4-2



「私は写真整理アプリを考案しました。近年一人旅や女子旅がブームになっており、一度行った旅行先に再訪する旅行者も増えています。そこで位置情報を利用して、旅行先を訪れると以前そこで撮った写真が優先的に表示される仕組みを考えました」


 何度目かの企画発表会を迎えていた。麻衣はあれから日常のふとした不満に目を向け、パンケーキ専門のレシピアプリやペットニュースばかりのアプリなどを発表したが、どれも不評に終わっていた。


 発表会をたびたび迎える中で一つわかったことがあった。小浦がアドバイスをするのは先輩に対してだけで、麻衣のような下っ端には容赦のない愚弄が飛んでくるということだ。発表会が終わった頃には、いつも麻衣の心は投げられた釘でズタズタになっていた。


 それでも、麻衣はめげずに考え続けた。今回考案したアプリは、瞬の発言をヒントにして生まれたものだった。


「佐倉さん、いいねえ。何だか光ってきたよ」


 曽根崎だけは毎度麻衣のことを褒めてくれる。内容以外の部分で、だが。


「写真整理は、もう飽和してるんじゃない?」

「また同じところに行く人よりも、行ったことのないところに行く人の方が多いかと・・・」


 ごもっともな指摘が挙がる。何とか瞬が望むようなアプリを、と思ったがその需要は少ないものと予想はしていた。

 また駄目かもしれない、と挙げられる指摘に弱気になっていく。そろそろ小浦の判断が下る頃だ。


「惜しい、な」


 小浦が呟いた。また愚弄されるのだろうと麻衣は奥歯を噛みしめて待ち構える。


「着眼点はいい。位置情報を使う写真整理アプリという点はいい。だがそこから利用できる想像力がない。たとえば写真整理アプリでなくて・・・そうだな、旅行のときに使いたいアプリ、と限定的にするとか。その方がターゲットを絞れていい」


 小浦の言葉に他の先輩から疑問が挙がる。


「それだと需要が少ないのでは」

「写真整理の機能でユーザーを拾おうったって、大手には敵わないでしょう。それなら違う需要を狙った方がいい。これをベースにして深めていけ」


 またしても内容にそぐわない強い口調で言われるものだから、すぐに頭に入ってこなかった。麻衣は小さく口を開けて呆けていた。


「何だ、返事はどうした」

「・・・・いいってことですか?」

「着眼点はな。更に考えて詰めてけ」


 麻衣の目から、ぽろっと涙がこぼれた。それは無意識だった。


「何で泣いてんだ!」


 小浦が狼狽える。曽根崎や周りの先輩たちからの注目も集まった。


「・・・嬉しくて。先輩にそんなこと言われるなんて、初めてだったので」

「嬉しいなら喜べ。泣いてんじゃねえ」

「佐倉さん、小浦くんは本当は嬉しいんだよ。佐倉さんが少しずつ成長していくからねえ」


 曽根崎は麻衣にティッシュを渡しながらうんうんと頷いた。小浦は泣き止むまで休憩してきます、と外に出て行った。


「小浦くんはスーパースターだけど、素直じゃないねえ」


 曽根崎のそのおっとりとした言い方で、やっと照れて出て行ったのだと把握した。戻ってくる頃には普通の顔になっていよう、と麻衣は小さく鼻をかんだ。




「お先しまーす」

「あれ、佐倉さん今日早いじゃない」


 麻衣が退勤することに気付いた多田が、顔だけこちらに向けた。総務部より早く帰るのは二ヶ月ぶりだ。


「少しだけ・・・ほんの少しだけだけど、ちょっと仕事が落ち着いたの」


 親指と人差し指を限りなく近付け、ほんの少しのジェスチャーを作る。


「やったじゃん。落ち着いたら女子会しよーよ」

「・・・うんっ」



 その日の帰り道、麻衣はご機嫌だった。

 初めて先輩に認められた気がする。認められたと言うのは大げさだが、初めていいと言ってもらえた。あの怖くてつっけんどんで、話しかけづらかった小浦に。


 今日はご褒美にスイーツでも買って帰ろうかな、とスキップしそうな勢いで軽やかに歩く。こんな日にまっすぐ家に帰るのはもったいないので、恵比寿ガーデンプレイスの中を通った。ここはたくさんのお店に高いタワーにおしゃれな建物ばかりで、歩いているだけで楽しくなる。まだ外は明るいのにビアガーデンが放つまばゆい光と、その中に吸い込まれていくサラリーマンたちをあたたかい気持ちで見送った。

