神隠しの犯人

 七限まである地獄の曜日を耐え、ようやく身体を動かせる時間がやってきた。陸上部の練習開始が少し遅れるということで、テニス部の部室前で聖也と談笑していた。三星に関するあれやこれやを静かに話していると、部長の長谷川が近づいてきた。

「今日のボール当番、頼太じゃなかったっけ」

「あっ、すみません。忘れてました。すぐにカゴ出します──暇なら聖也も手伝ってくれると助かる」

「親友の頼みとあらばしょうがない。いいぜ。てか長谷川先輩でしたっけ、めちゃくちゃイケメンって周囲からいわれません?」

 きょとんとした顔で長谷川は聖也の顔を見つめる。

「お前、かわいいな」茶化すように長谷川はいった。「今からでも遅くないから、テニス部に入り直さないか」

「ありがたいけど遠慮しときます。先輩と同じ部活じゃあ、ちっとも恋愛できそうにありませんから」

「調子のいい奴め」容姿を褒められ、素直に長谷川は嬉しそうな表情をした。「でも最近は彼女いないんだよなあ。ていうか告白すらされてないわ。中学の頃は自分でいうのもあれだけど、今よりもっと注目されてた」

 それはあなたが多くの女子にとって雲の上の存在だからです、と頼太は心の中だけで呟いた。

 長谷川から鍵を受け取ると、二人でグラウンド近くの倉庫に向かった。頼太が開錠して戸を横に引こうとするも、立て付けが悪くなっているせいか、なかなか思うように動いてくれない。

「くそっ、また開かなくなってる。学校もいい加減直してくれよ、これぐらい」

「公立だからお金がないんだろう」文句をいうより手を動かす聖也がぐっと力を込めると、気を緩めたように素直に扉は開いた。「ふう、確かに固いわ」

「サンキュ」頼太はいい、倉庫から二つのボールカゴを取り出す。その拍子にふと、細長い物体が視界に入ったので拾い上げてみると、それは油性のマジックペンだった。「誰かの落とし物かな」

「名前書いてるぞ」

 聖也にそういわれ、くるりと本体を回転させると、『あやの』と白いテープの上に黒い字で名前が書かれてあった。いうまでもなく、頼太は『あやの』というフレーズにびくっと背中に電気が走るような感覚に陥った。あやの……彩乃……三星彩乃……。これは彼女の所有物ではないだろうか。

 そう思って、聖也の顔を見やると、彼はいつになく険しい顔をしていた。

「聖也?」

 しばし考える仕草をした後、彼はおもむろにこう告げた。

「これはもしかすると……最悪のシナリオかもしれない」

「最悪のシナリオって?」想像はつかないが、何か悪いことが起きるといわれて平気でいられる人も少ないに違いない。

「もしこのペンが彩乃ちゃんのものだったとしたら──いや、これ以上は今の段階ではいわないでおく。明日、たぶんすべてが明らかになるだろうから」

 そういって彼はなぜか、ペンのキャップを開け自分の掌に何かを書き込む仕草をした。

「何してるんだ」

「インク、どのくらい残ってんのかなあと思って──何だこれ、かっすかす。もうほとんど残ってない」

 聖也の行動に深い意味があるのかどうか、このときの頼太にはまるで想像がつかなかった。



 翌日、ほとんど眠れないまま朝を迎えた頼太は、いつもより早い時間に家を飛び出してしまった。聖也からはいつも通りに来てくれればいいといわれたが、逸る気持ちを抑えきれず、居てもたってもいられず学校に向かうことにしたのだ。探偵気取りなのか、勿体ぶっている様子が鼻についたが、真実を知れるのならそれでいい。そうして完全に三星の通学を把握できれば、『とんがり岩』でばったり出会うという演出を故意に作り出すことができる。それが自分たちの最終目標。だが聖也のいった感じだと、どうもその目標が脅かされるのではないかと不安になる。三星のペンが倉庫の中に落ちていたから、一体なんだというのだ。

