6-4



 週末に金の塾に行くと、また麻衣が一番乗りだった。引き戸を引き、おはようございます、と声を渡らせて中に入る。


「佐倉さんおはようございます。今日もよろしくお願いしますね」


「よろしくお願いします」


「どうぞ、中に入っていてください」


 はい、と麻衣は教室の方へすたすたと歩いていく。金野に乗せられたわけではないが、麻衣はどんな質問が来てもいいように中学英語の参考書を買い、この一週間で頭に叩き込んでいた。言うのが恥ずかしいほど、準備万端にしてきたつもりだ。


 教室で教科書を読みながら待っていると、金野と他のスタッフがともにやって来る。その大きくて馴れ馴れしい声からは、金野とスタッフは長い付き合いのようにも見えた。塾講師をしていたときからの知り合いだったのだろうか。

 生徒が一人、二人とやって来ると、麻衣は頭を切り替えた。


「ここに入るのは、どうしてこの単語なんですか」

「ええと、待ってくださいね」


 さっそく、生徒の周りをこれ見よがしにうろうろしていた麻衣は、質問を受けた。平常心を保ちながらも、内心は声を掛けられ大喜びしたい気持ちで溢れていた。


 生徒から質問を受けたのは、文章問題の中の空欄に入る英単語を答えよという問題だ。文章問題は前後の文章を読み解かなければ答えられないので、麻衣はその場で文章を読み込んだ。


「この単語と、後ろにあるupを合わせると止めるっていう熟語になるんです。動詞だけでなくて、後ろに続く単語にも注意してみてくださいね」


 生徒が感心するように頷き、ありがとうございますと言うと、麻衣はやった、と心の中でガッツポーズを作った。おさらいをしてきてよかった、と一週間の努力を自分で讃える。


「健くん、それは使う数式が違うのよ」


 周りを見ると、スタッフは生徒に教えていたり、スタッフ同士で談笑している。だが、生徒は熱心に勉強を続けていて、時折スタッフの会話に自分から混ざっている。

 おそらく、生徒たちはこの空間を受け入れているんだろう。麻衣は、何となくそう受け止めた。


「あの、ここ教えてください」


 ぼうっと突っ立っていた麻衣に、女子生徒が話しかけた。


「あ、はい。どこですか?」

「ここです。どうして過去形になるんですか」


「・・・・これは、過去分詞っていう形で、動詞を過去形にすることで受け身になる形ですね。この文章を受け身にすることで、次の会話が自然に続きます」


「そっか、撃たれたになるんだ」

「そうです」


 生徒の躓きが一つ一つ解消されていくのは、嬉しいものがあった。麻衣が導くことで生徒が次の問題に移ると、どこか達成感がある。


 やはり、瞬に報告をしてみてもいいかもしれない。自分で探してボランティアに行ってきたと言えば、麻衣さんすごいですね、ときっと褒めてくれるだろう。セブ島のときのような、日本で難民に暖房器具を渡したときのような、覚えのある充実感が麻衣の胸に広がっていた。





「今日はお疲れさまでしたね」


 終了時間になり、金野から労いの言葉を掛けられる。生徒や他のスタッフはすでに帰り、残るのは麻衣だけになっていた。


「今日はたくさん教えることができてよかったです」


「先週、一人の子が佐倉さんに質問していたでしょう。それを見て、みんな羨ましくなったんですね、きっと。シャイな子たちばかりだけど、意外と向上心は強いですから」


 まるで我が子のように思っている口調だ、と麻衣は感じた。

 そのとき、金野の後ろに見える本棚にある写真に疑問を抱いた。


「あの、あの方は誰なんですか?」


 玄関にも、この教室にも飾られている写真。よほど有名な人なのだろうか、と麻衣は先週から疑問に思っていた。


「私の夫です」


 だが、金野の口から返ってきたのは意外な言葉だった。


「旦那さん、ですか」


 はい、と金野は静かに頷いた。その表情は、どこか誇らしげだった。


「ここは元々、夫が始めた塾だったんです。ボランティアではなくて、普通の塾として」


 金野も本棚を振り向き、写真を見つめた。


「夫は・・・・熱血とも言うんでしょうか。金の卵を育てるんだって、子どもの教育を大事にしていて、教えることに熱心で。その頃は近所の子どもはみんなここに通っているぐらい、大賑わいだったんですよ。塾の名前も、金の卵と金野をかけてるんです。笑っちゃうでしょう」


