第7話

 一か月後。

 新年を迎え、三が日を過ぎた頃、大沢忍は初バイトに松本組にやって来た。

 いつものように、事務所に向かおうとして、その事務所に人だかりが出来ているのに気づいた。

 従業員が事務所内に入らず、こわごわと中の様子を伺っているのは、怖い面相の社長や顔なじみの刑事が来ているからかもと想像できるが、その中にまだ働かなくてもいい少年たちが混じっているのは、珍しい。

 首を傾げながら近づき、忍はその子供二人に声をかけた。

「松本。職場に、何か用なのか?」

 年上の方の子供が、明らかに驚いて飛び上がった。

 年下の子供は、悲鳴を上げて振り返る。

 何をそんなにびくついているのかと、不思議そうにする少年に、同い年の松本家の長男が溜息を吐いてから、言った。

「驚かすなよ。今、修羅場の真っ最中なんだ」

「修羅場?」

 ごうの言葉に無言で頷く、一つ年下の透が、たどたどしく言った。

「今、若のお使いって人が来てるんだ。でもその人、凌の旦那をテキタイシしてて、怖かったんだって」

「うちの社長や、市原刑事さんよりも、怖い人なのか?」

 会いたくないな。

 だが、凌の旦那は、今のところ忍の直属の上司だ。

 どんな人なのかと、そっとその客を伺い見た。

 綺麗な少女だった。

 年は自分達より少し上のようだが、静かにお茶をたてる姿が絵になりそうな、美少女だ。

「……色恋沙汰の、修羅場、なのか?」

「お前な、あの人ほどそれと縁遠い人はいないと、一緒にいたら知ってるだろうがっ」

 つい、声を荒げる豪に、忍は真面目に返した。

「朴念仁だからって、女が寄り付かないわけじゃ、ないんだろ?」

 うちの父親ですら、母親と言う女が寄り付いたのだ。

 見目のいい凌の旦那なら、それよりも多い人数が寄り付きそうだ。

「お前なあ、朴念仁と言うのは、寄り付いた女の思惑に気付かないから、朴念仁と言うんだ。修羅場になりようがない。なっても、本人蚊帳の外状態での修羅場だ」

「そうかな?」

 そんな子供たちの会話は、少女には丸聞こえであった。

「……呼び出した方が、良かったようですね」

 来なきゃよかったと、雅が後悔しているのを見返し、凌は苦笑した。

「物見高い奴らで、すまんな。というより、お前さんがここに来るとは、オレも意外だったんだが。あの子はどうしたんだ? そろそろ、謹慎は解けたんだろう?」

「明日までですが、これは、一張羅なのではと心配していたようで、早めに返したかったようです」

 まだ、一か月じゃなかったかと天井を仰ぐ男に、雅は紙袋を差し出した。

「丁寧に手洗いして干したけど、傷んでいたら御免なさいと、伝言を頼まれました」

「……まあ、余所行きのジャケットはそれ一枚だが、そこまで気兼ねされるほどではない。確かに受け取ったと伝えてくれ」

 あっさりと受け取った後、凌は複雑な心境で雅を見た。

「……父に、似てますか?」

 優しい笑顔を浮かべ、女は首を傾げた。

「ロンが気づかなかったのが不思議な位、似ていると思うが。今まで話す機会は、なかったのか?」

「ええ。というより、父の知り合いには暗黙の了解で、知られてると思っていました」

 偶に、こういう抜けたところがあるのが、ロンの愛嬌なのだが、それを愛らしいと言えるほどの男でもない。

 凌は溜息を吐いて、改めて女を見た。

「で、お前さんは、あの子の使い、というだけでここに来たわけじゃあ、ないんだろう? わざわざ、オレを訪ねるなんて、どんな理由だ?」

「まず、御礼を言いたいと、そう思っていました」

「礼?」

 意外な言葉に目を見開く男に、雅は少し笑って言った。

「あのまま、あの家の件をあの連中に係らせることになっていたら、この地での他の人たちの苦労が、水の泡になるところでした」

 そう思ってはいても、自分から血縁の話を持ち出すのは躊躇われたのだと、女は言った。

「蘇芳さんは、うちの間では断トツの評判の悪さなんです。何をやったのやら、メルですらあの嫌いようですから。父との血縁より、あの人との血縁関係を知られるのが、嫌だったんです」

