第9話

 七草の日。

 凌は再び客に呼び出された。

 ようやく、病院の一部の施行を取りかかれる段取りがつき、下見に来ていた男を、社長が直々に呼び出したのだ。

「三分以内に来い」

「無茶言うな。事務所まで自動車で五十分の距離だぞ」

「その気概で、戻って来いと言ってるんだっ」

 妙に慌てた声に、大体想像はついたが、戻って来客室で待つ客を見て、納得した。

 長く待たされたために、動くことにも飽きたのか、その若者は大人しくソファに腰かけていた。

 ノックして戸を開けたのだが、反応が鈍い。

 振り返った若者は、凌を見て立ち上がり、一礼した。

「すまないな、待たせて」

「いえ。直接でなくて大丈夫なのなら、松本さんに手渡してもらおうと思っていたんですが、呼び出してくれると言われましたので、待っていました。現場が遠いとは聞いていました。すみません、私事で呼び出すことになって」

「仕事初めは、まだ先か?」

 妙に気楽な気配に、男も気楽に問うと、セイは天井を仰いだ。

「年明け前の仕事のやり残しを、さっきようやく終わらせたところです」

 同じように天井を仰ぎ、凌はなるほどと返し、問いかけた。

「病院での森岡家の所業は、公にできるのか?」

「それを調べる為に、高野さん達が現場に入ったと聞きましたが」

 若者の指摘に、男は頷いた。

 精神科があった病棟とその他、係わりがありそうな部分を、二日ほど前から秘かに調べる刑事たちの姿がある。

 公にできるかの判断がつかず、未だ非公式の捜査の為、松本建設の従業員は、捜査の邪魔をしない程度に自然に、作業を続けていた。

「しかし、その連中も酷な事をしたな。入院していた子供の一部を、保護者に送りつけてたんだってな」

「ええ」

 セイは、何杯目かのコーヒーのカップを見下ろしながら、静かに言った。

「それを送られた方々で、それに気づいた、もしくは不審に思った家族は、ごく一部でした。そのせいで、この件は難航しているようです」

 それ以外は、入院していたわが子だと気づかず、放置かゴミとして捨ててしまっていた。

 行方が分からない子供の体の一部を、知らぬままに捨ててしまったなど、信じたくないだろう。

「捜査協力を拒否する遺族も、多いようです」

 事件が明るみに出て、解決した後は、必ず遺族のその行為が問題視される。

「……送られてくる一部が、喉仏じゃあ、気づかないのも無理はないんですけどね」

 高野たちの目的は、それ以外の痕跡と被害者の遺留品を探す事、だ。

「意外に痕跡は、生々しく残っていたから、探せばあるだろう」

 その現場を見てきた凌はそう言って頷き、正面に座る若者を見つめた。

 見返して首を傾げ、思い出したように胸ポケットを探る。

「長くお借りしたままで、申し訳ありませんでした」

 テーブルに置かれたのは、小さな拳銃だった。

「……ここで出すか」

「ここ以外での、どこで返せと? どこで返しても、大騒ぎ確実です」

「それもそうか」

 頷いた凌も、胸ポケットを探った。

「質交換、だな。役に立ったぞ。それと違って音がないから、使っても誰も気づかなかった」

 古谷家での一件以外でも、重宝していただけに惜しいが、自分の獲物が戻ってくるのなら、返すしかないと、男はそれをテーブルに置いた。

「……落としましたか? 私が?」

 それを凝視し、セイが静かに問う。

 手作り感があふれる巾着袋から覗く苦無の柄を、まじまじと見つめる若者に、凌はあっさりと否定した。

「オレもな、危ない綱を渡ってるんで、武器なしは心もとないんだ。代わりにお借りしていた」

「……」

 少しおどけた口調で言った男を見つめ、再びテーブルを見下ろした。

 何となく、二人とも黙り込む。

 何を話せばいいのか、思い浮かばなかった。

 凌が事務所に戻った時、松本は妙な笑顔で言った。

「じゃあ、後は頼むぞ。くれぐれも失礼のないようにな。オレは、出かけて来る」

「おい、誰に、何を聞いた?」

 思わず顔を険しくする男に構わず、社長は出かけて行ってしまった。

「……出かけると言ったら、すぐについて来ようとする奴がいるのに、目的地を聞いた途端、引かれました。あなた、随分恐れられてるんじゃあ?」

「いや、違うだろう」

 恐れているのなら、喧嘩を売ろうとも思うまい。

 今回は、どう考えても遠慮、の方だ。

 だが、それは余計なお節介と言うものだった。

 社交的とは言い難い二人は、意外に重くなったこの対面に、戸惑っている。

 何を切り出すか迷った挙句、当たり障りのない一緒に係った事件の話をする事となる。

「篠原の社長が、秘かに学生を雇って、街で何かやってたってな?」

 簡単に言うと、自警団のようなものだと、篠原は笑っていたが、相当乱暴な子供たちの様だ。

「お蔭で、非行少年が大幅に減ったと、あの辺りの少年課の人も言っていました。今後も、続行予定だと聞いています」

「相手が質悪いと、逆に訴えられるかもしれんぞ。この辺りは、そこまで悪い奴はもういないが」

 幅を広げるとしたら、そう言う危険が出て来る。

 森岡満が、力のない子供をあんな方法で襲うまでに、追い詰めてしまったと言及されかねない事態だ。

「それは、順番が逆なんですが、共犯の被疑者たちはそう言う話にしたがるでしょう」

「わざわざ獲物を物色しに、遠い街に繰り出す時点で、計画性がある。誰が相手での犯行であれ、結果は同じだったろうな。ま、そう言う足掻きをさせないために、あの弁護士を使うんだな?」