 金野は、くすくすと笑っていた。麻衣は、金野の後ろ姿を見ながら聞いていた。


「だけど二年前、夫が亡くなりまして。手伝うぐらいしかして来なかった私は、もちろん塾を閉じるつもりでした。でも、そのとき通っていた生徒さんが、これからも通いたいとお願いに来たんです」


 金野は教室を見渡すと、麻衣に向き直った。感傷に浸っていると思ったその顔は、どこか力強かった。


「そのときは、断りました。私は教えることができないし、講師を雇うお金もないから、塾を続けていくことはできませんと。でも、何度もお願いに来ましてね。好きだったんですって、この塾が。夫がやっていたこの塾が好きだったと言ってくれて。そしたら、それを聞きつけた昔の講師さんたちが、ぜひこの塾を続けましょうって。来たいと言っている生徒がいる限り、続けましょうって言ってくれたんです。だから、あの子たちが卒業するまでは続けようって、この形になったんです」


「そう、だったんですね」


 麻衣は、その事実を飲み込むので精一杯で、そう言うことしかできなかった。ボランティア塾になった経緯に、そんな理由があったなんて。


「変に思ったでしょう」

「え?」


「ちゃんとしてない塾だって、思いませんでした?」


 針を通すように突かれた指摘が、痛かった。そして、それを突いた金野を意外に思った。そう感じていたことに、気付かれていないと麻衣は思っていた。


「若い人であればあるほど、違和感を持つみたいですね。スタッフ同士が喋ってるのはおかしいだとか、自学自習しているだけでは時間の無駄だとか、いろいろ仰る方もいました。みなさん、それぞれのビジョンがあるんでしょう」


 麻衣が持った違和感も、それらの意見と似通っていた。それは、学生のときに通っていた塾の雰囲気がベースとなったものだ。

 授業もない塾に、やる気があるのかわからないスタッフたち。麻衣もいつの間にかそう判断してしまっていたのだと、申し訳なく思った。


 だが、金野からは麻衣を責める様子は感じられない。塾の経緯を話してくれたことも、本心を打ち明けてくれたように思える。


「どうして、新しいスタッフを入れるんですか」


 そのようなスタッフを迎え入れているのは金野の判断だ。この生徒の数ならば、新しいスタッフを入れなくとも充分に成り立つだろう。


「そこは、せめてもの抵抗です。佐倉さんも感じたとおり、今いる人ばかりでは慣れ合いになってしまうんです。長い付き合いのスタッフだけで過ごすのは、それは楽しいでしょうけど、緊張感がなくなりますし、夫の塾が好きだった生徒さんにも申し訳ないんです。塾としての形にメリハリを付けるために、定期的に新しいスタッフを呼んでいます」


 きっと、金野なりに配慮しているんだろう。昔からのスタッフの好意を無償で受け取っている以上無下にはできないが、生徒の学習環境を整えたいという気持ちが見える。


「こんな形でも、生徒さんは通ってくれているし・・・・・何より、私も好きだった塾が続いてくれて嬉しいんです。夫の意志を継ぐなんて自分には無理だと思っていたんですけど、こういう形でも、続いてくれて嬉しいんです」


 これも、一つの思いだと麻衣は感じた。何かをしたいという意志には、熱がある。その熱源が大きければ大きいほど、気持ちがまっすぐに向いているように思う。

 金野からは、この塾を守りたいという気持ちを感じた。


「そうだったんですね。失礼に捉えてしまって、すみませんでした」


「いいえ。佐倉さんさえよければ、気分転換にまた参加してください。会社の人とか、友達とは違う関係というのも素敵ですよ。生徒さんも、先生や友達とは違う、今はナナメの関係って言うらしいんですけど、そういう普段繋がりのない年上の人と話すと、世界が広がるみたいで。私たちも、生徒さんと触れ合っているとたまに子どもに戻ったような気持ちになるんです。佐倉さんも、ぜひまた参加してみてください」


