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こんなに幼い少年が旅なんてと不安に思っていたが、見かけだけではないらしい。
「この後はどうするんですか?」
「セブ島を出たら本島を少し観光して、その後はベトナムに行きます。大まかにですけど、これからアジアを周って中東に行って・・・ヨーロッパ、アフリカ、アメリカに行く予定です。上手く行けたらですけど」
瞬の言葉から、頭の中で世界地図を思い描く。アジアがあって、中東があって、ヨーロッパからアフリカ大陸、それから大陸を移動してアメリカ大陸へと、だんだん東へ移動していくと日本がゴールになるような道ができた。
日本を中心にしか世界地図を見たことがなかった。描かれた一本線で繋がった道に、世界は繋がっていたんだと当たり前のことを実感させられる。
「本当に世界一周ですね。全部の国を周るんですか?」
「できることならそうしたいですけど・・・時間もお金もたくさんあるわけじゃないので、行きやすいところとか、行きたい国中心になると思います」
「へえ・・・」
麻衣は素直に感嘆していた。
まだ瞬の旅は始まったばかりだが、世界一周の話には興味がある。旅先でバックパッカーを見かけることはあったものの、彼らと話したことはなかった。
もっと話を聞きたい。瞬の話を聞いて、好奇心からそう思った。
「あの、どうして世界を周ろうと思ったんですか?」
それが一番の疑問だった。
「外の世界を見たかったんです。旅行が好きで、単発でどこかの国に行くことはあったんですけど・・・大きな街とか有名な観光地にしか行けないので、長い時間をかけていろんなところを周りたいな、と」
「そうですよね・・・・飛行機だけでたくさん時間かかりますもんね。羨ましいです」
「麻衣さんも海外旅行好きなんですか?」
名前を呼ばれたことに、少しどきりとする。年下の異性に名前で呼ばれることなどめったにない。
しかし彼より年上の女性がこんなことであたふたしては恥ずかしいので、何事もなかったような表情をした。
「友達に誘われてですけど、よく行きます」
「いいですね」
「海をいっぱい楽しみました。バナナボート乗ったり、ダイビングしたり。セブ島の海ってすごく綺麗で」
「めちゃくちゃエンジョイしてますね。やっぱり豪華だなー。僕、少し泳ぐぐらいしかできなかったですよ」
いいなー、と瞬がアイスコーヒーをかき混ぜながら笑う。
「いや、瞬・・・くんの方が、すごいです。大学を休学してまでって。家族は何も言わなかったんですか?」
名前を呼んだときはどこか気恥ずかしくて、視線を合わせられなかった。
「・・・すごく、反対されました」
視線を落とした彼の苦笑いに、気恥ずかしい感情は飛んで行ってしまった。
「実は、将来難民の支援活動をしたくて。そのために現状を見ておきたいんです」
「難民の、現状?」
瞬の丸い目に、真剣な眼差しが宿る。その様子からするに、旅に出た本当の理由はこちらだろう。
「はい。将来、難民の支援をしたいっていうのが僕の夢で・・・難民の今の状況を実際に見たかったんです。それと旅行も好きだし、どうせならひとまとめにしていろんなところに行っちゃおうと思って。はは、なんか軽い考えですよね」
瞬は恐縮するように顔を上げて、苦笑いから自嘲するような笑みを作った。
「そんなことないですよ。フットワークが軽いっていいことだと思います・・・それが瞬くんの夢なんですね。素敵」
その思いに素直に感嘆を漏らし、半ば溶けている氷とカフェオレをぐるぐるとストローでかき混ぜた。瞬は「ありがとうございます」と本当に嬉しそうに呟き、照れたように目線を下げた。
麻衣は夢らしい夢もなく、より良い大学へ、より良い会社へとエスカレーターのように人生を進めてきた。横にずれることも駆け上がることもせず、順調に進めつつある。
仕事はやりたいことでもなく、だが嫌な仕事でもなくほどほどに給料をもらえてほどほどに休暇を取れるならまあいいと続けている。
社会に出てみると、周りはみんなそうだ。
学生の頃たくさん考えて、永遠に残る卒業文集に書いた夢を語るようなことは当の大人になってからはない。あるのは、愚痴を語る不毛な会だけだ。
そんな毎日を過ごしてきた麻衣は、久しぶりに夢という熱意に触れた。
こんなに熱くて、素敵なものだったっけ。瞬の目はきらきらと輝いているように見える。その奥の熱にもう少し触れたいと、瞬に疑問を投げた。