 聖也と合流し、教室で散々焦らされているうちに三星が到着する時間になった。彼女は今日も規則正しくいつもの時間に教室に入ってきた。

「おはよっ」と笑顔で声を掛けられる。

「あのさ、これ──」昨日拾ったマジックペンを頼太が差し出すと、彼女の顔からさっと表情が消えた。

「……これ、どこに落ちてたの」その口ぶりから、マジックペンはどうやら彼女のものであるらしかった。

「部室倉庫の中」

「そう……」儚げにペンを見つめる三星。「ありがと。探してたんだよね」

 どういたしまして、といおうとしたとき、聖也が横から口を挟んできた。

「この前起きたテニスボールの神隠し、じつは彩乃ちゃんが犯人なんじゃない?」

 すると三星は目を剥き、明らかに狼狽する様子を示した。

「な、なんであたしなの? 変なこといわないでくれる!」

「俺としては、別に変なことをいったつもりはないんだけどさ」にやりと笑い、聖也は立ち上がった。「じゃあ逆に訊くけど、どうしてあの場所にペンが落ちてたんだろう。考えられることは二つだと思う。一つは倉庫内あるいは倉庫の備品にペンを使う用事があった可能性、そしてもう一つがペンを使ったのは倉庫とは関係のないまったく別の目的でだけど、落としたのは倉庫の中だって可能性。さあ、どっちだ」

「知らないし、そんなこと!」努めて冷静に、彼女は応えた。

「学校で油性ペンを使う場面って、限られてるんじゃないかな。たとえば新しい教科書や文房具を手に入れて、そこに名前を書く目的なら頷ける。でも彩乃ちゃん、持ち物に名前を書く習慣ないでしょ」

「うっ、そこまで見られてたの、あたし……」

「ごめん。洞察力と推理力には自信があるんだ」照れたふうに聖也は後頭部を掻いた。

「でも、だったらそれがどうしたっていうの。倉庫内でペンを使ったから、あたしがボールカゴ事件の犯人になる? 訳わかんないんだけど」

 三星のいうことはもっともだと頼太は思った。今のところ、聖也のいっていることは論理的でない気がする。

「じゃあ、一番目の可能性だってことは認める?」

「……まあ、それは」

「じゃあどうして嘘をつく必要があったんだ。やましいことがなければ隠す必要なんてなかったと思うんだけど」

「早くこの話を終わらせたかっただけ。朝から何でこんな容疑者扱いされなきゃならないわけ? ほんとムカつく」

「一番目のほうだった場合──」構わず聖也は続ける。「倉庫内に関連したものにペンを使う用事があったことを、彩乃ちゃんは隠したかったことになる。それはなぜか」そこまでいうと、聖也は親指と人差し指で輪っかを作った。

「何?」不機嫌そうな声で三星はいった。

「テニスボールだよ。軟式用のテニスボールに油性ペンで何かを書いたんだ」

 三星に、はっと息を呑む気配があった。どうやら図星のようだった。しかし黙って聞いているだけで、反論を投げる気配はない。

 そんな彼女の意志を察してか、躊躇なく聖也は続ける。「頼太から聞いたんだけど、男テニのボールが一球だけなくなったらしいな。俺の推理だと、ボールを盗んだのは彩乃ちゃんだ。なぜなら、そのボールに油性ペンで何かを書く用事があったから」

 すでに彩乃は負けを認めているようで、軽く俯き、わずかに頬を赤らめている。さっきまでの憤る様子とは違い、恥ずかしそうに見えるのだが。

「そのなくなったボールは男テニの部長の長谷川さんの自転車カゴに入れられていたらしいね。事実だけを並べて整理してみると、彩乃ちゃんは男テニのボールの一球に何かメッセージを油性ペンで書き、そのボールを長谷川さんの自転車カゴに入れた。さあ、その理由は何だろう」

