6-2



 週末の土曜日、麻衣は時間より少し早く、指定された場所に到着した。


「・・・・・金の塾」


 そう、その家に掲げられている看板に書いてあった。麻衣に誘いのメールを出した差出人と一致している。店の名前は、分厚い木板に筆で荒々しく書かれたようなデザインをしていた。


 いまどきのボランティア塾は、こんな風に施設が整っているのだろうか。公共施設を借りて使う印象が多い中、その建物は立派に感じられた。建物自体は古いが、古くから大事にされている。そんな印象だった。


 呼び鈴がないので、麻衣は引き戸を叩いた。だが、中から人の気配は感じられない。手をかけると、力を込めた引き戸はずるっと麻衣の力に沿って開いた。


「失礼しまー・・・・・す」


 開けてしまった手前、少し大きい声を出して足を踏み入れる。玄関は祖母の家で見たような、段差の大きい玄関だった。昔の家の造りのようだ。


 壁に、一枚の写真が貼られていた。額に入れられたその白黒の写真は、歴史の偉人のような重みを感じる。有名人だろうかと考えたが、麻衣の記憶では思い当たる顔はなかった。


「あら、気が付かなくてごめんなさい」


 奥からぱたぱたと、高齢の女性が駆けてきた。女性は白髪に染まった長い髪を一束にまとめ、駆け足に合わせてその髪を揺らしていた。この人が、メールをくれた人だろうか。


「ここの塾長をしている金野です。どうぞよろしくお願いします」


 金野を名乗る女性は、深々とお辞儀をした。




「ここに並んでいる教科書や参考書は、好きに使っていいですから」


 金野に連れられ麻衣が中に入ると、教室を案内された。広い教室には、十台ほどの学習机と椅子が並んでいた。


 壁にある本棚には、麻衣が学生のときに使っていた懐かしい教科書がある。見覚えがある教科書を手に取ると、当時とは絵柄が変わっていて、時代が変わっていることを実感させられた。


「あ、佐倉麻衣と申します。今日は、よろしくお願いします」


 メールでは名乗っていたのだが、ちゃんとした自己紹介はまだだった。慌てて礼をすると、金野は微笑みを浮かべている。


「佐倉さんは、何の教科が得意ですか」


「学生時代は文系だったので、国語や英語が得意です」


「英語は苦手なスタッフが多いから助かります」


 麻衣が得意だったのは十年も前の話だ。頼りになるといいのだが。


「ここは、生徒さんが各自で使ってる勉強道具を使って勉強しています。だから、わからないところを教えるだけで、授業をするわけじゃありませんよ」


 麻衣の心配そうな顔を察したのか、金野はフォローした。


「それに、今日は見てるだけでもいいですからね」


 ネットで検索したとき、大勢の生徒を前に授業するボランティア塾のページを参考に見ていたので、ここで自分も授業するのだろうかと気負っていた麻衣は、安堵した。たくさんの生徒を前にして授業するなどという自信は、ない。


「他にもスタッフの方はいるんですか」

「今日は五人くらいですかね」


 それは、曖昧な言いぶりだった。麻衣のように、登録されているボランティアスタッフが来るのではないのだろうか。


「じゃあ、時間までは教科書を見ておいてください」


 はい、と麻衣が返事をすると、金野は教室から出ていった。


 初対面の人を、部屋に一人にして大丈夫なのだろうか。金目のものはないから心配していないのだろうか、などと考えながら本棚から教科書を取る。中学生の英語の教科書を見ると、基本的な文法で会話をしているキャラクターが懐かしい。


 昨日は、少しの緊張感を抱きながら眠りについた。こうして、自分から行動を起こすのは初めてかもしれない。今日は連れ添ってくれる瞬はいない。

こんなことを、瞬は高校生や大学生のうちからやっていたのだ。人生の経験値がまるで違って当たり前だ、と麻衣は思った。

 いつもと違う体験は、自分の経験値を豊かにさせてくれる。


「また、この人の写真」


 先ほど玄関に飾られていた人の写真が、本棚の空いたスペースにも飾られていた。違う角度だが、同一人物だろう。これほど大切に飾られているならば、この地域の有名な人なんだろうか。


 写真を見ていると、玄関の方からがやがやとした声が聞こえた。一人二人ではない、ややかん高い声が聞こえる。それなりの集団がこの教室に向かってきていることが、近付いてくる声の大きさでわかった。


「あら、今日のボランティアさんね。こんにちは」


「今日は会社員の方が来てくださったのよ」

「まあま、若く見えるけど働いてるのね」


 そこには、五人のかしましい奥様方がいた。だいぶオブラートに包んだが、六十近いおばさんたちだ。


「他の・・・・スタッフの方ですか」


 その姿にスタッフという言葉が似合わなくて、すっと口から出て来なかった。


「そうです。みんなベテランのスタッフですよ」


「佐倉と申します。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 挨拶を交わして雑談をしていると、生徒がぽつりぽつりとやって来た。中学生の男子が三人と女子が二人だけで、全員座っても並んでいる机と椅子は余っている。スタッフが座る余裕もありそうだ。


