旅するきみに恋をした。

Tsugi

1-1


 青い空、白い砂浜。

 かんかんと照り付ける強い日差しが物語るように、ここフィリピン、セブ島の気温は四十度まで上昇していた。

 強い日差しから逃げるようにパラソルの下でひと休みしている家族。太陽の視線に張り合うように、はしゃぎ声と水飛沫を上げ飛びまわる女性たち。


 その様子を、ショッピングモールのベンチから佐倉麻衣は眺めていた。

 日本より幾分かカラッとした、だが焼けるような暑さから逃れ窓一枚隔てた先の海を見つめる。


 ショッピングモールの中は現代のオアシスだ。エアコンがガンガンに効いたこの建物から出る勇気はない。

 見つめた先は綺麗なグリーンブルーの海だ。いい波も来ているようで、サーフィン客の出も多い。たくさんのビーチアクティビティを体験した麻衣だったが、サーフィンは(心の)難易度が高くて体験できなかった。やっぱりやってみればよかったかな、と少し後悔した。


 ちらりと携帯の画面に目をやる。十四時三十分。先ほど確認してから十分も経っていない。待たされる時間、いや退屈な時間ほど長く感じるものだ。

 やれやれ、と小さくため息をついた麻衣は組んでいた脚を組み替えた。リゾート感のあるハイビスカス柄のワンピースの裾が、ゆらりとゆらめく。


 麻衣は友人とフィリピンのセブ島にリゾートに来ていた。

 リゾート地のわりに物価が低く、日本から五時間ほどで行けるという友人の情報に便乗した。その情報の通りホテルもアクティビティも内容に比べて安価で、連日満喫していた。

 五日間の旅行のうち、今日は四日目だ。シュノーケルにダイビング、クルージングにロデオボートと海を満喫したので、今日はショッピングに勤しむことにした。


 ここはセブ島で随一の巨大ショッピングモールだ。観光客向けの土産屋やブランドショップなど、多くのショップが立ち並ぶ。その数は歩いても歩いても終わりが見えない。

 初めは友人と次から次へとショップを物色していたが、麻衣の方はしだいに飽きてしまった。友人はブランド物に目がないたちだ。

 ひと通りお土産を買った麻衣は満足し、買い足りないと嘆く友人を快く送り出した。ほんの三十分ほど前の出来事だ。

 延々と買い物に付き合わされるよりは、この方がずっとよかった。彼女とは長い付き合いなので取り扱いは心得ている。


 明日の夜には、飛行機の中か。

 ぼんやりと、明日のことを考える。飛行機に乗って、時差を越えて明後日の昼頃に日本に着いて、夜が明ければ仕事だ。

 麻衣はぶんぶんと頭を振った。

 やめよう。日本に帰ること、もとい働くことは考えたくない。

 雑念を取り払うように頭を振り、ふと壁の案内看板へと目をやる。そこに馴染みのある、緑色の背景に女性のシンボルが描かれた日本でも人気のカフェを見つけた。

 そういえば、喉が渇いていたところだ。女同士の買い物は長期戦かつお喋りがつきもので、戦線離脱してから喉を潤していない。

 日本でもときどき行くカフェだ。きっとメニューも似ているんだろう。

 セブ島に来てから興味本位でカフェに入るものの、原色の飲み物や甘すぎる食べ物に冒険心が弱ってきたところだ。想像がつく雰囲気と味に安心感を覚え、一階にあるらしい店へと向かった。


 日本ではメッセージを書いてもらえることがあるけど、海外でもあるのかな。

 英語表記だが馴染みのあるメニューに目を通し、注文の列に並ぶ。歩き回って疲れたことだし、甘い飲み物にしようとカフェラテの文字に目を付けた。

 そのときだった。


「あれ、おかしいな・・・」


 前方から呟く声が聞こえた。

耳が確実にそれを拾ったのは、セブ島では珍しく聞く母国語だったから。それから、どうしようもなく困った声色だったから、前方の様子を伺った。

 それを発したのは、麻衣の前に並んでいる同じ背丈ぐらいの少年だった。

 黒髪で肌は浅黒く日焼けしているが、話した言葉と顔立ちからして日本人だろう。その身長と、やや幼く見える顔立ちからして高校生ぐらいだろうか。


 少年は彼の頭の高さをも超えるほどの大きなバックパックを背負っており、レジの前でポケットを漁ったり、かがんだりするとともにバックパックも右往左往していた。


「足りない、しょうがないか」

「どうかしましたか」


 独り言を吐きレジ前から去ろうとする少年に思わず声をかけてしまったのは、彼が日本人だからだろうか。人見知りはしない方だが、こんなことを言い訳に考えてしまうほど見ず知らずの他人に話しかけるのは初めてだった。