 最近は、テレビのニュースにも、よく映る弁護士だ。

 森岡一家の顧問として、無罪を主張する立場に落ち着いている。

 架空の個人情報なので、どんな誹謗中傷もどこ吹く風で、始終一貫した主張をする予定だ。

「その方が、世間的にも注目されるそうです。重い刑を目論むなら、世論を味方にするのが一番だと、現役の弁護士の方が、アドバイスを下さいました」

 裁判官が世論を覆す判決を下すのは、家庭内での性的虐待や強姦罪位だと、その弁護士は怖い顔で言い切った。

 凌が唸る。

「家庭内での性的虐待なら、検査すれば分かるはずだが、明確な証拠があっても、無罪になることがあるからな。この辺りがまだ、日本は古い」

 強姦罪もだ。

 同意あるなしの判断が、罪を決める。

 が、酒が入った状態での同意まで、判断基準に入るから、事態はややこしい事になる。

「日本人は基本的に、普段真面目で固い分、酒が入るとタガが外れてしまうようです。女性でも、酒を飲み過ぎるくらいに気を許すのが、早い」

 普段は遠慮できるのに、酒の席では出来ないのも、空気が緩み過ぎている状態だからだろう。

「昔、誰かが言っていたんですが、普段は只の同僚として、全く関心のない女の人でも、ああいう場では、異性に見えてしまうんだそうです」

 相手の方もそうだったらしく、随分馴れ馴れしくされたらしい。

 酒の席は恐ろしいと、その男はしみじみと言いながら、完全に緩んだ空気で酒を飲んでいた。

 盆や年末年始に集まる面々は、その緩む空気に慣れているから、その男は適当に女をあしらって済ませたらしい。

 いや、その女性の方は、タガが外れて女同士のノリになっただけだよと笑い、男にその対応で正解と褒めたのは、雅だ。

 男と女の視点が、その辺りは大きくずれてしまうようだ。

 そういう男としての考え方や、女が好意を持って酒の勢いを借りて動くと、痛い目を見るのがその相手の方、というのが今の日本の裁判だと、検察官もしんみりと頷いた。

 オレたちはここで慣らされているから、相手をそう言う泣かせ方させないと、男も女も真面目に力説していたのを、何故か思い出した。

 確か、塚本家の先代が最前線で働いていた頃だから、数年前の話だ。

 聞き流していたはずの話が、何故か鮮明に思い出されセイが首を傾げる前で、凌が難しい顔で唸った。

「酒が理性を壊すのは、何も日本だけの話ではないが、その辺りの話はオレには説明できんな」

 昔の事を考えると、女も勢いをつけるために、酒を利用する様だとは分かるがと続ける男に、若者はそっと謝った。

「……すみません。あなたがこんなに近い場所にいるとは、気づかなかったんです」

 突然の謝罪に目を見張り、凌が声を上げた。

「お前さんが謝る話じゃないだろう。オレとしては、気に入った奴が、偶々この地に根を張っていたと言うだけだ」

「しかし、この地には……」

 妙に言いにくそうに、若者は言葉を濁した。

 側近たちが見たら、目を剝くこと請け合いの仕草だが、男は目を見張ったままその顔を見つめ、思い当たった。

「まさか、お前さんの母親たちの事か? お前さんも、奴らがこの地にいるのを、知っていたのか?」