 コンビニに入る前に麻衣は携帯を開いた。


【瞬くんのアイディアを元にした企画が褒められたよ。まだまだだけど、形にしていきたいな。今日電話できる?】


 本当は今すぐにでも電話したかった。だがネパールは十五時といったところで、まだまだ瞬の活動時間だ。それを邪魔したくないが、すぐに報告をしたい。そんな気持ちでメッセージを送った。


 コンビニに入ってスイーツを選んでいる間、麻衣は携帯をちらちらと確認するのを止められなかった。早く返事が返ってこないかな、今日は何時に電話できるだろうといつになく浮足立っている自分がいた。


 恵比寿駅のデパ地下でお高めのお惣菜を買った後も、家に帰ってからよくCMで流れていたスフレプリンを食べている間も、ゆっくりとお風呂に浸かりながら携帯をいじっている間も、ずっと瞬からの返事を待っていた。


 けれどその日、瞬からのメッセージは来なかった。


 寝るまでに何度トークルームを開いただろう。たった五分前に確認したばかりなのに、既読がついていないその状態は一向に変わらなかった。


 布団に潜り込んで瞬とのトークルームを開くも、まだ既読は付いていない。いつもならもう寝ている時間を一時間ほど過ぎていた。企画を詰め直さなければいけないから、明日は早く出社しようと思っていたのに。


 何かあったのかな。


 そんな不安がよぎって、心がざわざわして寝つけなかった。けれどこんな日は以前もあった。瞬が酒を飲み過ぎて、朝まで返事がなかったことが何度かあったのだ。


 きっとまた酔いつぶれてるんだろう。それはそれで心配だが、そう思うことで不安を追いやって瞼を閉じた。


 次の日の朝、麻衣は携帯を握りしめながら起きたが、相変わらず既読は付いていなかった。

 やはり何かあったんだろうかと心配になる。返事はなくてもいい、どうか既読だけでもついてほしい。けれどその願いは一向に叶わなかった。


 不思議と食欲が湧かず、エネルギーゼリーを流し込んで家を出た。もしかすると瞬が事件に巻き込まれたのではないかと、震える心で海外ニュースを調べた。

 心臓が絞めつけられているような気持ちの中で一つ一つニュースを見たが、日本人旅行者についてのニュースは見当たらなかった。




 それから四日が過ぎたが、瞬からの返事は一向に返ってこなかった。



「企画進めてるか」


 小浦が麻衣の隣の席に座った。こんな風に、小浦の方から距離を詰めてくることは珍しい。


「いえ・・・上手くいってなくて。すみません」

「お前、顔真っ青だぞ。大丈夫か?」

「大丈夫です」


 顔を覗き込む仕草に、小浦にも人の心があったんだなとだいぶ失礼なことを思う。瞬のことが気がかりで心も体も落ち着かないまま食事も喉を通らず、夜も思うように寝付けない日々が続いていた。


「具合悪いのか。ちゃんと飯食ったか」

「最近食欲がなくて・・・大丈夫です、ちょっと飲み物買ってきます」


 椅子から立ち上がろうとしたところを、ふらりと視界が揺らいだ。あ、これはやばい。倒れるやつだ。そう思ったときには視界がぐにゃりと揺らぎ、体が斜めに傾いていた。


「――っ」

「ご、ごめんなさい・・・・」


 倒れかけた麻衣は、小浦の腕にもたれかかっていた。抱きとめられた、という方が正しいのかもしれない。


「佐倉さん大丈夫?今日はもう帰った方がいいよお」


 一部始終を見ていたらしい曽根崎が、ぽてぽてと駆け寄ってくる。


「あの、大丈夫です」

「大丈夫じゃねえだろ!」


 小浦の怒鳴るような大声に、体がびくっと震えた。片腕にもたれかかっていたところを、小浦の両手が麻衣の肩を掴み直す。


「自分の体調ぐらい自分で管理しろ!」


 オフィス中に響く大声で諫めるように、その両手で力強く麻衣を椅子に座らせた。

今日はもう帰れと対照的に小さく呟き、歩いていった。食後のコーヒーを淹れにいくのだろう。


「小浦くん、病人にそんな言い方はないよお」

「・・・・部長、私、今日は帰らせていただきます」

「そうだね。顔色悪いし、それがいいねえ」


 タクシー呼ぼうか?と優しい曽根崎に甘えて、タクシーで帰った。こんなところで無理をしたら、また小浦に怒られるだろうから。



真昼間にオフィス街をタクシーで帰る麻衣は、悪いことをしたように感じていた。この暑い中、汗を拭きながら歩くサラリーマンを見かければなおさらだった。ましてや瞬のことが心配で、体調不良になり会社を早退するなど、とんだ不始末だ。

