7-1
どうやって今日を終えたのかわからない。その通知を見た後、吐き気を繰り返し床に倒れ込む麻衣は、小浦に抱えられていた。
そうして気付くと、自分の部屋にいた。どうやって帰ってきたのか、タクシーで帰ってきたのかもわからない。
力が入らない麻衣の脚は、玄関でへたり込んでいた。
全部が、夢だったような気さえしてくる。
瞬と出会ったことも、瞬とセブ島で過ごしたことも。何ヶ月かやり取りを重ねて、日本で再会したことも。
瞬が、命を落としたことも。
何が現実で、何が夢なのかわからなかった。
麻衣は玄関で力をなくしながら、もう一度ネットの記事を開いた。他のニュースサイトを見ても全て同じように書かれていて、空っぽの麻衣の心の中に、ある事実が刻まれた。
瞬が、亡くなった。
瞬は、
ニュースサイトより遅いテレビのニュースで報道され、やっと彼の本名を知った。それは現実での繋がりが薄いのだという、麻衣への皮肉のように届いた。
ぼうっと瞬とのトーク画面を見つめる。この画面の中の瞬は、とても明るい。こんなに生き生きとしていた彼がもういないなんて、ニュースを見た後でも麻衣は信じられなかった。
最後に麻衣が送った、電話をしたいというメッセージには既読がついていない。そのトーク画面を眺めていると、今にも既読がついて、瞬から電話がかかってきそうな気さえする。
だが何時間経っても変わらないその画面は、麻衣に重たい現実を突きつけているようだった。
麻衣は、倒れた翌日も出勤した。小浦や曽根崎部長に驚かれ、また小浦に怒られたけれど、今回は体調が悪いわけではない。
今は、余計なことを考えずに仕事をしていられる方がありがたかった。
「お前、何かあったんだろ。大丈夫なのか」
「大丈夫です」
「・・・大丈夫じゃねえだろ、どう見ても」
小浦が呆れたようにそう言った。麻衣はそれをBGMに聞きながら、もくもくと仕事を進めていた。
小浦は麻衣の体調不良を案じて、『メモリアルマップ』の本配信を先送りにすると決定したらしい。これ以上、迷惑を掛けるわけにはいかなかった。
「何かあったんなら、話せよ。話すだけで楽になることもある」
小浦はそう声を掛けた。麻衣を案じて言ってくれたのだろうが、麻衣はそんな気になれなかった。
こんなこと、誰に話せるというのだろう。
旅行先で出会った男性と、今までやり取りを重ねていたら、その人が亡くなった、と。
誰が、それを麻衣が抱えている重さほどにわかってくれるというのだろう。
傍から見れば、麻衣と瞬の関係は薄い。互いの本名さえ知らないうえに、通っている大学も、職場も何一つ知らない。それでも、ずっとやり取りは重ねてきた。
その時間は嘘ではない。その事実が、傍から見れば薄っぺらいのに、麻衣にとってはどうしようもなく重い。
仕事をしながら気を張り詰めてでもいなければ、今にも思いが溢れ出してきそうだった。
そのとき、麻衣ははっと思い当たった。
アデルなら。
瞬が紹介してくれたアデルになら、話せるかもしれない。一度しか会っていないが、アデルとは瞬の心配を分かち合った仲だ。
アデルは、今ごろどうしているだろう。何たって、瞬が高校からの付き合いだ。きっと悲しみに暮れているに違いない。
アデルを訪ねることは気が引けたが、麻衣一人で瞬のことを抱え込むのも限界だった。
さんざん悩んだ末に、瞬が亡くなったことを知ってから一ヶ月後、麻衣はアデルを訪ねることにした。
麻衣は、電車に揺られていた。
瞬が日本に一時帰国して麻衣と再会した日、瞬とともに乗った電車だ。東京駅からの道を麻衣一人でたどっていくと、否が応でも瞬のことを思い出して、寂しくなった。
数ヶ月前に一度だけ通った道を覚えているだろうかと麻衣は不安に思っていたが、駅を降りると何となく体が覚えていた。以前は紅葉していた木々が、もう丸裸になっている。
麻衣が記憶を頼りに歩いていると、白いドーム型の建物が見えた。以前訪れたボランティア施設だ。
ここを起点として考えれば、アデルの家までもたどりつける。
アデルに会ったら、何と言えばいいだろう。ずっと悩んでいたが、掛ける言葉が見つからなかった。
アデルは、瞬の死を飲み込んだんだろうか。それとも、まだ受け入れていないのだろうか。
麻衣は道中、そんなことばかり考えていた。
坂を上って見えた古びた建物は、アデルが住んでいるアパートだ。
記憶が正しかったことにほっとすると、以前見たときよりも綺麗に見えた。前回は夕方だったこともあり、不気味さが増して見えていたのかもしれない。
ギシギシと軋む階段を歩くにつれ、麻衣の心臓はどくどくと鳴り始めた。
今日は、連絡もなしに押しかけて来てしまった。麻衣は、アデルの連絡先を知らない。
もしアデルがいなければ、帰って来るまで待っている覚悟だ。
ドアの前で深呼吸をし、麻衣はドアを叩いた。
「アデルさん、麻衣です」
大きく声を掛けるも、反応はなかった。
「アデルさん、いませんか」
もう一度ノックしようとしたところで、中からどたどたと大きな足音が聞こえた。
ばん、と勢いよくドアが開くと、そこにはアデルがいた。
「麻衣さん・・・・・よかった」