「あの、知っている以前に……」

 更に言葉を濁されて首を傾げ、再び思い当たった。

「まさか、あいつらが、第二の人生を歩む機会を得たのは、お前さんが……」

「すみません」

 深々と頭を下げられ、兄が濁した話も腑に落ちた。

 自分の代わりに投入された、一族の厄介者殲滅の実行犯達。

 なぜ、あの狼が投入される事となったのか。

 第二の人生を与える代わりに、戦力に加わったとあの狼本人は言っていたが、それはクリスが作り上げた言い訳だったのだろう。

 実際は、もう一人の実行犯の報酬として、あの狼夫婦を蘇らせた。

 それを隠すために、クリスはあの時、狼にも声をかけたのだろう。

 そこまで考えてから、凌は深々と溜息を吐いた。

 余りに深い溜息に顔を上げた若者は、不安になる。

 この人が怒る逆鱗が何処なのか、どうも分かり辛い。

 正直に謝ったのだが、それが良かったのか判断がつかなかった。

「……お前さんにとって、あの二人はそれほど、大事な存在だったんだな」

 しばらくして吐き出した男の言葉に、セイはついすぐ答えてしまった。

「いえ、それは違います」

「ん?」

 怪訝な顔をされてしまい、若者は内心焦りながら続けた。

「本当は、別な人を指定したんです。何人かの候補も並べたんですが、どれも、却下されました」

 一度、世を去った身近な者を起こすのは、躊躇いがあった。

 が、世を去ってしまった相手に未練を残す者なら、周囲に大勢いるのだ。

 身近の者の未練の元を、次々と上げていったのだが、数人は欠片が見つけられないと、数人はその必要がないと却下された。

 それならと、最後にあの夫婦の名を上げたのだ。

「あの二人になら、憎まれているならまだしも、こちらに頓着することはないと、思っていましたので、まさか、こんな近くに来られるとは……」

 娘が家庭を持ったのが、余程心配だったらしいと言った若者を、凌はまじまじと見つめた。

「お前さん、あの二人が、嫌いだったのか?」

「いいえ。逆でしょう、どちらかというと」

 意外な答えに、男は目を見張りっぱなしだ。

 何にそんなに驚いているのかと、不思議に思いながらもセイは、説明した。

「昔、あの二人の娘が生まれた時、説明を受けたんですが、ウル小父さんはヒトツブダネの一族だそうですね」

 説明を受けたが、分からない言葉だった。

 植物と同じような物かと、訳の分からない納得をして心に収めていたのだが、説明をする立場だとやはりその不明な言葉が、ぎこちなくなる。

「どういう仕組みかは知らないですけど、二人の間には子供が出来なかったから、あなたの子供の私を、育てる事にしたと」

 間違いではないが、何やら引っ掛かる言い方だと凌は唸るが、黙って話を促した。

「その子供に迷惑を被られた挙句、死ぬことになったんですから、恨まれても仕方ないんです」

「……そう、なのか?」

 聞いた話とは、違う。

 男は、再会した時のライラの言葉を思い出した。

 刑の途中でウルが救出した子供を逃がすため、男が助け出すまで囮として逃げ回り、怒り狂った民衆の的となっていた女は、凌が民衆を黙らせた時には、殆ど動けない程に衰弱していた。