小浦に怒られるのは当然で、いったい何をしているんだろうと自分でも思う。


 タクシーの中で、ぼんやりと携帯の画面を見つめた。


 この数日間、海外にいる瞬に対して自分がいかに無力かということを痛感させられていた。こうして連絡が取れなくなってしまっては何もできない。


 これは考えたくもないけれど、もしかして、もしかしたら瞬の生死がかかっているかもしれない。海外は危険な場所もある。連絡が取れない今、瞬が無事でいる保証はどこにもない。


 どうか無事でありますように。そう祈ることしかできない自分に不甲斐なさを感じてばかりだった。

 そのときだった。


【お久しぶりです。Wi-Fiのない地域にいました】


 見つめていた携帯の画面にそんなメッセージが飛び込んできたものだから、麻衣は目を疑った。

 慌ててその通知を押すと瞬とのトークルームに移り、全文が表れる。


【お久しぶりです。Wi-Fiのない地域にいました、返事が遅くなってすみません。僕のアイディア採用してもらえて嬉しいです。今日はいつでも電話してください】


 気付いたときには、タクシーを降りようとしていた。


「ここで降ろしてください!」


 そう言い、運転手の返事を待たないまま五千円札をトレーに置いて歩道に出た。お釣りは充分に出るはずだ。釣りはいらない、なんて真似が人生でできると思わなかった。


 指先はすでに瞬に電話を掛けていた。待ちきれない、一刻も早く彼が無事なのか確かめたかった。彼を待つコール音ですら煩わしい。


「もしもし・・・」

「瞬くん⁈無事なのっ」


 瞬が出るや否や問い詰める。歩道の真ん中で、麻衣は大声を出していた。


「麻衣さん、どうしたんですか」

「無事なの⁈怪我はない?」

「あ・・・元気ですよ。僕は大丈夫です」


 ちゃんとした彼の言葉を聞いて、やっと安心できた。安心が体中に充満したのか、気が抜けてしまった麻衣はその場にへたり込んだ。


「よ・・・かった、無事で。本当に、よかった」

「すみません、心配かけてましたか?ホテルのWi-Fiが壊れてて、全然繋がらなくて」

「よかった、よかった、本当に・・・生きてて、よかった。もしかしたら、なんて、私、思ってて」


 瞬が無事でいた。それがようやく理解できた頃には麻衣の目から涙が溢れていた。


 もしかしたらなんて考えたくもない想像をして、その想像が現実になってしまうことが怖くて。何て馬鹿な考えをしているんだと、そんな想像をする自分を殴りたくなるくらいに、とても怖かった。


「・・・よかった、本当よかった・・・っく」

「えっ、すみません、心配かけて。どこに行くかぐらい言っておけばよかったですね」


 麻衣が泣いていると気付いた途端、なだめるように瞬の声は優しくなった。


「心配してくれて、ありがとうございます」


 そうだった。何かトラブルが起こったんだろうが、きっと彼は無事でいる。また話すときにはこういう言葉を、心配していた麻衣をねぎらうように掛けてくれる。そういう、もしかしたらとは真逆の想像だって、たくさんしていたはずなのに。

 想像していた以上に柔らかくて優しい瞬の言葉を聞いた麻衣は、涙が止まらなかった。これは安堵の涙だ。


「・・・・その街のこと、教えて」

「僕が行った街ですか?」

「そう。私が落ち着くまで、話して」


 今は、瞬がどんな願いだって聞き入れてくれるような気がした。


「いいですけど・・・仕事はどうしたんですか?まだそっち、昼ですよね?」

「・・・休みを取ったの」


誰かのせいでご飯が喉を通らなくなり、職場で倒れて帰ったなど、とても恥ずかしくて言えるわけがなかった。


「四日前、カトマンズから離れて、ポカラっていうバックパッカーに人気の街に行ったんです」


 麻衣が鼻をすするのを相槌にするように、瞬はゆっくりと話した。


「知らない街だったんですけど、カトマンズの宿で他のバックパッカーがいい街だって言うんで行ってみたんです。そしたら綺麗な湖があったり、その湖に映るヒマラヤ山脈が綺麗で。あ、本物のヒマラヤ山脈ももちろん迫力ありますよ」


