第10話 初依頼 ②
足取りが重く、家を出るのが、とても勇気のあることに感じた。
僕は、昨晩あまり眠れなかった。
理由は単純だ。彼——箕島凪妬の言いつけを覚えなければならなかったからだ。
それだけじゃない、彼の言葉を聞いてなお、僕は安心できなかった。昨日の自分の顔は随分酷かったから、今朝鏡を見ることができなかったこともある。
「おはよう!栗山。」
「お、おはよう」
随分と気の良い挨拶に、僕は昨日箕島が帰り際に行って行ったことを思い出した。
『いいか、今日したことは、いざという時のためだ。思いの外上手く行くこともある。困ったら俺を頼ればいい。慌てるのは仕方がないが、現実はお前が思ってるより深刻じゃない——』
話が長くて全てを覚えてはいないが、断片的でも彼の言うことはあっていた。
「もっとちゃんと聞いておけば良かった」
若干気持ちが沈むが、こうあっては彼の言葉を聞いた意味がないと思い、自分を奮い立たせる。
今度はこちらから話しかけよう。
「おはよう!!」
「あ、ああ。おはよう、栗山。やけに元気だな」
「そ、そうかな」
勢い余った!どうした、明らかに不自然だよな、僕。
『落ち着け』
そう、落ち着くんだ。別に僕は重罪を犯したわけじゃない。たった一日学校を休んだだけだ。
「落ち着けよ、
「いや、お前がな」
崎山は俺の隣の席で、席替えで仲良くなった友達だ。その彼が、こちらを不信な目で見ている。さて、どうしようか。ごめん、箕島、もう昨日お前が言ってくれたこと全部飛んだ。
「ま、お前も色々あったんだろ。そんなに怯えなくても、無粋に聞いたりなんてしないさ」
おお、崎山くんイケメン!僕は心の中で歓声を上げた。・・・あれ、でもこれ、隠し通せてないのでは?
『友人はまだいい。最難関門はやはり早瀬だ。他はミスっても良いが、これだけは頑張ってくれよ。一番楽なのはできるだけ会わなくすることだが、それじゃ本来の目的にそぐわない——』
もう、あいつ本当に話長すぎなんだよ。断片的にしか思い出せないじゃないか。
「そういや、お前元カノ、まだ来てないよな」
ああ、と教室を見渡してみる。始業まで確かに時間はあるが、彼女は確かにいつもこの時間にはついていたはずだ。ってか——
「それめちゃくちゃ無粋だよ?てか元カノじゃないから、付き合う前に振られたから!」
「え、いやお前らほぼ付き合ってたようなもんだろ」
真顔で返されると、僕の意思も揺れた。過去の記憶がフラッシュバックして、何をやるのも楽しかったあのころを思い出した。
ほとんどの記憶で彼女の笑顔があった。
「でも、結局振られちゃったんだよな」
そう、現実は過去のものとなった。これまでの楽しかった日々は、更新されることのない辛い記憶となってしまった。
「そ、そうだよな。揶揄ってゴメンな。そうだ、今日焼肉奢るからさ——付き合うよ」
なんだか崎山は必死に僕を宥めていた。僕はハッとした。哀愁でも漂わせていただろうか。
「違うんだ崎山、僕はもう大丈夫なんだよ」
言われた彼は呆けていた。首を傾げて、「よかわからない」という顔をした。
『早瀬とより一層仲良くなる。つまり付き合うために、あんたには演じてほしいんだ——』
「確かに僕はショックを受けた。だから僕は彼女に興味がなくなったんだ」
「ん!?どういうことだよ」
僕は早瀬翠が好きだ。彼女を心から愛していることを、振られて一層知った。だからこそ、僕は彼女と絶対に付き合いたい。
『——たとえ、どんな嘘をついてでも』
「あ、早瀬おはよー」
「ごめんごめん、寝坊しちゃって」
噂をすれば彼女が来た。しかし、僕は自分でも驚くほど落ち着いていた。さっきの慌てようとは比べ物にならないほど、頭が冴えていた。
「翠、おはよう」
クラスのほとんどの人が振り返って僕を見た。僕の振られた噂はもう広まっているのだろうか。
「秋ちゃん!おはよ・・・う?」
彼女は最初嬉しそうにしていたが、僕と対面するにつれ、どんどん不安そうな顔になっていった。
「翠、この前はごめんね。でも、ありがとう」
翠はもっと不安そうな顔になった。彼女も前山と同じ、「何を言っているのかわからない」っといった調子だった。
「どういう意味かな、秋ちゃん。」
「君のおかげで目が覚めたって意味さ。確かに君にとっては遊びだったのかもしれない。でも、僕はショックを受けたんだ」
それからの僕の話は、全てが真っ赤な嘘だ。ただ、みんなはそれを戦慄した様子で聞いていた。
「そして僕は気づいた、もう懲り懲りだと。だからもう翠のこと勘違いしたりしないから。安心してね」
⚪︎
私は休み時間に彼を校舎裏に呼びつけた。