 思ったより少ない人数だ、と勉強を始める生徒を見て思う。調べたボランティア塾の中には、学校のように一クラス三十人程度で授業を行うものもあった。


 中学生が五人だけというのも、不思議だ。教育支援ボランティアでは、まだ塾を必要としない小学生が多いと聞く。レクリエーションがあるボランティアならば、なおさら幼い子の数は多いだろう。


 始まったばかりだというのに、変なところに来てしまったかもしれない、と麻衣は不安になっていた。

 だが、後悔しても仕方がない。自分も何かやりたいと思い、そしてやると決めたのだ。今までは瞬と行動していたので楽しくやってきたが、そもそもボランティアは自分が楽しむために参加するものではない。

 麻衣は気を引き締め、気持ちを切り替えた。



 どういう生徒たちが来ているんだろう、と麻衣は生徒の様子を観察していた。

 生徒は、自由に自習をしている。一斉に同じ科目を勉強する集団授業とは違って、持っている教科書はそれぞれ違っていた。数学の勉強をしている者もいれば、理科の勉強をしている者もいる。ただの自習だと思って来ているのか、学校の宿題をひたすらこなしている生徒もいた。


「聡くん、ここはね」


 スタッフが一人の生徒に話しかける。質問してもいないのに話しかけるその様子を、麻衣はじっと見ていたが、生徒はおとなしくスタッフの話を聞き、感心しているようだった。周りのスタッフや生徒も、いつの間にか和気あいあいと雑談している。


 もしかしたら、話しかけられるのを待っているのかもしれない。麻衣は勇気を出して話しかけてみた。


「わからないところはありますか?」

「・・・・・ないです」


 撃沈、という思いだった。ゆっくり勉強したいかもしれないのに、話しかけてしまってごめんなさい。そんな気持ちで、とぼとぼと近くを離れる。自分以外は楽しそうに話しているし、もう関係が出来上がっているんだろう。

 今日は役に立てないかもしれないな、と残りの二時間を諦めそうになった。


「佐倉さん、この子の英語を見てくれるかしら」


「はいっ」


 しょんぼりとしていると、金野に声をかけられた。この子と示された生徒の近くに行くと、その女子生徒は英語の教科書を開いている。


「動詞の後はどうすればいいの」

「これは、形が決まっていてね」


 女子生徒は文法について勉強していたようだ。日本語と順序が違うので慣れないでいたが、麻衣が時間をかけて説明すると理解してくれた。


「やってみる。ありがとう」


 礼を言われると、今までのマイナスな気持ちが吹き飛ぶようだった。一つでも役に立つことができてよかった、と安堵する。結局この日、麻衣が生徒と会話をしたのはこれだけだった。


 十二時になると、終わりの時間だ。勉強していた時間は三時間ほどで、このくらいが生徒が集中できる時間らしい。

終わりですよ、と金野が言うと、生徒たちは各自後片付けを始めた。他のスタッフたちも掃除用具を持ち、簡単に掃除している。


「じゃあね」

「お疲れさまでした」


 生徒たちが帰ると、スタッフも続々と帰っていった。何だか身内ノリを感じる塾だったな、と溶け込めずにいた麻衣はかすかな疎外感を抱いていた。

一日だけ参加するのだから、こんなものだろう。


 自分も帰ろうと思ったところで、金野に声をかけられた。


「今日はありがとうございました。英語ができるスタッフはいないので、助かりました」


「こちらこそ、ありがとうございました。でも、あまりお役に立てなかったと思います」

 

 自信なさげに答える麻衣に、金野は首を傾げた。


「そんなことありません。英語を教えられるスタッフがいなかったので、みんなそんなものだと思っていつの間にか質問しなくなってしまったんです。でも今日、佐倉さんが教えているところを他のみんなは見てましたよ。いいなあって思ったんだと思います」


「そう、ですかね」


 そう言われると、自信がなくなっていた麻衣の心が少しだけ立ち直った。


「あの、他のスタッフの方たちもボランティアなんですか」


 だが、やはり気になるのは他のスタッフのことだ。麻衣のように、ボランティアスタッフとして派遣されているようには見えない。


「あのスタッフたちは、何年も塾講師をしていた方ですよ。今は、ボランティアとして来てくださってます」


「そう、なんですか」


 講師を引き抜いたんですか、とか、ここでボランティアをして長いんですか、とかさらなる疑問が浮かんだが、あまり探るのは失礼かと思い、それ以上は踏み込まないことにした。


「佐倉さん、都合が合えばぜひ来週も来てもらえませんか」

「え?」


 一回きりだと思っていた麻衣にとって、それは意外な申し出だった。


「今日は初対面で、生徒さんも緊張してたみたいなんですけど・・・・・・来週は、質問する子が増えると思うんです。佐倉さん、教え方が丁寧だから私も嬉しくて。無理にとは言わないんですが、ぜひ」


「・・・・・・わかりました。来週もお願いします」


 金野の言葉が、純粋に嬉しかった。そう言われるまでは、今日麻衣が教えることができた生徒は一人だけで、正直いなくてもよかったのではないかと思っていた。


 だが、来週の予定もないし、このように言ってもらえるならば来てもいいかもしれない、と思ってしまった。褒められれば弱いものだ。


「ありがとうございます!みなさん喜びます」


 金野は嬉しそうに礼を言った。


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