 金野の思いが、じわりと心に沈みこむ。こんな思いがあったのに、傍から見るだけで判断していた自分が、恥ずかしくなった。


「はい。ぜひ、また参加させていただきます」


 麻衣は頭を下げて、金の塾を後にした。






 帰り道は、気分が明るかった。何だか、楽しかった。最初は変な塾だと思ったけれど、その奥にあるその人なりの気持ちを知ることができて、嬉しくなった。


 誰かに、この話をしたい。こんな話ができる相手は、一人しかいない。


 瞬は、何と言うだろうか。一人でボランティアに行ったことに、きっと驚くだろう。そんな衝動が湧き上がってきて、麻衣は興奮冷めやらぬうちに瞬にメッセージを送った。


【今、どこにいますか?時間があったら電話できませんか?】


 こっちが昼の一時なら、向こうは明け方近いだろう。こんな時間に迷惑かもしれないが、興奮していた麻衣はそのまま送信した。



 唐突すぎただろうか、と送った後で麻衣は不安になる。だが、きっと瞬は受け入れてくれるだろう。彼は、そういう人だ。


 地球の裏側にいる瞬をこんなに信用しているなんて、どうしてだろうと考えると、おかしくて笑ってしまいそうになった。会ったのは、二回だけだ。それでも、こんなに信用している。


 早く、返事が来ないだろうか。


 瞬の言葉が待ち遠しい。彼は今、どこにいるのだろうか。




 麻衣の気持ちとは裏腹に、瞬からの返事が無いまま、四日が過ぎていった。










 

「アプリの方はどうなってる」


 隣の席にどかっと小浦が腰掛けた。こうして小浦が麻衣に近付くときは、アプリの進捗状況を聞くときだ。


「本配信まであと二週間です。SEのみなさんも、頑張ってくれています」


「そうか。やっと、お前の第一弾ができたな」


 小浦の表情がふっと柔らかくなった。

 麻衣が企画部に異動になってから半年以上が経った。ようやく、手掛けた商品が一つ出来上がりそうだ。


「いえ、ほとんど小浦さんのおかげです」

「お前がやったんだ。自信持て」


 相変わらず小浦の語尾は強いが、力強い励ましだ。


「最初、早く企画部から出たくてたまらなかっただろ」


「・・・・・・わかりましたか」


「見ててすぐわかった。俺も、嫌なら早く出てけって思ってたけどな」


 いたたまれず、麻衣は小浦から視線をそらした。けれどその小浦が、今はこんなにも頼りになる。


「アプリ、作ってみて楽しいと思っただろ」

「・・・・・思いました」



 始めこそどんなアプリがいいか悩みに悩んでいた。だが、今では日ごとのテスト結果を見て、ユーザーが楽しんでくれているのを見ると、麻衣の『メモリアルマップ』に対する思いは日に日に増していった。


「最後まで気抜くなよ」

「はい、何とか・・・・・・」




 そのとき、麻衣と小浦の間にあった携帯の画面が、麻衣の目に飛び込んできた。海外のニュースを通知する設定にしていたそれに、一つのニュースが浮かび上がっている。






【スーダンの首都ハルツームの路上で、今月二十日、日本人男性が】





「ーーっ!」



 その通知が見えた瞬間、麻衣は携帯をぶんどった。

 胸騒ぎがする。嫌な予感がする。

 この予感は、当たらないでほしい。

 どくん、どくん、といきなり全身が脈を打ち出した。



 震える手で、麻衣はおそるおそる通知をタップしてニュースを開いた。



「おい、どうした?」



 様子がおかしい麻衣に小浦が声を掛けるが、麻衣は微動だにしなかった。






【スーダンの首都ハルツームの路上で、今月二十日、日本人男性が二人組の男に刃物で刺され荷物を奪われる事件があり、地元の警察は容疑者二人を逮捕したと発表した。強盗殺人の疑いで逮捕されたのは、・・・・・・の二人で、警察によると二人は・・・・・・・未明、路上で二十一歳の日本人男性を刃物で刺し、現金五万円余りを奪った疑い。男性は病院に運ばれたがその後死亡。警察の調べに対して二人は容疑を認めていて・・・・・】








 途中から、麻衣は何も覚えていなかった。







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