 降りかかった声に、半歩進んだ少年が振り返る。声を掛けられたことと異国では聞きなれない日本語に驚いたのか、目を見張っていた。


「お金、足りなくて。まだあったと思ったんですけど」


 少年はばつが悪そうに、恥ずかしそうに呟いた。初対面の人間に持ち金が無いことを打ち明けさせるなど、どんな罰ゲームだろうか。少年は麻衣を伺っていた。


 麻衣はカウンターのレジ表示をちらりと見て、「よかったら使ってください」と財布から二枚の外国紙幣を出し、レジトレーに置いた。

 客を捌きたい店員の黒い目が一瞥し、レジを打つ。


「え、え、あの、」

「ペソ使い切りたかったからちょうどよかったんです。よかったら」


 もう一度声を掛ける。

 少年はそんなわけには、と呟きながらも後ろに並ぶ長蛇の列を見るなり顔色が変わった。この場はとりあえず受け取った方がいいと判断したらしい。


「すみません、後で必ず返します!」


 少年はそう言って頭を下げるなり、すぐさまドリンクの受け取り口へ向かった。


 カフェラテを注文し、受け取る麻衣を少年は律義にも待っていた。


「すみません、お金ありがとうございます。すぐにATMで降ろしてくるので」


 少年はまた大きく頭を下げる。その動きに合わせて、背負っているバックパックが麻衣の顔面まで迫っていた。


「本当にいいんです。明日日本に帰るんですけど、張り切って換金したはいいものの余りそうだったので」

「いえ、そういうわけにはいきません。待っててください、すぐそこにATMがあったはずなので・・・」


 少年は今にも走り出しそうな勢いだった。麻衣の言い分は本当で、買い物用にたくさん換金したものの、めぼしい(自分への)ブランド土産が見つからなかったのだ。

 だが少年はというとアイスコーヒーを片手に、「でも」「悪いので・・・」などと繰り返しながら、時折動かす体に合わせて大きなバックパックが踊っている。

 通路を通る他の客にぶつかりそうになり、肝が冷える場面もあった。


 席を見渡すと、ちょうど四人掛けのテーブルが空いている。


「あの、とりあえず座りましょう。荷物も重そうですし」


 移動した四人掛けのテーブルは、片方がソファでもう片方に椅子が二脚置かれていた。荷物が大きいからと少年にソファ側を勧めたが、少年はそれを頑なに拒んだので麻衣がソファに腰掛けた。

 ソファは麻衣の体を包み込むようにずっしりと沈み、その沈みに体が喜ぶ。先ほどまでベンチに座っていたとはいえ、歩き回った体は疲れていたらしい。

 向かいの少年は背負っていたバックパックを隣の椅子に置き、首を回したり肩をこきこきと鳴らしている。やはり相当重かったのだろう。


 こうして改めて少年と対面すると、異様な空間だ。初対面の人と茶をするなど初めてで、それも声を掛けたのは自分からだ。初めましてで話に花を咲かせられるほど、コミュニケーションに自信はない。