 自分が悪いのだと、ウルも子供も悪くないのだと、ライラは苦しい息の中で訴えた。

「自分が幸せ過ぎて気を抜いてしまい、村の男どもに目をつけられたのだと、そう言っていたが」

「あの人は、人間を触っただけで、粉々になんかできません」

 最もそんな事、それまではセイにも出来ないと思っていた。

 だから、これ以上あの夫婦の元にいてはいけないと、そう思った。

 あくまでもあれは、幼かった若者の自業自得で、それにあの夫婦を巻き込んでしまったのだ。

「裁判の前に、腕を切り落とされたんで、流石にその時に、死ぬかなと思ったんですが……」

 気絶して次に気が付いた時には、その血は止まっていた。

 そして、更なる怯えた目と、怒りの目を浴びる事になった。

「お前さん、その時まだ、五六才の子供だっただろう?」

 自嘲気味に笑う若者に、男は静かに問う。

 その声音に目を見開き、セイは頷いた。

「物心はついていました。だから、あの目には耐えられなかった」

 思えば、あの頃から少し、狂い始めていたのかもしれないと、若者は思い当たった。

 刑場の高台で、火をつけられる瞬間まで、恐怖で泣き叫ぶ事無く空を見上げる子供は、傍から見ると不気味であっただろう。

 あの時、流れる雲が羨ましいと感じ、燃えたら同じように煙となって雲に混じれるかなと、考えていただけなのだが。

「そうか……」

 妙に低い声だ。

 顔を伏せた男に呼び掛けようとして、セイは躊躇った。

 まだ、この人をどう呼ぶか、迷っている。

 自分の父親であることは間違いないが、突然そう呼びかけるのは、失礼に当たるのではと考えてしまうのだ。

 迷ってただ黙っている若者の前で、凌はゆっくりと顔を上げたが、その表情は歪んでいた。

 驚くセイに、男は深々と頭を下げた。

「謝るのは、オレの方だ。すまなかった」

「は? 何で……」

「そんな大変な目に合った後、あんな連中に、捕まったんだろう?」

 低く言う男の言葉で、長い沈黙の意味に気付いた。

 余計な事まで、察せられたらしい。

 こう言う所は、血筋かも知れない。

 内心溜息を吐きながら、セイは眉を寄せた。

「それは、謝られる話では……」

「エンの言う通りだな。諦めるのが、早すぎた」

 いや、あの老婆の死因に、疑問を抱くべきだった。

 家から焼きだされた老婆の遺体は、完全に煤になっていた。

 そんな焼け方をするのは、あの火事では不自然だったのだ。

 老婆の体自体が、火元でない限り。

「近くの草原に弔って、その場を離れてしまった。足を延ばして、城下にでも話を聞きに行けば良かったんだ」

 そうすれば、何か気づけたはずだ

 そうすれば、狂った隠し玉になど、ならなかったはずだと低い声で呟いた。

 そんな男に、セイは静かに返した。

「過ぎた事です」

 短く言ってから、若者は微笑んだ。

「今度は、お礼を言わせてください。あなたが、お祖母さんを弔ってくれたんですね。私は、それが出来ずに時だけが、過ぎてしまっていました」

 祖父を弔いに祖母の埋葬先を探し、丁寧に弔われているのに気づいた。

 同じ場所に祖父を弔い、誰かは知らないが無縁仏であっただろうあの状態の祖母を、懇ろに弔ってくれた人に感謝していた。

「有難うございました」

 また深々と頭を下げられ、凌は天井を仰いだ。

「何で、そこで恨み言が出てこないんだ。積年の恨みを、ここで晴らす勢いで来られても、オレには文句は言えないんだぞ」