「長谷川先輩のことが好きだったの! 悪い? テニスボールに『好き』って書いて……」聖也を睨みつける三星。

「ごめん。悪いとかそういうことじゃなくて、単に俺は事件の真相を知りたかっただけでして……」

 頼太は頭が真っ白になった。三星は長谷川さんのことが好きだった……その事実がなぜ自分の胸をこれほどまでに締め付けるのか。別に気にしていない。自分にとってどうでもいい情報。そういい聞かせるほど、どんどん惨めな気持ちに呑み込まれていく。

「まあでも……」と三星の表情が幾分か穏やかさを取り戻し、薄い笑みを浮かべた。「ばれちゃったものは仕方ないっか。あたしだってもう小学生の子どもじゃないし。ここまで来たなら、聖也くんの話、最後まで聞かせてよ。間違ってたら鼻で笑ってやるから」

「いいよ! 望むところっ!」悪くなりかけた空気を一蹴するがごとく、聖也の声には張りがあった。「じゃあ遠慮なく続けさせてもらおうかな。彩乃ちゃんが男テニのボールをいつ自分の懐にしまったかはわからない。けど、ボールに長谷川さんへの想いを記し、それを自転車カゴにわざと仕組んだのは確定事項だ。あの日、女テニの練習が男テニより早く終わったんじゃないかな」

 うん、とだけ三星は告げる。

 それを受け、聖也は続けた。「これは俺の推測になるけど、男テニの練習が終わる前にボールを一球盗んでおくことで、男テニの練習終了時刻を遅らせることも目的だったんじゃない? なぜそんなことをしたかというと、二つの利点がある。一つは、前に頼太から聞いたけど、四十分ぐらいボールを探し回ったんだっけ。それだけ探せば日も暮れて辺りは薄暗くなる。薄暗いほうが何となく告白しやすい気もするし。そして二つが、長谷川さんの行動を操れるという点にある」

「行動を操る?」頼太は思わず首を傾げた。

「自分の自転車カゴに、探してたボールが入ってるのを見つけた長谷川さんは、その足ですぐに倉庫に向かったはずだ」

「ちょっと待って」と三星が手で制する。「先輩が先に告白文に気付いたら、しばらく呆然と自転車置き場に立って、誰がこんなことしたんだろうって考え込むのが普通じゃない? なのにどうして先輩が先に告白文を見なかったって断言できるの」

「答えは簡単だよ。インクがほとんど残ってなかったし、辺りは薄暗かったし。薄暗い中で、めちゃくちゃ薄く書かれた二文字に気付く確率はいかほどのものか」

「『好き』の二文字を上向きにしてたら、いくらなんでも最初に気付くと思うけど」負けじと三星も抵抗する。

「それはないない。だってそんなことしたら、万が一長谷川さんの自転車カゴのそばを通った人に見られる危険性があるから。わざわざボールに書いて相手の出方を待つぐらい慎重な彩乃ちゃんが、急にそんな大胆なことをするとは思えない」

「ほう。あんたやるね。でもそうだとしたら、あたしは何のためにボールに『好き』って書いたの」

「そりゃもちろん想いを告げるためだよ。倉庫に向かう長谷川さんの後を追いかけて、ナイター設備のおかげで比較的明るい倉庫前で声を掛けるつもりだった。正直、ここから先の展開は最初はわからなかったんだ。けど、倉庫の中にさっきのマジックペンが落ちてたことで、彩乃ちゃんの行動を読むことができた──前に長谷川先輩と少し話したんだけどさ、こんなことをいってた。今彼女はいないし、最近は告白すらされてないって。もちろんその会話はテニスボールの神隠しの後で先輩から聞いた内容だ。つまり、彩乃ちゃんは先輩に想いを告げられなかったということになる」