「そうか?」

 凌は首を傾げた。

「じゃあ、知られたくないと言う理由だけで、お前さんは言わなかったのか? あの勢いでは、あの弁護士、直ぐに命の危険があったぞ」

「そうでしょうか? そんなに簡単にいくのなら、あなたのお子さんが、一年近くも手をこまねいているはずが、ないでしょう?」

 男は少し考えて、言う。

「悪いが、あの子の事はよく知らない。一年がかりは、そんなに珍しいのか?」

「ええ。相手が幼い子供で、将来がまだ見えない状態なら待っているようですが、それ以外は、そんなに時間をかけない子です」

 自分でない者が計画を立て、それを手伝う立場であればまた話は違うが、今回は長くかけすぎだった。

「慎重に、今度こそは逃がさないように、脇を固めているみたいです」

「……その言い方では、一度は逃したと、そう聞こえるんだが?」

「ええ。一度どころか、二度は確実に逃がしていると、私も知っています」

 一度は、ある村の女の、最期の懇願を聞いて。

 もう一度は……。

「優先順位で、逃がさないと言う事よりも大事な方を、あの子が選んだんです」

「……」

「血縁者の目の前で手にかけるのを、あの子は躊躇った」

 黙ったまま目を細めた男を見上げ、雅は微笑んだ。

「だから、要らぬ気遣いだと、分からせてやりたいんです。今日、伺ったのは、お願いがあったからです」

 気配に気づき、術師の知り合いに調べて貰ったら、案の定、あの狐が近くに来た気配があった。

 さらに調べて貰おうとした時、セイがその情報を隠してしまったのだ。

「その隠した情報を、あの子から引き出す手伝いを、お願いしたいんです。焦ってすぐにあの狐を狙いそうな無謀は、止める事が出来ましたが、今度はそうはいかない。あの子は、私たちが、容易に手出しが出来ないようにした上で、狐を狙う機を伺っています」