「どうして、難民の支援をしたいと思ったんですか?」
「日本でも難民を受け入れている施設があるんです。高校の行事でそこにボランティアに行ったんですけど、そのときの僕にはすごくショックな出来事があって。日本に来た難民は職業訓練を受けて働いたり、言葉が通じない中でも頑張ってコミュニケーションを取る人もいるんですけど・・・・その中に、馴染めなくて部屋に引きこもってる人がいて。その人の部屋が本当に悲惨だったんです。動物園の檻の中より酷くて、野生動物みたいで。僕がその人の担当になって部屋を掃除したんですけど、とても人間の暮らしとは思えなくて。難民の受け入れっていいことに聞こえますけど、その人にとってはいいことじゃなかったんですよね」
とうとうと話す瞬の話を、麻衣はゆっくりと聞いていた。普段耳にすることのない難民の話を、真剣に聞くのは初めてだ。
「それを見て、どうにかできないかなって思ったのが始まりです。それぞれに合った支援方法があるはずだって、その人を見て実感したんです。僕が実感できたのはその人一人だけだけど、世界にはもっと悲惨な目に遭って、生きることも難しい人がいっぱいいるって気付いて。それで世界に目を向けるようになって、将来は難民の支援活動をしたいなって・・・」
「すごい・・・」
若いのに、なんてしっかりした考えを持っているんだろう。衝撃のあまり心の声が漏れてしまった。立派に夢を語る瞬に対して、そんな簡単な言葉しか出て来なかった。
こんなに熱く語られるなんて、将来の夢は?と聞く面接官にでもなった気分だ。彼を採用できる権限もないけれど。
「褒めてくれたの、麻衣さんが初めてです」
「え?」
真剣な表情をしていた瞬の目が、柔らかく細める。
そんなに崇高な夢を持っていながら、どうして。麻衣は首を傾げた。
「休学してまで行くなんてって親にも友達にも反対されました。一人で海外周るなんて危ないし、一年休学しただけでも就活には不利なのにって。それでもやりたいこと押し通して来ちゃったんですけど、ずっと心に引っかかってたんです」
ありがとうございます、と瞬は小さく頭を下げた。きっと麻衣にも夢を非難されると思ったんだろう。
「瞬くんの夢は・・・本当に素敵だと思います。月並みな言葉しか言えないけど、自分の夢を大切にしてあげてください」
彼を送り出したいと思った。
学生の頃、どんな夢を描いていただろう。それは人に、こんなに熱く語れるような夢だっただろうか。
麻衣の言葉に、はいと瞬が笑う。それは会ってから初めて見る、満面の笑顔だった。
少し話した程度だが、彼ならきっと世界を一人で渡り歩けるだろう。明確な根拠はないけれど、話したこの数十分が根拠だ。
子どものように屈託なく笑う瞬を見てそう思った。
会話が続くか危惧していたのはどこへやら、それから二人は話に花を咲かせていた。
「えっ。瞬くん、千葉に住んでるの?」
「そうです。生まれてからずっと千葉で」
「私、東京で働いてるの。近いね!」
「海外で出会うなんて、不思議な感じですね」
先ほど瞬から「先輩なんで敬語やめてください」と言われてから、言葉尻も軽く気軽に話せるようになっていた。
「ところで、明日の夜の便で帰るんだけど・・・それまでの予定が何も決まってなくて。面白いところ知らない?」
「うーん・・・やっぱり、海ですか?」
瞬が窓の外を見る。外にはサーフィンをしている人たちや、水上スキーに乗って大声を上げているカップルが見える。
確かに、セブ島と言ったらまず海だ。その気持ちはわかる。
「もう充分楽しんだの。いつ見ても綺麗なんだけどね」
波が押して引いていく様子は、ずっとだって見ていられる。海に罪はないが、最後の一日をぼーっと過ごすのはもったいない。
「お土産買うとか・・・」
「それも充分買ったの。やっぱりセブ島っていったらそうだよね。海で何かするかなあ」
最後の一日は、体験できなかったサーフィンに挑戦するのもアリだろうか。友人は付き合ってくれるかな、と戻りを待つ友人のことを思い出す。
瞬はまだ麻衣の予定を考えてくれているようで、「全然趣向が違いますけど」と前置きした。
「僕、セブ島で英語の勉強してる間によくボランティアに出かけてたんです。セブ島のストリートチルドレン達に配給するとか、読み書きを教えるとか。明日、そこに別れの挨拶を兼ねてボランティアに行くんですけど、よかったら・・・・」
瞬の言葉が止まり、間が生まれた。麻衣の驚いた表情にまずいと思ったようだ。
