あちらのお客様から

「マスター聞いてよ、最近全然良いことがなくてさ。

今日も仕事で失敗続きさ。」

「それはそれは。」

小さなバーでカウンター越しに男性客とマスターが話す。


「それに、仕事が終わってもいつも一人だからさ。

いつも寂しくてついつい、このバーにきちゃうんだよね。」

「実際そう言う方は多いですよ。」

「本当に?じゃあみんな同じような感じなんだね。

あーあ、何か良い出会いでもあればな。」


人の少ない店内で、静寂を埋めるようにぽつぽつと会話が続く。

マスターは忙しいのか、しきりにカウンターの中をうろうろしている。

するとマスターが突然、男性の前にカクテルグラスを置いた。


「マスター、これなに?まだ次のは頼んでないけど。」

「いえ。これはあちらのお客様からです。」

「え…?」

くたびれたスーツに身を包んだ若い男性は、

信じられないといった顔でマスターに聞き返した。


「ええ、あちらの女性からのようです。」

男性客はカウンターのはじに座るスーツ姿の若い女性を見た。

「そんな…こういうのってその、話には聞いたことはあるけど、

まさか誰かが自分にやってもらえるだなんて考えたこともなかったな。」

目の前に出された綺麗に光るカクテルグラスを見つめながら、

男性は困った顔をした。


「ねぇマスター、こういう時ってどうすればいいのかな。」

「お断りになるおつもりですか?」

「いやそんな、まさか。

むしろこんな僕を気にかけてくれる女性がいるだなんて、嘘みたいだ。嬉しいよ。」

「それではなすべきことは一つ、あの方に同じことをしてあげるのです。

そうしてしばらくしたら彼女の隣の席に移動を。」

「なんだか急に映画の中にでもいる気分だ。

緊張するけど、きっとそうした方がいいようにも思えてきた。」

「あちらの方には私の方からもそれとなくお話しをつけておきます。

是非この夜の静かな時間をごゆるりとお楽しみになっては。」

「そうだね、ありがとう。

このところ仕事も恋愛も全くうまくいったいなかっただけに、

こういう機会が巡ってきてうれしいよ。

じゃあマスター、あちらの方に今日のおすすめを。」


当てもなくこのバーに通っていた独り身の男性は、

突如差し込んだ希望の光に胸を踊らせた。

「かしこまりました、それでは飲みやすいよう、フルーツのカクテルを。」

そうしてマスターは慣れた手つきでカクテルを用意すると、

男性客のもとを離れて、カウンターはじの女性の方へ向かった。


「あちらのお客様からです。」

女性は驚いた顔でマスターを見た。

「え、私に?」

「ええ、あちらのお客様からです。」

女性がマスターの指す方を見ると、

そこにはくたびれたスーツに身を包んだ若い男性客が、

下手くそな笑顔を精一杯に作りながら微笑みかけていた。


「まぁ、こんな私に気を遣ってくれる人がいるなんて嬉しいわ。」

同じく独り身で、当てもなくこのバーに通っていたその女性は、

初めてのことに戸惑いつつもい嬉しそうに笑った。

「ねぇ、マスターこういう時ってどうするのがいいのかしら。」

「そうですね、こういう時は男性の方にお礼として

軽く微笑んでみてはいかがでしょう。

そうすれば向こうのほうから話しかけて来て、

そこから楽しい会話が…といった具合になるかと。

それとも、こちらのカクテルはお断りになりますか?」

「いえ、せっかくだから頂くことにするわ。

最近ずっとどこか物寂しい気分だったし、

何より、見たところ優しそうな方ですもの。

向こうさえ良ければ是非お話ししてみたいわ。」

「それでは決まりですね、向こうの方の背中は私がおしてきましょう。」


そうしてマスターは男性客の元に戻り、そっと囁いた。

「あちらの女性のお客様ですが、貴方と是非お話ししてみたいとのことです。」

「本当かい?やったぞ、嬉しいな。ありがとうマスター、頑張ってくるよ。」

「気張りすぎないように、自然な感じをお忘れなく。

ゆったりと会話を楽しむお時間はまだまだ残っていますから。」

「そうだね、ありがとう。じゃあ、行くね。」

深呼吸したのちに席を立った男性客を見送りながら、

お節介なマスターは嬉しそうに微笑んだ。

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