アデルは大きく目を開け、麻衣を見つめている。
「アデルさん、こんにちは。お久しぶりです」
何と言えばいいのかわからず、麻衣はとりあえず挨拶をした。アデルは、目を見開いて麻衣を見ていた。
「ああ、久しぶり・・・・どうぞ、中に入ってくれ」
アデルに促され、麻衣は部屋に入った。男性の部屋に入るのは躊躇したが、立ち話で済ませられる話ではない。
麻衣が座っていると、アデルが茶を差し出してくれた。それを一口飲むと、しばしの沈黙が流れた。
麻衣の方から何か言い出すべきだろうが、言葉が見つからない。あれだけ何を言おうか考えていたというのに、アデルを前にすると何も言い出せなかった。
そして、アデルが重そうに口を開いた。
「麻衣さん・・・・・・瞬のことは、」
「ニュースで、知りました」
そうだよな、とアデルが目を伏せた。瞬のことは、十秒程度だがどのテレビ局でも扱われていたので、何度か目にしていた。
「麻衣さんが来てくれてよかった・・・・・大丈夫かって心配してたんだ。俺はあのニュースの後、しばらく塞ぎ込んで何もできなかった。麻衣さんはどうしてるんだろうって心配だったよ。連絡先ぐらい聞いておけばよかったって後悔してたところだったんだ」
「ありがとうございます。私もアデルさんのこと、だいぶ心配してました」
「まあ・・・・・こんなことを言っていいのかわからないけど、見た感じは落ち着いてそうでよかった」
「アデルさんも」
アデルは、想像していたよりずっと落ち着いているように見えた。もしかしたら、今もずっと塞ぎ込んでいて、自分が励まさなければいけないかもしれないと麻衣は思っていた。実際の心の中は、どうかわからないが。
「俺は、今でこそこの状態だが・・・ニュースの後は、本当にひどかった。食事が喉を通らないって、本当にあるんだな。故郷の紛争地帯にいたときも、日本に来て荒れた生活をしてたときも、腹だけは空いてたのに・・・何も食べれなくなって、びっくりした」
「今は、ちゃんと食べてるんですか?」
「ああ。三日ぐらい食べてなかったんだけど、瞬の葬式に行かせてもらってな。日本の葬式って、大げさだと思ってたんだが・・・・やっと、葬式に行って瞬が死んだことを受け止められた気がした。やっぱり、葬式って大事なんだな。俺も平和ボケしてたんだと思う。葬式に行って、死んでる瞬を見るまで、ちゃんと受け止められてなかったよ」
アデルの顔は、どこか吹っ切れたように穏やかだった。
そのアデルを見て、麻衣ははっとした。
きっと、自分は瞬の死を受け止められていないのだ。
瞬がいたときのことをふわふわと思い出してしまう感覚。もしかしたら、まだどこかで生きているかもしれないと頭の隅で考えてしまうこの感覚。
瞬が亡くなったことをさっぱりと話すアデルの様子は、うらやましかった。麻衣は、自分の口から瞬の死を語ることなどまだできそうもない。
「アデルさんが今みたいになれたのは・・・お葬式に行ってからですか?」
「ああ、まあそうかな。それまでは頭ん中ずっとこんがらがってたけど、吹っ切れた気分になったよ」
麻衣は、しばらく思い悩んだ後で口を開いた。
「アデルさん、お願いがあります・・・・・私を、瞬くんの家に連れていってもらえませんか」
「瞬の家に?」
「私、こう見えて実はまだ落ち着いていなくて・・・・・アデルさんの話を聞いて、たぶん、瞬くんが亡くなったことをちゃんと受け止められてないと思ったんです。私もちゃんと、瞬くんに手を合わせたいんです」
そう頼むと、アデルはぱっと顔を輝かせた。
「もちろん連れてく。何なら今から連絡取ってみるか。俺、瞬の家族とはわりと仲良いんだ」
「私、行ってもいいんですかね」
アデルの言葉に、麻衣は食らいついた。
「私が行っても・・・・誰か、わかってくれますかね」
瞬の家族には会ったことがない。誰も、麻衣のことなどわかるはずがない。
どこの誰かもわからない自分が、瞬の家に行ってもいいのだろうか。瞬の大事な場所に足を踏み入れていいのだろうかと、とたんに怖くなった。
「いいに決まってるだろ。来てほしい人を決めるのは瞬だし、麻衣さんならいいに決まってる。日本人は、死んだやつを思うときに手を合わせるんだろ?瞬に手を合わせに行こう」
「・・・・・・ありがとうございます」
ずっと、誰かにそう言ってほしかったのだと思った。
自分が薄っぺらいと思っていた瞬との関係を、肯定してほしかった。瞬との関係はそんなものじゃなかったと、誰かにそう言ってほしかったのだと、アデルに肯定されて気付いた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
アデルは携帯を持って居間を出ると、さっそく瞬の家族に連絡を取っているようだった。世間話がいくつか続いているのを聞くと、本当に瞬の家族と仲がいいらしい。
昼には着きます、という言葉から、許可が取れたことがわかった。
「よし、オーケーだ。行こうか」
「お願いします」
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