 嘆く男に困ってしまい、セイは苦笑してしまった。

「それは、仕方がないです。私は未だに、正気ではないようなので」

「ったく、この間の事と言い、調子が狂う。怪我の方は、本当に何ともないのか?」

「はい」

 即答され、凌は首を振った。

「短めの眠りで治ったのか。大した治癒力だな」

「……」

 今回のは違うと、セイは否定しようとして、思いとどまった。

 自分を過大評価してもらう気はないが、違うと答えてその奥の事情を聞きだされるのも、面倒だ。

 その判断が、一つの再会を遅らせる事になるのだが、若者は知る由もなかった。


 その訃報は、鏡月をしんみりとさせ、同時に安堵させた。

 あれから更に、十年だ。

 森岡一家の、日本中を驚きの渦に叩きこんだ事件が解決し、十年が瞬く間に過ぎていた。

 裁判も終え、首謀者の刑も執行された数か月後の、森岡浩司の訃報だった。

「間に合って、よかった」

 解決した時にも思ったが、今回街のテレビでそのニュースを知り、再びしみじみと思ってしまった。

 通夜が今日で、葬儀は明日。

 喪主は森岡涼子だ。

 葬儀に出るまでは考えないが、焼香だけでも行くかと悩む鏡月に、気楽に声をかけた男がいた。

「お、ここにいたのか。探したぞ」

 振り返って目を剝いた鏡月は、つい尋ねた。

「あんた、昼間っから歩き回ってるのか。いいのか、今日は?」

「ああ、向こうは今日、私情で休むことにした」

 気楽に答えたのは、銀髪の大男だ。

 数年前に再会した二人は、久し振りに昼間、鉢合わせしてしまったようだ。

「私情? 何事だ?」

「実は、森岡浩司氏が、亡くなられたらしい」

「ああ、さっきニュースの訃報で、言っていたな」

 頷いた鏡月に、凌はあっさりと言った。

「焼香を上げに行きたいんだ。一緒に行かないか?」

「本当に探してたのか。構わないが、あんたはあの人とは面識ないだろう?」

 意外な言葉に目を丸くした若者に、凌は曖昧に笑った。

「お前や蓮たちが、長く時間をかけた事件の当事者だろう? 一度会ってみたかったんだが、遅かったんだ。仕方ないから、遺影とご遺体を拝もうかと思ってな」

 何やら、らしくない。

 不審に思う鏡月から空を見上げ、しみじみと言った。

「しかし、あの件に、お前が係わっていたとはな。知った時は、どう言う風の吹き回しだったのかと、思ったもんだった」

「ああ……」

 その顔を何となく見上げながら、若者も言う。

「オレも、あんたがあの件に係っていると聞いた時は、頭を抱えたもんだった」

 セイの口止めも出来ない状態で、ひやひやした。

 そんな若者の言葉に、凌は小さく笑った。

「そんなに親しかったんだな、あの子と?」

「ああ。まあ、色々と、事情もあってな」

 今更、何を言ってるんだと眉を寄せる若者に、男は何気ない口ぶりで問いかけた。

「最近あの子とは顔も合わせないんだが、いつも、そんなに忙しくしてるのか?」

「いや、師走にかけて、追い込みはかけるが、それ程ではないはずだ。むしろ仕事は少なくなる」

「そうか。じゃあ、避けられているだけか?」

 この数か月、訪問しても留守だと嘆く凌に、鏡月は思い当たって頷いた。

「ああ、今年は、そうかも知れんな」

「ん?」

「あいつ、来年から、高校に通うそうだ」

 思わず鏡月を見下ろした凌は、目を瞬いていた。

「突然、そうなる事情があるのか?」