「ほんと何なの、その推理力。進路希望で探偵学部にでも行ったらどう?」

「あったらぜひ行きたいな。それで続きを話すと、たぶん彩乃ちゃんは躊躇したんだろうね。本人を前にしてやっぱり足がすくんじゃった的な?」聖也は一呼吸置いた。「当初の予定はこうだったんじゃないかな。倉庫前で長谷川先輩に声を掛けて、ボールをよく見てくださいって。でもそれをする勇気が急に出なくなって、結局長谷川さんは何も気付かぬまま、ボールを倉庫の中のカゴにしまった。ちょうどそのタイミングで先輩は腹痛に見舞われ、グラウンドのトイレに駆け込んだ。それをチャンスと捉えた彩乃ちゃんは一目散に倉庫に駆け込み、やっぱりボールに書いた『好き』の二文字を消したくなった。でも皮肉なことに、真っ暗な倉庫では自分が『好き』だと書いたボールをすぐに判別することができず、慌ててカゴごと倉庫の外に出して、戻ってきた長谷川さんと鉢合わせにならない場所まで移動した。そのときに倉庫の中に油性マジックを落としてしまったんだろう。たぶん一回目に侵入してボールに文字を書いたときから、ペンをずっとポケットにしまってたんじゃないかな」

「ダウト!」三星がトランプゲームの途中にいうような台詞を吐いた。「いくら薄い字とはいえ、油性マジックだよね。そんな簡単にインクを消せるわけない」

「油性マジックはエタノールで消える。エタノール、彩乃ちゃん持ってるでしょ」

 まさか、と頼太は思った。「アルコール消毒液のことか!」

「その通り」聖也は大きく頷く。「倉庫からボールカゴを持ち出した彩乃ちゃんは、先輩に見えないところで自分のリュックからアルコール消毒液を取り出して、ボールに書かれた文字を拭き取ったんだ。あとはボールカゴを倉庫に戻せばよかったんだけど、運悪くトイレから長谷川さんが戻ってきて、カゴが消えていることに気付き、倉庫周辺を捜索し始めた。そのせいで返すタイミングを逃し、黙って息を潜めるしかなかった。やがて諦めた長谷川さんは倉庫の鍵を閉めて帰宅してしまった。返しそびれた彩乃ちゃんは、仕方なく倉庫の前にボールカゴを置いておくことにした。これでテニスボールの神隠しの謎が解明できたってわけ。ボールの個数も元通り。どうかな?」

 しばしの沈黙後、三星は呆然とした顔つきで聖也の目を見つめた。

「ぜーんぶ、ばれちゃった……」可笑しそうに三星は笑い声を上げた。「まあ別にいいんだけどさ。あんたたちにバレる程度のこと、別にどうってことないし。でもいいふらさないでよ! いったら動脈ぶち切るから」

 殺すよりも一段強いワードを浴びせられ、頼太の内臓は縮み上がった。

「じつは毎朝、先輩と鉢合わせにならないかなって、通学路の途中で待ち伏せしてたんだよねえ。あ、でも数分だからどこぞのキモい奴と一緒にしないでよね。結局一回も会えなかったけど……先輩、ほんと時間にルーズで行動が読めなくてさ」

「それが残る3分の謎だったのか」聖也がぽつりといった。

「何? 3分って?」三星が訝しそうに問う。

「いや、ただの独り言。気にしないでくれ。ひとまず解決したってことで!」

「なんかもやもやするなあ」三星はやはり疑っているようだ。

 しかし今の頼太にとっては、今さっき聖也のいったことが頭から離れずにいた。三星が通学路で3分間、長谷川先輩との鉢合わせを狙って待機していたという事実──。

 これまでのことを踏まえると、三星彩乃の通学路は次のようになる。本来なら30分で着くところを40分かけて彼女は通学している。その謎の10分間は、元カレの待ち伏せを回避するためと、片思いする先輩を待ち伏せするために使われていたのだ。

 元々は『とんがり岩』でばったり三星と出くわすために彼女の通学路の詳細を調べていたのに、これでは何と皮肉な結末だろうか。

 わかったことは、自分は三星の意中の相手ではないということ……これこそが聖也のいっていた最悪のシナリオに相違なかった。

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