 時刻は十五時十分。友人の買い物が終わるまで、ゆうに一時間はあるだろう。

 何を話そう。迷った麻衣は、とりあえず買い物中の友人に連絡することにした。メッセージアプリを起動し、一階のカフェで待っているとメッセージを送った。


「もしかして、連れの方いましたか?」


 少年がアプリ画面に気付いたようだ。


「友人と来てるんですけど、買い物してるので大丈夫です。私は待ちくたびれていたところで・・・」


 携帯を閉じ、少年のバックパックに目線を移す。椅子に置いているそれは少年とほぼ同じ背丈になっており、人間がもう一人座っているかのようだった。


「それにしても、すごい荷物ですね」

「旅の荷物が全部入っているので」


 少年がバックパックをぽんぽんと叩く。それは愛着を感じる仕草だった。


「セブ島を旅行してるんですか?」

「今はそうなんですけど・・・これから、世界を周ろうと思ってて」


 その言葉から、ようやく少年の全体像を捉えた。

 乾きやすいメッシュ素材の半袖シャツに、ハーフパンツ。屋外の部活でもしているのかと思うほど、黒く日焼けした肌。それに七十リットルの容量はあるだろう大きなバックパック。

自分のようなリゾート旅行者ではないその風貌に、ある言葉が思い当たった。


「もしかして、バックパッカーってやつですか?」

「そういうやつです」


 麻衣は言葉にならない、はあという感嘆の息を漏らした。


 旅行先でときどき見かけることがあった。身軽な服装に、大きなバックパックを背負った外国人たち。日本の観光地で見かけることが多いので、日本人のバックパッカーは見たことがなかった。


「あの、日本人ですよね?」

「そうです。日本人ですよね?」

「はい」


 互いの国籍を確認するのは異国ならではの一興だ。最近は日本語が上手いアジア人も珍しくないので、同郷とわかるとどこか安心する。

 変な会話になってしまったことに、ふっと笑みがこぼれた。少年もそれにつられて安心したような微笑みを浮かべた。


 可愛い。少年の笑顔を見て、麻衣はそう思った。

 ぱっちりとしたアーモンド型の目が三日月のように弧を描いている。顎には似つかわしくない髭が少しだけ生えていて、彼のバックパッカーらしさを後押ししていた。


「あの・・・若く見えますけど、おいくつですか?学生さん?」

「今、大学三年生です。でも大学は・・・世界を周るために、休学しました」

「大学三年生っ・・・?!」


 麻衣の身長は日本人女性の平均そのもので、その背丈と並ぶということは少年の身長は割と低い部類になる。その身長と、幼い顔立ちからして高校生ぐらいだと思っていたから驚いた。少年と呼ぶには失礼な年齢だ。

 麻衣の驚きに少年、ではなく青年は首を傾げる。


「あ、いえ。若いなと思って。その年で、すごいですね」


 実際、若いのにすごいと思ったのは事実だ。


「いえ・・・あなたは・・・あの、名前を聞いてもいいですか」

「あ、佐倉麻衣と申します」

「僕はしゅんといいます」


 名乗りあって、互いにぺこりとお辞儀をした。

 下げていた顔を上げ、目線が合うと同時にふわりと笑った。おそらく、こういう日本人の感覚は互いに久しぶりだ。


「麻衣さんはおいくつですか?」

「社会人三年目で、二十五になったところです」

「セブ島へは旅行ですか?」

「そうです。普通に、友達と海外旅行で」


 ・・・・・

 突然、会話に困った。

 何となく、二人同時にアイスコーヒーとカフェオレをすする。こんなところは感覚が合うのに、話は続かない。

 やはり初対面では無理があったか、と麻衣が次の話題に考えを巡らせていたところに、瞬が静かに口を開いた。


「日本を出発して、最初にセブ島に来たんです。英会話を勉強してから旅立つ人が多いって聞いたので。あとセブ島は英語留学が盛んだってことも聞いたので、僕もならってそうしました。今日英語スクールを卒業したばかりなんですけど・・・最後に有名なこのモールに来てみようと思ったら、さっきのとおりです。本当、すみませんでした」


 瞬は恥ずかしそうに頭を下げた。よほど先ほどのことを気にしているようだ。


「いえ、全然。気にしないでください」

「あ、お金!すみません、今降ろしてきますね!」

「いや、お金は本当にいいんです!」


 今にも椅子から飛び上がりそうな瞬を座らせる。


「それより、英語は話せるようになったんですか?」

「うーん、一ヶ月いたんですけどペラペラまでは・・・日常会話なら何とかってところです。ティーチャーに旅先で使える英会話を中心に習ったのでそれと・・・あとはコミュニケーションで何とかします!」


 情けない表情から一転、拳を胸に当てた瞬が頼もしく見えた。

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