彼は何ともないような表情で、時間ギリギリに表れた。
私はそれが信じられなくて、自ら壁ドンをした。彼に目を離させないように至近距離に立った。
「ね、ねえ、秋ちゃん、どうしたの。なんで今日は全然目を合わせてくれないの?」
「いや、朝も言ったじゃない。そんなに心配しなくても、僕は翠をそんな目で見ないよ。」
私が必死に話しかけているのに、彼の目は虚ろだった。言葉じゃどうしようもない壁が、そこにはあった。
「そうじゃないの。私が求めてるのはそんな秋ちゃんじゃないの。秋ちゃんだって今の状況は苦しいでしょ?だってあんなに——」
「僕のこと、知った口を聞かないでもらえるかな。」
不意に秋ちゃんは私の腕を掴んで、押し除けた。
ただ単純な行動、短い言葉が、私を切り裂いた。
「・・・僕は君が思っているより、ショックを受けたんだ。だから、もう翠のことそういう目で見れないんだ」
「う、そ。嘘っていってよ!ごめん、ごめんなさい。今までのこと謝るから。許して?また寄りを戻そうよ」
拒絶されてもなお、私は諦めきれなかった。必死に言葉を探して、彼を取り止めようとした。
「そうやって上部だけならなんとでも取り繕えるね。でも、僕はもう騙されない。君はいつもそう、僕を騙して遊んでいたんだから、仕方がないよね」
それは明らかな侮蔑の視線だった。彼は私を、醜いものを見るような視線で突き刺した。
「………ぁ」
声が出なかった。私に背を向けて、静かに遠ざかっていく彼の背中を、私はついに追いかけることができなくなった。
「どうし、て…」
どうして?そんなこと彼が今言ったじゃないか。恐怖と、焦り。理屈と現実が私の言葉をあべこべにさせた。
「……あ。……い…やああぁぁ」
嗚咽に近い吃音が口から零れ出た。すべてのことを後悔して、諦念が私の心を包みかけた。私はそれを受け入れたくなくて、頭を抱えて震えた。言い訳が頭に次々と浮かんできて、でもその直後に現れる秋の失望の顔が、今更何をしても無駄だという冷酷な事実を突きつけた。
『上部だけなら何とでも取り繕えるね』
『仕方がないよね』
無機質で、でも明らかに忌避していた。あんな目を向けられたのは初めてだった。
〇
放課後、私は恋研に向かった。
どたどたとわざとらしく足を鳴らして、部室である視聴覚室の扉を勢いよく開いた。
「あら、早瀬さん。いらっしゃい。今日はどうしたのかしら」
「ごめん、西野ちゃん。私は箕島に用があるの。箕島はどこ?」
部屋の中をぐるりと見回しても、彼の姿は見えなかった。
逃げたのか、ただ単に留守なのか。どちらにしろ、私はやり場のない怒りを抱えていた。何かにどなりつけて、物にあたりたい衝動に駆られた。
「もう、約束と違うじゃない!」
どうしようもなく、私は叫んでしまった。
西野ちゃんは明らかに私を心配していた。
「大丈夫?早瀬さん。彼が何かしたのなら、私が謝るわ。何があったのかしら」
彼女の優しさに触れると、自分がより醜いものに思えた。
「私は箕島に用があるの、あなたには関係ないわ」
自分が何にむきになったのかわからない。ただ何も悪くない彼女に向かって、私はどなりつけてしまった。確かなのは、その時私は最低な女だったということだけだ。
「ごめんなさい、また出直すわ。」
私の声に少し硬直してしまった彼女を置いて、私は部屋を飛び出した。
〇
私は独り、人通りの少ない中庭のベンチで、啜り泣いていた。
なぜ、どうしてこうなった。何をやってもうまくいかない。今まですべてうまくいっていたのに、どこで間違えたのだろう。これからやることもすべてミスリードになる、そんな直感に似た確信が頭の中を巡っていた。
「でも、とにかくちゃんと思いは伝えなきゃ」
あらゆる選択肢が「失礼だ」、「逆効果だ」と切り捨てられていく中で、私は悟った。その思考のすべてで、私が得をしようと考えていることを。今更何を言っても彼は振り向いてくれないというのに、あわよくばまた自分の調子を取り戻すことを狙っていた。無謀な取り繕いの会話を思い出して、自分の行為に吐き気がしてきた。
「言い訳のように聞こえてしまうかもしれないけれど、自分の思いは伝えた上で振られたい」
迷惑と思われるかもしれないが、それが唯一、後悔が付きまとう私のちっぽけな脳が考えた、最もやるべきことだった。
「ようやく自分のした罪に気づいたか。随分時間が掛かったな」
箕島の声だった。彼の声は心底冷たかった。
「み、のしま。ま、待って」
「…下らないことを言うなよ?」
彼は一度だけ、振り返った。
「助けて。もう、私には彼を呼び止めることすらできない。どうにか、謝罪の機会を頂戴」
「ほう、そこまで落ちたか」