「あんたと一緒で、色事には関心ない上に、無知なんだ」

「?」

 それに危機感を抱いた側近たちが、今更ながらに決断したのだ。

「それと、学校に通う事と、何の関係がある?」

「学校の授業にあるだろう? 保健体育の授業が」

 それを受けさせて、性教育を施してもらおうと考えているらしいと答える若者に、凌は素直に呆れた。

「そこまでするほど、無知なのか? いや、もしそうでも、学校に行くまでもなく、連中で教えればいいんじゃないのか?」

「出来るなら、保護した時にやってるだろう。それが出来なかった程の、甲斐性なし共なんだ」

 色事を面と向かって教えるのは、恥ずかしいと考える者が、主な側近たちだ。

 色事専門の兄貴分がいなくなっても永く障りがなかったはずだが、世の中には朴念仁がおり、その一粒種はそれに無知が加わっていた。

「……まあ、教えれば分かる程度の無知加減だから、すぐに理解するとは思うが」

 突然決められたその通学は、仕事を少なくても三年はやめていなくてはいけない。

「ん? それは、前にもあったんだろう? 同じ期間での休業なら、そこまで復帰は難しくなさそうだが」

「何で、知ってるんだ?」

「律の家の家事手伝いは、副業禁止だったと聞いた」

 凌があっさりと答えるのに、鏡月は妙な胸騒ぎがしながらも納得した。

「ああ、だが、少し長めの休業のつもりでいるようにと、説得されたらしい。奴らの事だ、この際もう少し永く、学業に専念して欲しいんだろう」

 気持ちは分かると、凌が唸るのを見上げ、若者は苦笑した。

「とばっちりが、オレや蓮にまで来ているんだが、どう逃げたものかな」

 蓮はまだしも、自分は健康体ではない。

 それを理由に断ってはいるのだが、何故か上野家の面々がしつこい。

 嘆く鏡月に、男が苦笑した。

「無茶な奴らだな。お前や蓮は、長く生きている分、ある程度の学習は肌で学んでいるんだろう?」

「ああ」

「まあ、小学生から学ばなくてもいいから短いが、それでも高校三年は、結構長いぞ」

 中学も永かったと、部下の一人が昔言っていたと思い出し、つい感傷に浸りそうになる男に、鏡月はあっさりと返した。

「セイは兎も角、蓮は、高校生では不自然だ」

「ん? そうか? 少し若すぎるかもしれんが、いない程の若さでもないだろう?」

「……まあ、絶対いないとは言わない。最近のガキは、発育がいいからな」

 思わず見下ろした凌を見上げ、意外そうに尋ねた。

「あんた、あいつとは何年会っていないんだ? あいつの父親の方とは、よく会ってるんだろう?」

「ああ、ちと前に、つい言い過ぎてな。会社の存続がかかっていると、コウヒに泣きつかれてからこっち、頻繁に会ってる」

「それは、本当に蓮の父親の話か?」

 疑わし気に返す鏡月に、凌は慎重に問いかけた。

「……まさか、蓮がさらに成長したのか?」

「ああ、ここ数年で、成長しきった」

 それ以来、鏡月も顔を合わせていないと続けた。

「昔は男らしい匂いが、子供の匂いで紛れていたが、今じゃあそれも消えてしまった」

 他の男たちほど嫌悪感は抱かないが、猛々しくなった若者の傍には寄りたくなかった。

「まあ、あれは、母親似らしいから、父親の色男系にはならないはずだが。お前が猛々しいと感じるのなら、適度な体格になったんだな。これは、大変だ」

 幼かった時の蓮を思い出しながら、凌は小さく笑った。

「あれは、成長したら化ける。悪魔顔負けの、女殺しになりそうだ」

