2-1



 目覚ましをかけなくても自然と目が覚めるようになったのは、社会に出てからだったろうか。


 社会人三年目ともなると、習慣が身に付いてくるのか朝寝坊もしなくなった。旅先では気持ちがはやっているようで、一応アラームをセットするものの、必ずと言っていいほど早くに目が覚める。

 ベッドに入ったまま時計を目の隅で見ると、やはりセットした時間よりも前だ。早起きは三文の徳と言うが、することもない朝はゆっくり寝ていたかったという気持ちの方が強い。


 携帯に手を伸ばし、SNSや最新のニュースをチェックする。日本を五日間離れていたが、今日も母国は平和なようだ。気になる天気も安泰で、飛行機の遅れは無いだろう。

 夜のフライトまでの間は、急遽ボランティアに行くことになった。昨日のひょんな出会いから決まったことだ。


 どうしてこんなことに、と昨夜自問自答したり話の流れを振り返ったりしていたが、後悔はしていなかった。

 むしろとてもわくわくしていた。昨夜は遠足を楽しみにしている子どものように、心が躍ってすぐに眠りにつけなかった。

 瞬とはこのホテルの前で待ち合わせをしている。道すがら拾って行ってもらえるらしい。


 さて、今日はどんな服を着て行こうか。

 昨日までのリゾートとは一転し、今日は服選びに気を遣わなければならない。瞬には動きやすい服装で、と言われていた。スカートなんて以ての外だろう。

 カジュアルな服、持ってきてたかな。まだベッドに入ったまま、限られたスーツケースの中の服を組み合わせ、頭の中で試行錯誤する。


 昨日麻衣が予想したとおり、遥がホテルに帰ってくることはなかった。麻衣がホテルに帰るとすでに遥の荷物がなくなっていたので、きっとデートを終えた後に空港に直行するのだろう。

 普通であれば、友人の荷物がなくなっていたり帰りがなければ大騒ぎするのかもしれない。だが、ともに旅行を繰り返している麻衣には慣れっこだった。

 ああ、またか。ついにそれだけの感想になってしまった。これは旅行での彼女の一番の醍醐味なので、誰も止めることはできない。

 カーテンの隙間から入ってくる光で目が冴えてくると、そろそろ起きようかなとふかふかのベッドの上で伸びをした。


 今日で豪華な朝食バイキングともお別れだ。最終日は、連日食べてきた中で気に入ったメニューだらけにしよう。

 サラダのドレッシングは胡麻が一番美味しかったし、パンはクロワッサンを少しトーストするとカリカリに焼けて焼き立てを食べているようだった。

 そして一番の悩みどころのスクランブルエッグの具材は、定番のチーズは欠かせないし、ツナもいい塩気が混ざって美味しかった。でも、今日はチーズにトマトを合わせようか。酸味をプラスして爽やかな気持ちで出かけたい気分だ。

 オープンキッチンの前で、たっぷりのバターと卵液がフライパンの上で混ざり合うのを想像して、腹の音がぐうと鳴った。



「おはようございます」

「おはよう。今日はよろしくお願いします」


 ホテルの前に、瞬を乗せたトライシクルが迎えに来ていた。

 トライシクルとは、バイクにサイドカーが付いたものだ。バイクにはドライバーが乗っているので、今日はサイドカーに瞬と二人で乗るが、五人ほど乗っているトライシクルも見かけたことがある。


「昨日とは雰囲気が違いますね」


 瞬が麻衣をまじまじと見つめている。

 きっと服装のことを言っているのだろう。結局、上は半袖のカットソーにUVカット加工が施されたパーカーを合わせ、下はパンツとスニーカーにした。昨日はロングワンピースを着ていたので、雰囲気はがらりと変わったように見えるのかもしれない。

 瞬は今日も半袖にハーフパンツと、ラフな服装だ。


「その施設までどのくらいかかるの?」

「十分ちょっとです」


 麻衣がサイドカーに乗り、瞬がドライバーに声を掛けるとトライシクルが軽快に走り出した。昨日に引き続き今日も酷い暑さなので、流れる風が心地いい。

 トライシクルで十分ということは、近い距離にボランティア施設があるのだろう。そしてきっと、その近くに貧困街も。空港とホテルとビーチ、ショッピングモールばかりを行き来していた麻衣は、何も知らない自分が恥ずかしくなった。


 走り進みいくつかの角を曲がると、いつの間にか高層ビルは消えていた。それまで高層ビルの群れに隠されていたのかと思うほど、背の低い二階建てや一階建ての木造の建物ばかりになった。

 木造といっても、日本で見るようなしっかりとした造りの建物ではない。木の板を張り付けただけのような縁側が付いていたり、いまにもバランスを崩しそうな建物ばかりだった。


