短編03・若社長とイチャイチャするだけ。

 私、藤井こずえは、夫であるスバルさんが社長を務めている会社で働いている。

 ふたりとも定時で上がった日はだいたい一緒に帰るのだが、今日は少し時間がかかるとのことで、私ひとりだけ先に帰ってきた。

 合鍵を渡してある家政婦さんは一足先に帰ったらしく、今日の夕飯も用意してあるし掃除や洗濯などの家事も一通り済ませてあって、家はいつもキレイである。

 てっきり結婚したら私が家事を全部やると思っていたのだが、「こずえさんには楽をしてほしくて」と家政婦さんをクビにしなかったスバルさんには感謝の念。

 しかし、うーん。スバルさんの「時間がかかる」ってどのくらいかかるんだろう。先にご飯食べるのも申し訳ないな。まだそんなにお腹は減ってないんだけど、週末で溜まりに溜まった仕事の疲れはある。

 ズルズルと重い体を引きずり、ソファに横になったらあっという間に意識が沈んでしまった。


 意識が浮上したのは、それから二時間ほどあとのことだろうか。

 目を開けると、ソファの傍らにこちらの顔を覗き込むようにスバルさんがいた。

「おかえりなさい」を言い切る前に、唇をふさがれた。ついばむように何度もキスをする。

「――ぷはっ、なんですか、今日は疲れてるからしませんよ」

 息が苦しくなってきたので、スバルさんの胸を押して唇を剥がす。

「……わたくしも、そんな気分ではありません」

 スバルさんは落ち込んだ顔をしていた。何かあったらしいことは明白である。

「とりあえずご飯食べましょ。待ってたんですよ」

 私はわざと明るく努めてスバルさんの背を押す。

 家政婦さんの用意してくれた夕飯をレンジで温めて、ふたりで「いただきます」と手を合わせる。

 そういえば一人暮らしの頃は「いただきます」なんてしなかったなあ、なんて思う。

 スバルさんと過ごす丁寧な暮らし、とでもいうのか、そういう情緒を大事にするようになった。多分そういう余裕が出てきたのだろう。

 家政婦さんの作ってくれる料理はとても美味しい。しかも優しい年配の女性で、私たちが帰ってくる前にメモ書きだけ残して去っていく。夫婦の時間を邪魔しないように、という配慮だろう。

 スバルさんも食べているうちに少し顔色が良くなってきた気がする。美味しい料理は人を元気づけてくれるのだ。


 食事とお風呂を済ませて、さて何をしようか、というところで、スバルさんが私の座っているベッドにやってきた。

 ギュッと抱きしめられ、首筋に顔を埋められる。

「なんですか、今日は甘えたい日ですか」

 ポンポンと優しくスバルさんの背中を叩くと、スバルさんがコクンとうなずくのを感じた。

 そのままの体勢で、スバルさんはポツポツと話をし始める。

「……取引先で失態を晒してしまって……」

「はい」

「取引が立ち消えそうになって、慌てて謝って……」

「はい」

「すごくみじめな気分になって……わたくしの人生って何だったんでしょう……」

「そうですか」

 あえて肯定も否定もせず、ただ話を聞く。

 それだけで救われる命もあると思う。

「でも、こずえさんの寝顔を見ていたら、可愛くて、少し元気になれました」

「良かったですね」

 寝顔を見られたのは恥ずかしいが、まあ夫婦だし。

「こずえさんは子供欲しいとか思わないんですか?」

「今日はそういう気分じゃないって言ってましたよね?」

「ああいえ、今日は本当にしないんですけど、ただ気になって」

 子供ねえ……まあ会社の跡取り……にするかは分からないけど、いるに越したことはないのだろう。

 まだ私が若いうちに産んだほうがいいのだろうとも思う。高齢出産の大変さはよく聞く話だ。

 ただ「どうしても欲しいか?」と聞かれるとピンとこないのも事実である。

 多分産んでみたら可愛く思えるのだろうけど。

「うーん、もう少しスバルさんとふたりでいたいかな……」

 と返すと、スバルさんは抱きつくのをやめて正面からパッと私の顔を見据える。

「――ッ、これ以上わたくしを喜ばせてどうしたいんですか、こずえさんは……」

 スバルさんは本当に幸せなとき、逆に泣き出しそうな顔をする。

 クルーザーで花火に照らされたあの顔を思い出した。

「こずえさん、すきです、すき……」

 チュ、チュ、と顔の至るところに唇を寄せられる。

 キスを受け止めながら、私はスバルさんの後頭部をいい子いい子と撫でる。

 この人は私がいなくなったら発狂して死ぬな、と感じる、日常の夜であった。


〈おわり〉

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