 だからセイは、この一か月、本当に動かずにいる。

「酒井鳴海は、遠目でなら見た事があるが……獣だと言うのが分かる程度で、その狐かまでは分からなかった」

「その言いようだと、違うかもしれないと言われているように、聞こえますが?」

 首を傾げた女に、凌はつい笑った。

「お前さんの言いようだと、そう疑えると感じたんだが、違うのか?」

「その真意が曖昧なので、情報を引き出したいんです。協力願えませんか?」

 男は静かに唸った。

「そう言う頼み事を聞いてくれる奴なら、お前さんの周りには沢山いるはずだろう? どうして、オレに?」

 自分が父親として最悪なのは、誰に言われるまでもなく承知している。

 それとは逆に、若者の説得が出来る人材は、あの中には腐るほどいるはずなのだ。

 わざわざ、自分に話を持って来ることで、当てこすっているのかと疑いたくなるが、雅はそんな男に首を振った。

「あの子の口は、うちの連中では開かせることは出来ません。特に、今回の件では」

 何故なら、エンが秘かに問い詰めているのを、聞いていたからだ。

「彼ですら、口を割らせることが出来ませんでした。私なんかでは、特に話にならないでしょう」

 恐らく、雅自身にその話が漏れるのを、セイは危惧しているはずだから。

 脅迫じみた尋問でも、泣き落としでも駄目なら、残された手は限られていた。

「……すぐに切れそうな藁でも、すがれそうならそうします」

「藁か……初めて、言われたな」

 頼りがいがあると、嬉しい事なら言われたことがあるが、そんな頼りない存在に例えられるとは、長生きしてみるものだと、凌は笑ってしまった。

「まさか、そっちのお前さんも、そんな気分でオレを訪ねたのか?」

 男が、雅の後ろに視線を向けながら、問いを投げた。

 振り返った女が、思わず立ち上がる。

 松本社長に案内されて、事務所の入り口に立ち尽くしていた男も目を見開いて、雅を見ていた。

「……お前さん、どちらかというと、中身は母親似なんだな。水月も寿も鼻が利くが、寿は大勢の中から個人の匂いを、嗅ぎ取れないらしい」

「すみませんね」

 凌の解釈の後に、松本勝は苦笑と共に謝罪した。

「この人まで来たもんで、うちの奴らが三角関係の修羅場だと、色めきたっちまいまして、さっきより野次馬が増えた」

 言いながら新たな客を中に押し込み、社長は凌に頷いた。

「茶は後で、持って来る」

 戸をしっかりと閉め、その外で怒声が響いた。

 ドスを利かせた声で、社長が従業員たちを、散らしたらしい。

「……まあ、座れ。用件は同じのようだが、お前さんの話も聞いておこう」

 凌は新たな客に声をかけて、席を勧めた。

 躊躇いながら近づいたエンが、目を逸らして座り直した雅の隣に座る。

「……用件は同じとは、まさか、例の狐の件を、この人も?」

 慎重に問う男に、凌は頷いた。

「そのお嬢さんの方は、隠された情報を引き出したいと、頼んで来たんだが、お前さんは?」

「……あなたなら、可能なのではと、そう願って来たんですが。出来ませんか?」

「どうだろうな? その場を見た訳ではないからな」

 自分が見張っていたのは、篠原家が買った敷地の周辺だ。

「近くのあの別宅は、長男が使用でよく使う場所だから、張っているだけで、他の場所までは守備範囲外だ」

 酒井鳴海がいるのは本邸の近所で、次男がよく使っているプレハブ小屋も、その辺りにある。

「……高野と言う刑事の紹介で、酒井鳴海に会ってきました」

「え?」

 静かな切り出しに、雅が思わず声を上げた。

 見上げるその目に、エンは困った顔で告げた。

「あれは、あなたが憎む男では、ありません」

「……」

「逃げられたんだと思います。だから、あなたは手を引いて下さい」

 見下ろす男の目を見返し、雅は目を細めた。

「それを、信じろと言うのか?」

「気配は、無いんでしょう? なら、これ以上、この件にかかわらず、精進していてください」

 穏やかに笑うエンは、それでもきっぱりと言い切った。

「……そんなはずはない。気配は、僅かに感じる。どこかにいるはずなんだ。君は、何で係ろうとしてるんだっ? 関係ないだろうっ?」

 そんな男とは反対に、雅は取り乱して立ち上がった。

「関係ないからこそ、只の好奇心で、この件を調べているんです。私情で動いては、見つかるものも見つかりませんよ」

 やんわりとした声音が、余計に女の気を苛立たせる。

「好奇心? そんな軽い気持ちで、出し抜かれたくないっ。手を引けっ」

「おい」

「手を引くのは、あなたの方ですよ。こんな事で取り乱しているようじゃあ、身内を討つなど無理です」

 穏やかに笑いながら、エンは首を傾げた。

「まさかオレが、あなたの代わりにそれをしようとしていると思ってるんですか? それはないですから、安心してください」

「こら」

「誰が、そんな恥ずかしい事を考えると……君こそ私が、身内を討つのを躊躇える女だと、本気で思っているのかっ? 流石、他人にそれを丸投げする、一族の末裔だな。とんだ臆病者だ」

