ、次に照れながら小さく笑う。

「もうおじ様ったら。お世辞なんて言っても何も出ませんよ」

 優しく笑う沙良が再び飛鳥と重なった。

『お父さん!』

 笑顔でそう雅人を呼ぶ飛鳥をいつでも思い出せる。それが今は辛い。忘れてしまえればどれだけ楽になれるのだろう。そしたら真奈美も鬱ぎ込む事をしなかった筈だ。

「お世辞じゃないさ。ホント綺麗になった」

 それは飛鳥に言いたかった言葉。

 真奈美は生家である神永の家には行きたがらない。口にはしないけれど、きっとそれは沙良がいるからだ。

 沙良は真奈美の姪っ子に当たる。飛鳥も真奈美にそっくりだったが、飛鳥と沙良は似すぎていた。年齢は飛鳥の方が3つ下だが成長した飛鳥の姿は今の沙良と重ねることはできる。

 それが真奈美には耐えられない、きっとそうなのだろう。実際の所、雅人も耐えられそうにない。もし沙良が飛鳥だったらと。自然に頭が考えてしまう。

 だけど事実は変えられない。

 目の前に失ってしまった物がそっくりの姿であるのに、それは違うもので決して手には入らない物。それが大切であれば大切であるほど傷は心の奥底までたどり着き、抉ろうとする。

