3-1
恵比寿のオフィス街でランチを食べていると、働いていることを実感する。
昼どきに一斉にオフィスビルから流れ出てくるサラリーマンやOLは、束の間の休息に喜んでいるように見える。
その様子に溶け込んでいる自分も、その一員であることを認識できる時間だ。
残っている蕎麦を束ねて、つるりと飲み込む。時計を見ると、店に来てからまだ二十分も経っていない。これなら蕎麦湯を飲む時間はありそうだ、と麻衣は店員に声を掛けた。
セブ島から帰国した麻衣は、日本食を楽しんでいた。
海外の食事は最初は美味しいと感じるが、大体が油っぽい。だんだんと胃に油が溜まっていく感覚になり、日本食が恋しくなっていくものだ。
もれなく麻衣も日本食が恋しくなり、いつもなら恵比寿ガーデンプレイスや近くの界隈で洒落た洋食なんかをランチにすることが多いのだが、帰国してからは蕎麦やうどんなどのさっぱりとしたランチ続きだ。
やっと胃が戻ってきたかな、と腹をさする。帰国してから今日までの一週間、同僚からのランチの誘いを断り続けてきた。そろそろ一緒しても大丈夫だろう。
温かい蕎麦湯が体に染みわたり、ほうっと一息ついた。
携帯を取り出し、チェックするといくつかのお知らせメールやメッセージが届いている。その中の一つに目が留まり、心が跳ねた。
【タイに着きました!こっちはとても暑いです】
思わず顔が綻んだ。それはセブ島で知り合った瞬からのメッセージだ。語尾には暑そうな絵文字が添えてある。
二人はボランティアを終えた後、お礼メッセージなどを送り合いながら連絡を重ね、今に至る。麻衣が日本に帰国したことの報告や瞬の滞在先の情報など、毎日少しずつやり取りを続けていた。
まだ連絡を取り始めてから一週間ほどだが、最近このやり取りが楽しくなっている自分がいることに気付いた。帰国してから日常に戻った麻衣にとって、瞬の旅の情報や写真を見ると気分が上がり、自分も瞬とともに旅をしている気分になるのだ。
「暑いから気を付けてね、と・・・」
タイは麻衣も訪れたことのある国の一つだ。海外旅行は遥の付き添いでついていくばかりだったのに、瞬と旅の情報を共有できるのは少し嬉しいものがあった。トラブルメーカーだが、海外旅行好きの友人に感謝だ。
時計を見るとオフィスに戻る頃合いだ。蕎麦湯を飲み干し、会計を済ませて店を出た。
財布と携帯だけが入っているミニバッグを片手にオフィスへ戻る。大型連休後の日本はすっかり夏を目指していて、春にしては暑いのではと思うほどの汗ばむ気温だった。
目の先には恵比寿のシンボルともいえる、恵比寿ガーデンプレイスタワーがそびえ立っていた。
日本はどこも綺麗だと、美しい外観が連なるこの風景を見て思う。海外では、観光地から外れた場所や公衆トイレなどの施設は大体が汚い。それが嫌で、初めてアジア旅行を経験してからは遥の誘いを断ることもあった。毎回なし崩しに連れていかれるものだから、しだいにこういうものかと諦め今では慣れたものの、日本に戻ると毎度ほっとするところだ。
「佐倉さん、今日はどこ行ったの?」
「今日は
オフィスの自席に戻った麻衣に、同僚の多田ひろ子が駆け寄る。多田は麻衣を含めた四人でよくランチに出かける、仲良しメンバーの一人だ。
「あそこ、いいよね。私たちはガレット食べたの。蕎麦粉繋がりね」
「ふふ、本当。明日からは一緒に食べたいな」
「もうお腹は大丈夫なの?」
「ばっちり」
調子が戻った胃の場所を、ぽんぽんと叩いてみせた。
「じゃあタイ料理なんていいかな、ふふっ」
油っこい、香辛料がたっぷり入ったアジア料理は止めてほしいと思っていた矢先、多田は意地悪そうに笑って自席へ戻っていった。そこは、麻衣のいる島から三つほど離れた島の総務部の席だ。
よくランチをともにする多田ともう二人の同僚とは、総務部で同じ仕事をするにつれ仲良くなった。麻衣が総務部の仕事に慣れてきた社会人三年目のこの春、人事異動は起こった。
午前中から開きっぱなしのパソコン画面に目をやる。その中の企画書は手つかずだ。見よう見まねで企画書など書けるわけがない。
前年踏襲が前提だった、総務部の感覚で仕事をするにも限界があった。だが何から何まで質問するには抵抗があるーーそれは向かいのデスクの先輩、
「戻りました」
そう麻衣が声を掛けるも、小浦は何も言わない。いつものことだった。
ふと、自分のデスクを見て気付く。昼食に出る前、顧客に送ろうと思っていた封筒がなくなっていた。プレリリース広告の他に同封するものはないか確認してから出そうとしていたのに、どこにいってしまったのだろう。
「封筒出しといた」
麻衣が封筒を探していることに気付いたのか、小浦が口を挟む。
「送り状も何もなかったから、作って出しといた」
「あ・・・ありがとうございます」
それは、同封するものがあれば送り状の内容が変わるので作っていなかったのだが、という言葉を抑え、角が立たないように聞いた。
「あの、同封するものはないんでしょうか」