「・・・私も、聞いたことのない街」


「日本じゃあまり聞かないですよね。居心地がよくて、他のバックパッカーの中には沈没してる人もいて。あ、沈没っていうのは、居心地がよくて長く居座ることなんですけど」


「ふふ、そうなんだ」


「はい、バックパッカー用語なんです。もっと居たかったんですけど、宿のWi-Fiが壊れてて何もできないので・・・今朝カトマンズに戻ってきました」


「素敵な街だったんだね。後で写真ほしいな」


「送ったらもっと元気出ますか?」

「うん!・・・あ」


 蓋をしていた、自分の気持ちがあったことに気付く。こんな我がままを言ったら受け入れてもらえるだろうか。

 でも、今ならきっと。


「日本に来るんだよね。私、瞬くんに会いたい」


 勇気を出して、そっと蓋を取った。


「会って瞬くんの顔を見たい」


 三ヶ月前の君と、変わっているだろうか。


「そしたらもっと元気が出るよ」

「ふっ」


 勇気を出したのに、瞬は笑っているようだ。


「ちょっと。何で笑うの」

「だって元気出るよって、面白くて。いや、僕も麻衣さんに会いたいと思ってたのでちょうどよかったです」


 笑われたことは面白くないが、瞬の会いたいと言う言葉は麻衣をほっとさせた。


「でも・・・いいの?家族とか、友達とも会うでしょ」

「家族と友達とも会いますよ。麻衣さんとも会う時間を作りたいと思ってました」


 直球を投げる瞬の言葉が嬉しい。麻衣は自然と口角が上がり、顔がにやけてしまった。


「そのとき、日本で一緒にボランティアに行きませんか?」

「はっ?」


 だが、瞬の提案は意外なものだった。日本で、ボランティアを。しかも一時帰国というタイミングでだ。


 日本で、そんな形で会わなくても。頭にはそんな思いが駆け巡る。セブ島のときは持て余す時間に悩んで行ったものだ。楽しかったが、日本では他にも選択肢がある。

 

 だが、ふと瞬はそうではなかったことに気付いた。麻衣の気が乗らなかったとしても瞬がセブ島でボランティアに行く予定は変わらなかったし、もしかすると今回の一時帰国でもその予定があるのかもしれない。


 そのくらい、瞬にとっては大切な時間なんだろう。


「いいよ、楽しかったし。どんなことをするの?」

「ありがとうございます。大学のときに行ってたボランティア施設に行くんですけど、これから連絡してみます。日本を出るまで仲良くさせてもらってたんです」


「日本でも通ってたんだね。瞬くんらしい」

「なんだか通い詰めちゃうんですよね。久しぶりにそこに行きたいのと、麻衣さんに会わせたい人がいるんです」


 会わせたい人、だなんてどきっとしてしまう。まだ知らない、瞬の背景に少し触れることができるかもしれない。


「私に?誰?マザーみたいな人?」

「当日までのお楽しみです」


「もー!気になる!」

「はは、楽しみに取っておいてください。元気、出たみたいですね」


 瞬の包むようなその語尾はとても柔らかくて、元気のなかった麻衣を気遣っているのが電話越しでもわかるほどだった。


 そういえば、そうだった。さっきまで元気を出すために我がままを言っていたのだ。


「うん、元気出た・・・・ありがとう。楽しみにしてる。来月、だよね。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします。それじゃあ、また」


 電話を切った後、名残惜しくトークルームを眺める。瞬との通話時間が表示されていることが、以前の麻衣のメッセージに既読が付いていたことが、とても嬉しかった。


「・・・・帰ろっ」


 自宅まで、麻衣は軽やかに歩き出した。こんなところを小浦に見つかったら小突かれるかもしれない。


 けれど、今はそんなことどうだっていい。


 彼が無事でよかった。ただ、それだけだ。平静さを取り戻したらしい麻衣の体にも元気が戻ったようで、さっそく腹の虫が鳴り始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る