「ああ、指摘できる者がいないせいで、本人があずかり知らぬ所で、そうなっているようでな、メルが、危機感を抱いた」

 取りあえず、近くの大学に通わせて、そこでの女への人気を思い知らせたら、少しは警戒するのではと、浅い考えで押し切った。

 成長した後も、何かと構いたがるメルとヒスイに辟易していた蓮は、何故かそれを了承した。

 戸籍を国が厳しく監視し始め、怪しまれる前に対策を取りたかったと言い訳していたが、どこまで本当なのか、疑わしい。

 大学は準備期間を入れて五年は束縛されることになるから、蓮もその仕事納めにかかっていると言う。

「高校の入試は年明けだが、センター試験を受けるなら、少し間がなさすぎるだろう?だから一年間はみっちり勉強して、大学試験に臨む気らしい」

 目指すなら、偏差値の高い大学だろうと、蓮は不敵に笑っていた。

「高校は? 豪たちが行ってた所か?」

「ああ。入試は、編入試験程難しくないそうだ。直前まで仕事納めの作業に追われるから、今年は年末年始も休めんかもしれないと、言っていた」

「そうか……じゃあ、知り合いの訃報に気を留める時間も、惜しいだろうな」

 男の静かな呟きに、鏡月は頷いた。

 もっとも、訃報自体は知っていて、既に焼香を上げてから仕事に行っている可能性もあるが、感傷に浸る余裕は無いだろう。

 静たちの婚礼が終えた後で良かったと、若者はしみじみと考えながら男の後について歩いていたが、不意に立ち止まった。

 嗅ぎ覚えのある匂いが、目的地の方から嗅ぎ取れた。

 丁度、その会場から出てくる気配のその匂いの主は、三人。

 一人は弟子仲間である女の狐だが、もう二人は……。

「旦那、待ってくれ」

「いや、待てないな」

 鏡月の声に、凌はすぐに返した。

「やはり、来ているんだな。いいタイミングだ」

 続く言葉で、男の思惑が明るみになった。

 顔を強張らせて見上げる若者に、凌は笑顔で言った。

「お前なら、すぐに分かると思ってな。もし今日来てなかったら、明日は一人でここに来ても、問題ない事になるからな」

 あいつらが来ないか来た後だったら、諦めて焼香だけして帰るつもりだったと言う男の声を聞きながら、嫌な可能性に気付いた。

 森岡の事件は、酒井匡史の死刑と長男の無期懲役刑が確定して、ひとまず終わった。

 数か月前に酒井匡史の刑は執行されたのだが、その二か月ほど前、長男も刑の途中で死亡した。

 死因は心臓発作による心不全とされているが、よほどひどい夢でも見たのか、その顔は恐怖にひきつって固まっていたと聞いた。

「旦那、まさかとは思うが、影でこそこそと、何か良からぬ事をしていないだろうな?」

「……セイ坊には、言うなよ」

 否定してくれっ。

 しかも、セイを名指しして口止めすると言う事は、あの男の死に係っていただけではなく、まだ余罪があると言っているようなものだ。

「あの子が三年も休業するなら、その間に追いつくだろう」

 鏡月の気持ちなどお構いなしに、凌は気楽に言った。

「今まで、どんな仕事をして、どんな結果に収めたのか、知っておきたいからな」

 知るだけで済んでいないのは、森岡家の件で明らかだ。

 そして、今回ここで鉢合わせた二人を、どうする気なのかも。

「あの狐、一時期力が激減していたが、最近戻っている。このタイミングでこの場所に現れたあいつを、あの子に気を遣う事もせずに消せるとは、あの連中の過保護も役に立つことが、あるんだな」