自分で言っていて恥を感じた。ただ、それでも諦めきれなかった。たぶん、このままならこの先も諦めきれないだろう。
「代金は、なんでも差し出す。私の持ってるもの何でも上げるから」
「高校生の軽い口で、適当なことを言うな。別にお前にそんなもの期待してない。本気で贖罪がしたいのなら、屋上に来い。三分だけ取り持ってやる」
去り際、私の横に一本の紅茶が置かれた。それが彼の気遣いであると気づくまで、随分と掛かった。
〇
屋上は若干冷たい春風が吹いていた。
なぜ僕は呼び出されたのか。それについて問うと、箕島は長い沈黙で返した。
「お前、やりすぎだ」
箕島が困ったような焦ったような調子で言った。
「半分はあいつの自業自得かもしれないが、半分はお前の責任だ。彼女が立ち直れないようになっていたら、どうするつもりだったんだ」
その時、僕はハッとした。演技に必死で気づかなかったが、僕が彼女に背を向ける直前の、彼女の顔。それだけは脳裏に刻まれていた。
「そう、だよね。あくまで演技なんだものね。でも中途半端にはしたくなくて、ごめん。歯止めが聞かなかったんだ」
職業病と言えば、完全な言い訳だが、実際それが本音だった。
「…部活とは違うんだからな。ちゃんと謝っておけ。当人ももうすぐ来るはずだから」
彼が言った数秒後、屋上にただ一つしかないドアが開いた。
「翠。」
「そういえば、秋ちゃんは演劇部ですごく頑張ってるんだっけ」
早瀬は先ほどの絶望から、いくらか元気を取り戻したようだった。
「そうなんだ。だから今までのは全部演技で、つまり・・・」
秋は演技を辞めると、つい昨日までの彼に戻っていった。身に纏っていたバリアが解けたように、弱気になった。
「ごめん、ね?ちょっと仕返ししたくなっちゃって。もう高校生だってのに、ごめん」
彼はついに赤面した。幼稚な言葉になり、たどたどしくなった。彼を指示したのは俺なのだが、それすらも自分の罪と思うほど善人——いや違うな、それほど神経質になっているのだ。
「・・・大丈夫よ。秋ちゃんは何も悪いことはしていないもの。悪かったのは私。試すような真似をして、ごめんなさい」
早瀬は、初め秋に抱きつきそうになった。余程彼の言動が、嘘であったことが嬉しかったのだろう。
しかし、何を考えたのか、ピタリと伸ばした手を止め、笑顔を引っ込めた。まあ、その内容は、考えるべくもないだろう。彼女にも感情と行動の分別ができるようになったということである。
「これからも、一緒に居てくれますか。」
二人は歩み寄り、互いの手を取った。
「いえ、これからは、もっと別の関係になろう。もう、こんな間違いが起きないように」
早瀬は秋の頬に手を当て、それを秋は素直に受け入れる。
「私達、付き合おう」
途端、二人は泣き出した。互いの手を絡ませて、互いを大切そうに抱き合っている。
「…はい!」
〇
それからのことは、俺は見ていない。書く必要もないだろう。成就した恋と云うのは、目にも当てられない。
「まあ、よかったじゃない」
俺がその先の話を告げたあと、西野は言った。
「良いわけあるか。俺が目の前にいるのに、あんなに淫らにしやがって」
「なーに、あなた。基本どんなことが起きても動じないのに、あんなありふれた恋で不機嫌になるわけ」
西野は俺を揶揄った。彼女はおそらくすでに沢山の恋の成就を見届けてきたのだろう。
「理解できん。公衆の面前で本当の自分を晒け出す覚悟も、そうまでして相手と親密でいたいと思う気持ちも」
「あなたにしては、珍しく言葉を選んだわね」
「そうね」と言いながら、西野は考え事をする。その横顔を見ながら、俺は唐突に思った。
『こいつ、彼氏いるのだろうか』と。
「実は、私もよくわからないのよね。彼氏なんていたことないし」
俺は思わず身構えた。心を読まれたような気がしたからだ。
「あ、友達にはいるって言ってるんだけどね。恋研としては、お恥ずかしい限りよね。やっぱり相談は経験者がするに越したことはないだろうし」
サラっと嘘をついていることを自白したが、まあ、彼女ほどの交友関係があれば、多少の嘘が混ざっていてもおかしくないか。
「あなたが相手になってくれたら楽なんだけどね」
「おい」
それ、よく簡単に言えるな。それも本気そうなのがかなり怠い。
「まあ、私もこんなダイアモンドみたいな堅物は嫌だけど。あーあ、どっかにいないかなあ。私と惚れさせてくれる相手。」
「その相手、可哀想だな。こんなタンザナイトみたいに表裏の激しい奴に好かれるなんて」
―――初依頼 終了。
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