短編07・若社長に恋のライバル登場?

「藤井センパイ、この資料これで合ってますか?」

「あ、ちょっと待ってね。……うん、大丈夫」

 私――藤井こずえに、最近新しい後輩ができた。

 工藤くどう貴人たかひとという、若い男性社員だ。

 一月の終わりという中途半端な時期に入ってくるのも珍しいが、まあ総務部の私に人事部の考えることは分からない。

「工藤くん、仕事覚えるの早いね。だいぶ慣れてきたんじゃない?」

「そうですか? えへへ……」

 はにかんだ顔が、ちょっと可愛いな、と思う。

「そういえば、藤井センパイって社長の奥さんでしたっけ」

「ん? うん」

「藤井センパイって呼んだら社長と名字かぶっちゃうから、こずえセンパイってお呼びしてもいいですか?」

「いいけど」

 自分の呼称について特に思うところはないので、あっさりと承諾する。

「でも、そっかあ。こずえセンパイ、人妻なんだ……ちょっと残念だな……」

「人妻って言い方、どうかと思うよ工藤くん」

 工藤くんにからかわれて、私は苦笑を漏らす。

「あ、そうだ。こずえセンパイ、今夜飲み会とかどうですか? 俺が入ってきたばかりでみんな歓迎会したいって言ってて」

「私が行っていいの? お邪魔じゃないかな」

「そんなことないです! 俺、こずえセンパイが来てくれたら嬉しいな」

「そこまで言うなら……」

 工藤くんは、にぱっと音がしそうなまぶしい笑顔を向けてくる。若さって強い。

 ……いやまあ、私だってまだ二十五歳だから若いうちに入るんだけど。

 そうこうしているうちに、昼休みが近くなってきた。

 例のごとく、社長――藤井スバルさんが総務部にやってくる。

「こずえさん、お迎えに上がりました」

「わっ! すっげー、本物の社長だ!」

「社長に本物も偽物もないでしょう」

 スバルさんは工藤くんを見て、たいして興味もなさそうな顔をする。

「行きますよ、こずえさん」

「はいはい」

 席を立ってスバルさんと一緒に会議室に向かう私の後ろで、

「こずえセンパイと社長って、昼休みどこ行ってるんですか?」

「ああ、工藤くんは知らないか。会議室でカードゲームやってるのよ」

「ふーん」

 と、工藤くんと女子社員の話し声が聞こえた。

「こずえさんは工藤貴人くんの教育係に任命されたんでしたね。首尾は上々ですか?」

「はい。物覚え早いですよ、彼」

「そうですか」

 なぜかスバルさんは面白くなさそうな顔をしている。

「どうかしました?」

「いえ……こずえさんとやたら距離が近かったので嫉妬しているだけです」

 スバルさん、正直……。

「こずえさんのこと、下の名前で呼んでましたし……どこか触られたりしていませんか?」

「触られてませんよ。大げさだなあ……」

 結婚してからというもの、スバルさんは私に独占欲を隠さない。

 その嫉妬心はカードゲーム仲間にすら適用されるほどである。

「あ、そうだ。今夜、飲み会に参加するので帰り遅くなります」

「飲み会?」

「なんか、工藤くんの歓迎会に誘われまして」

「また工藤くんですか……」

 スバルさんは不満げな表情で私を見る。

「こずえさん、工藤くんが入ってきたばかりでお世話をしなければならないのは分かりますが……」

「大丈夫ですよ。スバルさんのこともちゃんと気にかけてますよ」

 結婚してても、まだ不安に思うものなのだろうか。

 私は、スバルさんの背中をそっと撫でる。

 すると、スバルさんは少し安心した顔をするのである。

「そうだ、その飲み会、わたくしも参加すれば――」

「何言ってるんですか。社長が参加したらみんな萎縮しちゃうでしょ」

「そんな~」

 トホホ、と声が漏れそうなくらい、スバルさんは落ち込んでいたのであった。


 その夜。

 居酒屋で社員が十何人か集まって小規模な飲み会をしたのち、工藤くんが「センパイ、俺と二次会行きませんか?」と誘ってきた。

 二次会は各自バラバラになり、一部の社員はそのまま帰った。私と工藤くんは二人きりでバーにやってきた。