 今の真奈美はそれから逃げている。雅人も逃げたがっている。だけどこれからさき、逃げ続けることなど出来ないと知っている。

 それに雅人は真奈美程には飛鳥を失った事に悲しんではいないのだと思う。

 腹を痛めて産んだ訳ではなかったからなのか、仕事に勤しみ家族をそれなりにないがしろにしてしまったからなのかはわからない。

「おじ様?」

 黙りこくってしまった雅人に対して沙良が覗き込む様に顔を見ていた。

「ああ。すまない。ぼーっとしてしまってな」

「暑いですからね。おじ様も倒れ無い様に気をつけてくださいね」

 その言葉に心が揺れる。

「あっ……あの私……」

 雅人の様子を見て沙良はしまったと思ったのだろう。気まずそうに顔を背ける。

「いや、気にしないでくれ。もう、大丈夫だから」

 そんなはずはないことは雅人が一番よく知っていた。でも、そう口にすることしかできないでいる。


□□□


「相変わらず神永の書庫はでかいな」

 いつ見ても書庫の大きさには驚かされる。いくら貴重な本の収集・売買を商売にしてるとは言っても、それは度が過ぎるくらいに大きい。

「これだけ大きかったら人手も欲しいよなぁ」

 作業が進めど終わりは見えず、独り言はむなしく空気に吸い込まれていく。

「おじ様は今度はこっちをお願いします」

 そうこうしていると沙良からお呼びがかかる。

「はいよ!今いく」

 身体を動かしていた方が気楽だ。真奈美にも何か見つかれば良いのかもしれない。帰ったら誘ってみるのもいいのかと、ぼやりと考える。

 近寄って行った沙良の元には沙良の父親、つまり真奈美の兄が立っていた。

 スラッとした体型にピシッと着こなすスーツがよく似合う。

 しかし、会社の上司を彷彿とさせるその姿に繋張が走る。

 実際、神永グループのトップに立つ人だ。その存在感は大きい。

「おはようございます。お義兄さん」

 声が電話対応の時の様に高くなってしまった。

「おはよう」

 義兄はそんな雅人を見てくすりと笑う。

「そんなに繋張しなくてもいいじゃないか。僕は雅人君の上司じゃなくて家族なんだからさ」

 いつまで経っても固さが抜けない雅人への気遣いだろう。義兄はいつもそう言ってくれる。

「最近の真奈美は……?」

 その質問は幾度か受けていた。変わり映えしない答えしか言えないのが辛い。

「……」

 結局、無言で首を横に振ることしか出来なかった。

「そうか……。雅人君には迷惑をかけるね」

 義兄は、悲しい笑みを浮かべる。それはまるで自分自身を責めている様に見えた。

「いえ。俺に真奈美を支えるだけの力が足りないだけですから……」

「そんなことはないさ。人は身近な死を受け入れなきゃならない。真奈美は受け入れるのを拒んでいる」

 そう言う義兄も表情は決して穏やかではない。

「それでも、人には受け入れる準備が必要なんだと思います。その準備を俺は支えてやれない」

「だがね、それだけ思って貰ってれば真奈美も幸せだと思うよ」

「そうでしょうか……」

「そうだと思うよ」

 隣で気まずそうに聞いていた沙良がお義兄さんの袖を引っ張る。

「おっと、すまなかったね暗い話をするつもりじゃなかったのだが、歳をとると話が暗くなってしまっていけない」

「いや。まったくです」

 おじさん二人が苦笑いを浮かべる横で、沙良は不思議そうな顔をしていた。


□□□


「これでここもおしまい。少し休憩してから次にいきましょう」

 沙良は最後の本を置くと、ハンカチで汗を拭った。

 沙良の提案は非常に助かる。久しぶりの肉体労働で体が悲鳴をあげているのがわかる。

「よいしょっ」

 思わず声に出しながら座ってしまった。

「おじ様ってば」

 沙良が可笑しそうにこちらを見ていた。

「歳は取りたくないね」

 そう笑い返すと、沙良は何かに気づく。

「あっ、飛鳥ちゃんの写真を持ってきますね」

 電話で約束してた写真です。と続けると沙良は走って行ってしまった。

 あれだけ働いても、まだ走れるのかと感心してしまう。

 疲れで固くなった身体をほぐそうと大きく伸びをする。そのまま反り続け、本を持ち出した書庫である倉の中を上下逆さのまま覗き込んだ。

 すると、隅に一冊だけ本が残っていることに気づいておやっ、と思う。

 本は全て運び出したはずだ。

 沙良があえて残したのかも知れないがそれはそれで気になる。

 疲れた身体を起こして、立ち上がると倉の中へと向かう。

 近づいてみると赤い装丁がされているとわかった。真紅に近い。しかし、他に柄があることは無く、無機質さを醸し出している。

 じっと見ていると倉の薄暗さも併わさって不気味に思えてくる。

 中身の文章に感銘を受けたり、魅力を感じたことはあったが、一冊の本自体にそれほどまでの興味を持ったことはなかった。

 この本には何かある。そう思わせる何かがあった。

 ゆっくりと手に取ってみる。

 ひんやりした倉の中にあった本はやはり冷たく、本の見た目とは正反対な気がした。

 本に対して熱く燃えたぎる炎を連想していたことにそこで気づく。

「おじ様?」

 後ろから聞こえてきた声に思わず体が縮こまる。

「な、なんでもないよ。本が無い書庫が珍しくてさ。あ、はは」

 咄嗟に手にしていた本を後ろ手に服の中に忍ばせる。

「変なおじ様」

 くすっと沙良が笑う。

「あっ、これ飛鳥ちゃんの写真です。少ししかないですけど」

 そう言って沙良は数枚の写真を差し出す。

「ありがとう」

 不自然になりながらも片手で受け取った写真には沙良と一緒に写っている飛鳥の姿があって、その顔が笑顔に満ちていて、雅人はいたたまれない気持ちになる。

「あれ……おじ様ここにあった本を知りません?」

 飛鳥の事を考えていたこともあり雅人は異様なまでに慌てた。

「いや、知らないよ。本当に知らない」

「おじ様?」

 不思議そうに首をかしげる紗良に対して冷や汗が止まらない。

 雅人はこの状況でなぜ嘘をついているのか自分でも分からなくない。なぜか手放す事に恐怖を抱いていた。

 たかが本一冊のはずなのにだ。

「あ、あれ?おじ様、後ろから光が……」

「えっ……」

 確かに沙良が言うように雅人の後ろから淡く赤い光が漏れていた。

 それはまさしく雅人が隠した本の位置からであり、その本から漏れていることは明白だった。

「えっ!?あっ、いや。これはっ……」

 自分が何を言いたいのかわからない。

 弁解したい気持ちが真っ先に出たが、その後にそれどころではないことに気づき、焦る。

 本が赤く光る等と言う不可解な現像。確かめたいが沙良に隠している立場だ。本を服から取り出すことも阻まれる。

 つまりは、この情けない自問自答が全ての起因だった気もする。

 雅人を赤い光が一瞬にして包み込む。

 雅人は視界を奪われ、意識がシャットダウンする。

 光がおさまったその後に残されたのは沙良一人と一冊の本。

 沙良はしばらく呆然としていたが、何かに気がつくと、本を拾いう。きびすを返して全力で走り始める。

 その表情には困惑や戸惑いよりも、焦りや不安の色が強かった。

「お父様に知らせなきゃ」

 沙良は小さく呟いた。

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