「いや、やっぱり
「その話、聞かせて」
話に食い付いたことが意外だったのか、瞬は驚いた顔をしていた。
「私、セブ島にストレートチルドレンがいることも知らない」
麻衣が驚いたのは、この高級ホテルやショッピングモールが立ち並ぶ空間にストレートチルドレンがいるという事実だった。
瞬は遠慮がちに説明を始めた。
「この辺は観光客が多いので開発が進んでるんですけど、一歩奥に入ると貧困地域になってるんです。一部が開発されてる分、貧富の差も激しくて。ボランティアは通ってたスクールの人に紹介してもらったんですけど、空いてる時間にたまに手伝いに行ってて・・・炊き出しとか、ゴミ山のゴミ片付けたりもしましたね」
リゾート感は無いですよ、とせっかく旅行に来ている麻衣に気を遣っているが、麻衣は興味津々だった。
セレブリティなリゾートは充分堪能した。日本では社畜の身だからか、働くことが性分だからか迷うことなく心は決まっていた。
「私もそのボランティア、行ってみたい」
「え、本当にいいんですか?人手が欲しかったので嬉しいですけど・・・せっかくの旅行大丈夫ですか?」
「瞬くんが誘ったんだよ」
そうおどけて返すと、「そうですけど」と瞬は苦笑いした。
そういえば、ここには友人と旅行に来ていた。明日の予定を決めようにも友人に相談しなければならないし、残念ながら友人はボランティアなど参加するタイプではない。
「行きたいけど、友達が何て言うかな・・・・」
「麻衣、見つけたー」
漫画のようなタイミングで、頭上から声が降ってきた。
声のする方を向くと、一緒に旅行に来た友人と・・・日焼けした肌とは違う、元々浅黒い肌色をした長身の外国人男性が隣にいた。目鼻立ちがはっきりしており、爽やかな笑みを浮かべている。
見知らぬ顔に呆気に取られていると、「ハイ!」と挨拶を受けたので、軽く挨拶を返してみる。こちらは苦笑いだ。
友人は麻衣の向かいに座っている瞬に目を光らせていた。
「やだ、麻衣の方もいい感じね!彼、日本人よね?海外で日本人と知り合うなんて、やーん運命?」
「遥、この人は?」
変な方向に飲み込みが早い友人を無視して尋ねる。
「買い物してたらぶつかってー、ちょっと話したら意気投合してー、運命感じちゃった!これから彼とデートに行くの」
ねー、と遥と外国人は二人で顔を見合わせる。
おかしい。私は一緒に旅行に来ていたはずなのに、完全にアウェイだ。
「麻衣はー?ナンパしたの?」
遥の視線が瞬へと移る。
「そんなわけないでしょ!」
「お金が足りなくて、ごちそうになってたんです」
麻衣が慌てて否定すると、瞬が助け舟を出してくれた。そうなんだー、と遥はあっさりと納得する。
大方、早く二人でデートに行きたいのだろう。話の繋ぎに瞬との関係を探るぐらいなら、あまりかき回すようなことを言わないでほしいところだ。
「ということで私、明日自由にしていいかな?」
遥が外国人男性の腕に手を絡ませる。放っておけば、ここでキスの一つや二つでもかましそうなムードだ。
「いいよ、飛行機に遅れないようにね。空港集合ね」
「うん!麻衣、ありがとー。じゃ、明日ね」
ばいばーい、と遥は外国人男性と手を振って去って行った。
今日はホテルへは戻って来ないだろう。ホテルへ荷物を取りに行って彼の家へ向かうか、明日のチェックアウト前に荷物を取りに来るかというところか。
「お友達、奔放ですね」
瞬にも見透かされたようだ。いつもは気にしないのだが、人前で身内がこうでは恥ずかしい。
「もう慣れてるの。旅行に行ける友達がいるのは嬉しいんだけどね。こればっかりは止められなくて」
恥ずかしさから視線を窓の外へ移すと、暑いにもかかわらず遥と外国人男性はスキップでもしそうなほど軽やかな足取りで歩いている。
よほど意気投合したのだろう。以前のように、びしょ濡れで空港に現れなければいいけれど。
だが、明日の麻衣の自由は確定した。先ほどはいいところで話が終わっていたはずだ。
「ということで、明日大丈夫になったから・・・さっきのボランティアの話、お願いしてもいいかな」
「はい。お願いします」
瞬はにこりと笑って受け入れてくれた。
誤解されたくなかったので、「私はああいうことはしてないからね」とぼそっと呟いた。聞こえたのか聞こえなかったのか、瞬はくすりと笑ったような気がした。
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