 カウンター席で隣同士で座り、カクテルを飲みながら工藤くんとお喋りに興じる。

「こずえセンパイ、ホント優しいですよね~……そりゃ結婚できるわ……」

「工藤くん、もう酔ってない?」

「酔ってないれす」

 酔ってるね。

 とはいえ、私もそこまでお酒に強い方ではない。二人してへべれけになるのは避けたいな。

 私は水を注文した。

「俺、こずえセンパイのこと、好きだな~……」

「はい、水飲んで」

 工藤くんの言葉を無視して、私は水を飲ませる。

 どうせ、酔いが覚めたら覚えていないだろう。

「は~、こずえセンパイの飲ませてくれる水おいしい」

「水なんてどれも一緒でしょ」

 おそらくはミネラルウォーターなので流石に水道水とは違うだろうが、そういう些細なことはおいといて。

「そういえばこずえセンパイって社長室入ったことあります?」

「一度だけあるよ」

「いいな~、やっぱり社長の奥さんだったら入れるんだ」

 スバルさんに社長室に連れ込まれたのは結婚する前の話なのだが、まあそれは言わなくていいだろう。

「社長室ってどんな感じですか? 広い?」

「会社が傾くくらいの失敗をしたら、工藤くんも行く機会あるかもね」

「も~、こずえセンパイのイジワル~」

 へにゃっと笑う工藤くんは可愛い。スバルさんほどの絶世のイケメンというわけではないが、それなりに整った顔立ちをしていて、入社したての頃から女子社員に人気がある。

 ……一番人気の社長は、私が取っちゃったしね。

「ねえ、センパイ。このあとホテル行きましょ?」

「まだ水が足りなかったかな」

「これ以上飲んだら水責めになっちゃいますよ~」

「工藤くん、不倫って言葉知ってる?」

 工藤くん、酔うといろいろひどいな。これは二次会で二人きりになってよかったかもしれない。

「センパイって、意外とガード硬いですね……お金持ちの奥さんってもっと奔放だと思ってた……」

「別に私が金持ちってわけじゃないからね」

 お金を持っているのは、あくまでスバルさんである。私は平凡な女が玉の輿に乗っただけだ。

「工藤くん、これ以上飲んだら危なそうだし、そろそろ帰ろっか」

「やだ~、こずえセンパイともっとお話したい~」

「社長が家で待ってるからあんまり遅くまで残れないよ」

「ちぇ~」

 私は工藤くんをひきずるようにして店を出て、工藤くんをタクシーに乗せたあと帰宅した。

 工藤くんはちゃんと家に帰れた……と思いたい……。そこまで面倒見きれない。

 家に帰ると、スバルさんは夕食も取らずに待てをする犬のように待っていた。

「こずえさん……」

 私の姿を視認すると、私の腕を引いてそのまま抱きしめる。

「よかった……ちゃんと戻ってきてくれて……」

「私の家はここしかないですからね」

 私は至極冷静に返しながら、ポンポンと優しくスバルさんの背中を叩く。

 私がいないだけでここまで心配してくれる。ここまで私を求めてくれる。

 正直なんでそこまで私に執着してるのかよくわからないが、そんなスバルさんを私が裏切るわけがなかった。


 翌日、藤井コーポレーション総務部。

「工藤くん、昨日のこと覚えてる?」

「いや~、なんか調子乗って飲みすぎたらしくて記憶飛んでるんですよね~」

「ならいいや。でも気をつけたほうがいいよ」

 工藤くんは昨日のことをすっかり忘れていた。

 ホテルに行こうとかそういうのは忘れていてくれたほうがお互い都合がいいのはたしかだ。

「こずえさん」

「ん? 社長?」

 スバルさんが総務部にやってきた。

 あれ、まだ昼休みには早いんだけど……。

「今日は出張で出かけるので家に帰れないと思います。戸締まりはしっかりしておいてください」

「あ、はい。わかりました」

 用件だけ伝えて、スバルさんは足早に総務部を出た。

 それだけならメールかメッセージアプリで済ませればいいのに、変なの。

 ……まあ、スバルさんのことだし、しばらく会えないから顔だけ見ておこうとかそういうことかな。