「ん、」


 突然、変な臭いが鼻を掠める。麻衣は思わず鼻を覆った。


「この辺にゴミ山があって、その臭いです」


 瞬は慣れているように淡々と説明した。生ゴミが薄くなって漂っているような、そんな臭いだった。

 そういえば昨日、ゴミ山のゴミを片付けたとも言ってたっけ。ゴミ山が目に見えていないのにこの臭いならば、実際に片付けることを想像すると苦々しい表情になった。


 しばらくトライシクルに乗っていると、周りから建物が消え、辺りに草木が広がる平坦な道が現れた。

 その先に一つの建物が見える。瞬がドライバーに声を掛け、「あれです」と麻衣に耳打ちした。

 心臓に、悪かった。

 風の音で声が聞こえにくいと思ったのだろうが、突然寄せられた顔に心臓が飛び跳ねそうになったのは内緒だ。


 視線の先には先ほど見てきた建物よりも幾分かしっかりした、クリーム色のレンガ造りの民家があった。トライシクルが民家の前に止まり、瞬が運賃を払うとそれに向かって歩き出した。ドアは開けっ放しになっている。


「おはようございまーす!」


 民家に入って瞬が挨拶すると、中にいた人々が振り返り挨拶を交わした。慣れているその行動に、何度もここに通っている様子が伺える。

 麻衣もおはようございます、と呟き瞬の後に続いた。

 ここ、セブ島だよね。日本語の挨拶でいいのかな、私が入ってきて不審に思われないかな、とたくさんの疑問が頭の中を駆け巡るが、中にいる人々は挨拶を済ませるとすぐさま自分の作業に戻っていった。


 民家の中は普通の一軒家のようだった。

 玄関を上がるとリビングがあり、大きな楕円形のテーブルが幅を利かせている。そこに女性たちが座り、縫物をしていた。

 瞬はその奥にあるキッチンに向かい、ふくよかな女性に声を掛けた。


「おはよう、マザー」

「瞬!よく来たわね。いらっしゃい。今日で最後なんて、寂しいわ」


 マザーと呼ばれた女性はピンク色のエプロンを掛けており、日本人だった。先ほどテーブルで縫物をしていた女性たちは現地の人だ。

 年齢は四十代ぐらいだろうか。向けられた上品な笑みは、聖母を思わせるほどの眩しさだった。


「僕もだよ。ときどき連絡するね」

「きっとよ。無事を祈ってるわ」


 瞬とマザーは早くから別れを惜しんでいるようで、ハグを交わしている。

 随分と親しくなったんだな、と麻衣はその様子に感心していた。


「・・・・あら、そちらの方は?」

「今日手伝いに来てくれた麻衣さんだよ」

「麻衣です。よろしくお願いします」


 頭を下げると、マザーは微笑みを絶やさず歓迎してくれた。


「ようこそ、いらっしゃい。瞬のスクールの方?」

「ううん、麻衣さんは旅行に来てるんだ。僕がここの話をしたら、来たいって言ってくれたんだよ」


 瞬が説明すると、マザーの目は光り輝きだした。


「まあまあ!何て喜ばしいことなの!活動に興味を持ってくれるなんて!」

「いえ、そんな私は・・・・」


 暇だったから来た、とはとても言えない雰囲気になってしまった。たじたじと、瞬に助けを求めるも瞬はにこにこしたままだ。


「何をしてもらおうかしら。縫物に、水汲みに・・・ああ、重いから水汲みはさせない方がいいわね」

「ジェーンと組ませるのはどうかな。日本語喋れたよね」

「それがいいわ!ジェーン、ちょっといらっしゃい」


 キッチンの奥からぱたぱたと、フィリピン人の女性が駆けてくる。ジェーンと呼ばれた女性はエプロンを着けており、頭に三角巾をかぶっていた。この文化はマザーが教えたのだろうか。


「麻衣さんはジェーンのアシスタントになってもらいましょう。少しだけど、日本語が話せるから。ジェーン、よろしくね」

「ヨロシク」

「よろしくお願いします」

「コッチダヨ」


 ジェーンに連れられ、麻衣はキッチンの奥にある調理台へと入って行った。

 大人が四人ほど並べるような広い調理台に入ると、ジェーンはサンドイッチを作っていた。これを手伝うということだろうか。


「コレ、コドモノオベントウ」

「お弁当?」

「コドモ、ガッコウアル。デモゴハンタベルトコナイ」


 ジェーンはそう言って、サンドイッチのためのパンをナイフで切り始めた。

 子どもって、誰の子どもなんだろう。ご飯を食べるところがないのは、食べ物がないって意味なのかな。多くの疑問が浮かぶが、要はサンドイッチを作ればいいということだろう。ジェーンを見習い、淡々とこなすことにした。

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