「ないんじゃね?知らないけど」
小浦はどうでもよさそうに携帯電話をいじっている。昼間はいつもそうだ。
「広告は時間が命だ、そのときはまた送ればいい。企画やるなら覚えとけ」
そう言い、日課である食後のコーヒーを淹れに立つ。これが噂に聞いていた企画のエース、小浦だった。
この春、麻衣は慣れ親しんだ総務部を離れ企画部へ異動になった。
四月は引継書類の整理や顧客への挨拶周りであっという間に過ぎ去った。大型連休が明けて日本に戻ると、それからが仕事の本番だ。
いいなあ、とうらめしそうに多田たちのいる総務部の島を見る。眠気覚ましのミルクティを飲んでいるさまは、お気楽な様子に見えた。
他部署への異動はスキルアップに必要だろうが、事務方への異動だろうと思っていた期待に裏切られた。麻衣が考えていた企画部のイメージは、どちらかというと体育会系だ。
「まだ、仕事慣れないかなあ?」
「っはい、」
振り返ると部長の曽根崎がいた。大福もちがとろけたようなほっぺたをしていて、柔和な笑みを浮かべている。
「なかなか、いい企画が思いつかなくて・・・」
「うんうん、初めてじゃあねえ。大丈夫よお、ゆっくりで」
企画部は時間感覚に忙しない人が多い中、曽根崎のような人は珍しい。
「困ったら、小浦くんに聞くといいよお。彼、スーパースターだから」
「はあ・・・」
ちらりと、コーヒーを淹れて帰ってきた小浦を見る。
「・・・何か」
「あ、いえ」
「小浦くん、佐倉さんのことよく見てあげてねえ。佐倉さんもいずれは企画部の未来を担うんだから」
いえ、そんな、私は。なんて口から出かかりそうになった。けれどそんなことを言ってしまえば小浦から睨まれそうで、口をつぐんだ。
「まあ、やる気があるなら」
「何言ってるのお。やる気満々だよ、ねえ佐倉さん」
そのまるまるとしたほっぺたをつり上げて向けられた笑顔に、曖昧に笑って首をすくめることしかできなかった。
見透かされている。小浦の言葉を聞いてそう思った。
「つっかれたあ」
慣れない仕事は気力と体力の消耗が激しい。総務部の頃より残業時間が減ったというのに、終業後はへとへとだ。
今日は早く寝ようと、帰り際にスーパーで総菜を買って手早く夕飯を済ませた。料理の時間はなくしても、お風呂には入りたい。自分を癒す時間は大事だと、湯舟にお気に入りのバスオイルを垂らしてゆっくりと浸かった。
じっと体育座りをして鼻の頭まで湯に浸けると、体がじわりとほどけていく。けれど、考えるのは仕事のことばかりだった。
企画部なんて、またすぐに異動でいなくなる。
昼間、この気持ちを小浦に見透かされたような気がした。
小浦は三年ほど前から企画部にいるエースだ。総務部にいた麻衣にもエースたる噂は届いていた。斬新なアイディアを商品にしたとか、その商品が何万ダウンロードを突破したとか、セールスプロモーションが上手いとか。詳しい内容はわからないがそんな感じだ。
実際に一緒に働いてみて、すごいのはわかる。けれど、怖い。
昼間はつっけんどんな答え方だった。一つ聞けば一つの答えと、十の釘が返ってくる。そのダメージが少しずつ蓄積され、確実に麻衣に畏怖の気持ちを植え付けていた。
四月からその調子で、すっかり麻衣は小浦の態度に怖気づいてしまった。一番年齢の近い先輩だというのに、壁は厚くなるばかりだ。お菓子を食べて雑談しながら仕事をしていた総務部の頃が懐かしい。
これからどうしていけばいいんだろう。企画のいろはもわからない麻衣にとって、道が閉ざされた気分だった。
ふう、とため息を吐きジップロックに包んだ携帯をチェックする。SNSでは遥が合コンの乾杯写真を上げていた。帰国してからも盛んにやっているらしい。
メッセージアプリを開くと、瞬からのメッセージが来ていた。
【夕飯はガパオライスを食べました。麻衣さんはもうご飯食べましたか?】
そのメッセージの後には、ガパオライスとそれを食べる瞬の写真があった。いったい誰に撮ってもらったんだろう。
可愛い。大口を開けている子どものような瞬の姿に、思わず口元が緩む。
ああ、この感覚。初めて会ったときと同じだ。
【ガパオライス美味しそう。お腹が落ち着いて、やっと美味しそうに見えるようになったよ。今日は疲れてお惣菜食べちゃった】
語尾には泣いている絵文字を付けた。自炊が多かった麻衣にとって、少しの罪悪感が芽生えたのは本当だ。
もうホテルで落ち着いている時間なのか、返事はすぐに来た。
【お腹が元気になってよかったです。仕事で疲れたんですか? そういう日も大事だと思います。ゆっくり休んでくださいね】
頑なな心が、じわりとほころんだ。
つい先週のことなのに、瞬と会ったことがもうずっと前のようだった。
あの笑顔、また見たいなあ。
もやもやしていた気持ちは、すっかりどこかへ飛んでいってしまった。
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