「社長、出かけるんですか?」

「みたいだね」

 話を聞いていたらしい工藤くんが、私に話しかける。

「――じゃあ、今のうちに社長室に入っちゃいましょうよ」

 にひひ、と工藤くんがいたずらっぽく笑う。

「用もないのに勝手に行っちゃダメでしょ」

「用ならありますよ? 書類作るのに社長室にあるデータCDが必要みたいで、他の先輩に頼まれてるんです」

 そんな大事なこと、新入社員に頼むか……?

 疑問に思いつつも、私と工藤くんは社長室直通のエレベーターに乗り込んだ。

 直通エレベーターは普段、秘書以外の社員が使うことはない。工藤くんは「すっげー!」と興奮した様子だった。

 一応秘書課の方々に面通ししてから、社長室に入る。

 工藤くんは社長室の内装を見る間もなく、すぐに社長のデスクに駆け寄った。

「……ない」

 工藤くんの顔色がさっと変わって、どうしたんだろう、と思った瞬間。

「――残念でしたね。もう少しだったのに」

 無感情なイケメンボイスが聞こえた。

 振り返ると、社長――スバルさんが、冷たい表情で工藤くんを見ている。

「工藤貴人くん、あなたの探しものはこれですね?」

 スバルさんはCD-ROMを手に持っていた。

「ああ、『工藤貴人』という名前が偽名であることも調査済みですよ」

「……藤井、スバル……!」

 工藤くん――いや、何者かはギリッと歯ぎしりしながらスバルさんを睨みつける。

「あの、社長。私、状況がいまいち分かってないんですけど」

「彼は、産業スパイですよ」

 産業スパイ?

「どこぞのライバル企業に頼まれて機密情報を盗みに来たか、あるいは自主的に盗んで他の企業に売り渡そうとしたか……どちらにしろ、あなた、よりにもよってわたくしのこずえさんを利用しようとしましたね?」

 スバルさんの声に怒気が含まれている。つまりはめちゃくちゃ怒っている。

「こずえさんをホテルに誘おうとしたのは、写真でも撮ってこずえさんを脅迫して、こずえさんの手で機密情報を盗ませるつもりでしたか? 卑劣極まりないですね。許しがたい」

「いや、なんでホテル云々のことをスバルさんが知ってるんですか」

 盗聴器でも仕掛けていたか、あるいはいつかのように探偵に尾行させていたか。

 ……いや、まあ、私を心配してのことなんだろうけど、うん……。

「出張に行くと俺の前で話したのは、社長室に誘い込むためか……」

 産業スパイは悔しそうにほぞをかむ。

「そういうことです。まあ色々と言いたいことはあるでしょうが、それは警察の方にでも話してください」

 産業スパイはほどなくして警備の人間に連れられていった。おそらくは警察にそのまま突き出されるのだろう。

「アレを採用した人事部の中に内通していた者がいないかも調べなければいけませんね。忙しくなりそうです」

「まさか工藤くん――いや、偽名なんでしたっけ。彼がスパイだったなんて驚きました」

「あの顔の良さと人懐っこさで人心を掌握していたのでしょうね。恐ろしい話です」

 そう言いながら目の前のイケメンがやれやれと首を振る。スバルさんも自分の顔がいいのは把握しているので、やってることは同じだと思うけど。

 ……いや、だからこそわかるのか。

「いずれにしろ、こずえさんがご無事で何よりです。ありえないとは思っていましたが、あのスパイの誘惑に乗ってしまったらとヒヤヒヤしていましたよ」

「私にも人並みの良識はあるんですよ」

 というか、こんな絶世のイケメンを夫に持ちながら、不倫とかそれこそありえないだろう。

「まあ、こずえさんとの愛と絆を再確認できた良い機会だったかもしれませんね?」

「またそういう恥ずかしいことを平気で言う……」

 後ろで秘書課のみなさんが話を盗み聞きしながらニヨニヨしているのを肌で感じて、私は顔を真赤に染めるのであった。


〈おわり〉

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