 声音はあくまでも静かで、それが余計に怖い。

「だ、旦那、落ち着けっ。こんな所で手を下して、目立ったら意味がないだろうっ?」

 若者が慌てるさまを見下ろしながら、凌は答えた。

「心配ない。最近、小さな更地を購入したんだ。そこに家を建てて住む予定なんだが、その土底深くに埋めてやるから、見つかる心配はない」

 伊達に、建設業に従事していない。

 どの位深く埋めれば掘り出されないか、よく分かっている。

 そう頷く男に、鏡月は思わず叫んでしまった。

「計画的かっ」

 偶々、知っての犯行ではない。

「当たり前だ」

 知れっと答えた凌は、知っていた。

 森岡浩司がこのところ体を崩し、入院していたことを。

 そこに時々、藤原蘇芳の使いが、秘かに見舞いに来ていたことを。

 親しくしていた者の訃報なら、引退した政治家が、秘かにお悔みを言いに来るくらいはするだろう。

 香典は出せないかも知れないが。

「政治家と金のやり取りをしてはいけないのは、引退後もだったか? どうであれ、直接来るんじゃないかと、何となく思っていたんだ」

 気楽な説明の間、三人以外に誰か一緒でないか探ったが、こういう時は親である狐の意に沿っているのか、凌に対抗できる男のいる様子はない。

 一人で狐と鬼の二人を相手取るのは、まずい。

 だが、鏡月を頭数に入れて二対二で、という考えは絶対にしない男だ。

 これは、凌の私情だからだ。

 負ける心配はしていないが、力のある二人の化け物相手にして、この近辺が巻き込まれて大事になるのは困る。

 小さく唸った若者は、葬儀会場の中での動きに気付いた。

 一緒にいた三人が二手に別れ、昔馴染みの狐が一人、自分たちが向かっている出入り口に歩み寄って来る。

 狐と鬼の二人は、違う出口を使うのか、全く別方向へと歩いていく。

 二人が凌に恨まれる原因があるのは知っているが、雇い主の命の優先をとったのだ。

 内心ほっとしながら、鏡月は凌と共に会場に入り、森口律と鉢合わせした。

「……」

 僅かに目を細め、律は男を見上げた。

「どういう風の吹き回しですか? 人の死に、感傷を抱くなんて」

 説明を聞くまでもなく、森岡浩司の通夜を言い訳に来ていると察している狐は、まずそう指摘した。

 昔から人の生死は見慣れている。

 だから、余程気に入った人間であれば兎も角、面識がないはずの御老人に感情移入することはまずないはずだ。

 そう言う律に、凌は笑った。

「焼香は、ついで、だ。分かってるんだろう?」

「……」

「奴らは、どこに行った?」

「ここにはもういません」

 きっぱりと答え、真っすぐに男を見る。

「一体、何事ですか? 今更あの二人を狙うなんて……」

「今だから、だ。今までは片方の狐が、弱っていたからな。弱い者いじめは、したくなかったんだ」

「……」

 どこかで、聞いた台詞だ。

「今でも、あなたと競り合えるほど、強くはありません」

「お前でも、楽勝だろう?」

 眉を寄せる律に、凌は気楽に言った。

「だから、二人一緒に相手しようと思ってるんだが、問題か?」

「大問題です。ようやく後継ぎがそれなりに育ってくれたんです。その親が同時に不審な失踪を遂げたら、大打撃です」

 言い切る律は、鏡月より早くに、男の思惑の大部分を読んでいる。

「不審な失踪くらい、お前の情報操作で、いくらでも誤魔化せるだろう?」

「限度がありますっ」

 蘇芳は引退から二十年経った今も、重役から相談事を持ち込まれるほど、国にも影響力がある。

 それが急にいなくなったら、マスコミどころか別な機関まで動き出しそうだった。

「そうか、死体がないと、逆に騒がれる口か。分かった。なるべく、外傷を残さない様に、やってみよう」

 凌は深く頷いて、狐に笑いかけた。

「奴らは、どこに向かった?」

 短い問いかけは、有無を言わせぬものを含んでいた。

「……裏の、駐車スペースです」

 小さく溜息を吐きながらも律はあっさりと答え、鏡月が目を剝いた。

「じゃ、また今度な」

 気楽に挨拶をし、男は狐の横を素通りして、その場を後にした。

 その先に裏口があるのは、案内板で確認済みの様だ。

「律、お前、あの人に無用な殺生を……」

 止められなかった自分も悪いが、つい文句を漏らす若者に、律は男の背を見送りながら答えた。

「……大丈夫です。あの旦那に、蘇芳たちがしでかしたことを、自分がしてしまった事と共に話したのも、旦那がここに来るだろうと予想を立てて、その防波堤にあの子を雇ったのも、水月ですから」

 だが、こういう修羅場で、あの二人を会わせるのは避けさせたかったと、溜息を吐く狐の言葉の意味をすぐに理解し、鏡月は顔を強張らせた。

「ちょっと待て。まさか……」

 既に立ち去った男を追い、駆けだした若者の後を、律もゆっくりとした足取りで追いかける。

 その鉢合わせを止めるのは間に合わないが、修羅場が下火になる頃に辿り着く調整は出来る。

 見物したいだろうが、とばっちりが向かう可能性があるから、そうしろと念を押した師匠の忠告を、狐は素直に実行するつもりだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る