 雅の優しい笑顔での言い分に、エンの顔が更に笑みを濃くした。

「なるほど、この件では、あなたとは相いれないようだ。仕方ない」

 どんよりとした空気が室内に流れ、雅もどんよりと男を睨む。

「あのな、オレは、話を聞くために、お前さん達を接客しているんであって、痴話喧嘩を見物するために、招き入れた訳じゃ、ないんだが?」

 それよりもどんよりとした空気が、二人の空気を飲み込んだ。

「これ以上、いちゃつく気なら、二人とも追い出すぞ」

 反論しようと二人が振り返ったが、凌の空気はその反論をあっさりと封じる程に、どんよりとしていた。

「……凌さん?」

 改めて考えると、ライラとは殆ど話をしなかった。

 向こうも、とんでもない思惑の元で動いていたからだろうが、凌の方も女の思惑を考えようともしなかったのだ。

 この二人の様に、喧嘩できる仲であれば、少しは女もこちらを気遣ってくれただろうか。

 ついつい、そんな事を考えてしまう男を見てから、客の男女は仲よく顔を見合わせた。

 二人とも、父親に対する印象は良くない。

 その中でも、セイを見つけられずにいた、この男の印象は最悪な方だ。

 だが、自分たちの父親程、酷い人ではないと感じていた。

「……いや、あなたの父親も、それほど悪い人じゃないでしょう?」

「まあ、君の所ほど変じゃないようだけど、素直に喜べないな。特に、今の状態では」

 あの姿では、感情をぶつけて殴るのも、躊躇う幼さだ。

 今は、気づいていないふりを続けて、成長してからの楽しみに取っておくと、雅が話を収めると、エンは溜息を吐いた。

「化けているとはいえ、あんな小さい姿では、それも出来ないですからね。いずれ殴れるようになるあなたが、羨ましい」

 言ってから、自分の考えに浸っている銀髪の男を、改めて見た。

「すみません。つい、取り乱しました」

 神妙に謝ったエンを見つめ、雅も咳払いする。

「どうか、お願いします。協力してください」

 神妙に頭を下げる女の声に、凌はようやく我に返った。

「いや、すまん。オレもつい、妬みが」

 まさか自分の口から、痴話喧嘩と言う言葉がすぐに出て来るとは驚きだったと、男は笑って見せてから、話を戻した。

「協力はいいが、具体的にどうやって、あの子から情報を引き出せと?」

 エンが言うように、その狐が逃げた後なのなら、引き出せる情報はない事になる。

「酒井鳴海を名乗る弁護士は、狐ではありませんでしたが、獣でなかったわけではありません」

 エンが、静かに言った。

 目を見開く男女に頷き、続けた。

「初めはある子供として森岡家にやって来たが、年相応になった頃に入れ替わったと、そう吐いてくれました」

「吐いて? お前さん、尋問したのか?」

 遠目で見た時、妙に小柄な女だと思っていた凌が、少し顔を顰めた。

 小さな女が、優し気とは言え大きな男に尋問されれば、怯えしか浮かばないだろう。

 そんな気持ちで言い返してしまった男に、エンは穏やかに笑いながら首を振った。

「あれは、怯えるような獣じゃあ、ないです」

 化けるのが下手過ぎて、その上美的感覚が疎すぎて、その獣は小さな人間にしか化けられないだけで、恐らくは長寿と呼ばれるほどに生きた獣だ。

 証拠に、呼び出された弁護士は、高野と一緒にいるエンを見て、目を見張って言っただけだった。

「何だ、もう種明かしなのか? もう少し、謎は深めて欲しかったんだが」

 そんな女を見下ろしながら、エンも驚いた。

 何人かこの手の獣を知っていたが、ここまで強い力を秘めている者とは、初めて会った。

「本名を、源五郎と言うそうなんですが、その獣が言うにはこの地で戸籍が欲しくて、施設に幼児の姿で転がっていたら、すぐに森岡家に引き取られたと。長男が暴れまわるのを尻目に、勉強にいそしんでいたら、数年前に現れた狐が、立場を変われと言って来たと」

 お蔭で自分は、女装した弁護士として、森岡家に雇われるだけになってしまったんだと、獣は嘆いていた。

「……つまり、どう言う事だ?」

 見えた真相にうんざりしながらも、訊かぬわけにはいかず、凌は尋ねた。

「ええ、こういう見え透いた話を、改めてするのは酷なんですが、あなたの想像通りです」

 源五郎が、元々は森岡家の次男坊で、今は例の狐が、その立場でやりたい放題にやっていたのだ。

 そう言い切ったエンの前で、銀髪の男は唸ってしまった。

「ちなみに、狐の方は源五郎の正体に、気付いていたわけではない様です。子供を騙して、良い立場を手に入れた感覚なのだろうと、笑っていました」

 その上で、こちらは人生やり直しが決定したも同然だと、源五郎は嘆いた。

 あの家の、尻拭いばかりやっている弁護士じゃあ、目立って仕方がない。

 しかも、敵に回してはいけない奴らを、敵にしてしまったと、吐き捨てた。

 高野がエンを、この弁護士と引き合わせたのは、狐の所在を知らしめるためだったようだ。

「……要は、オレや、他の連中が手を付けられないような状態だと、自覚させるためだったんでしょうが、それでも、手をこまねくつもりは、ないんです」

 あの狐を、セイは数度、取り逃がしている。

「数度?」

 雅がつい声を上げると、エンは困ったように笑った。

「あなたの住処の下の村の前にも、一度取り逃がしています。オレが、慈悲を願ったせいです」

 当時の若者よりも年下の子供は、命を奪うなと頼んだ。

 それが、取り逃がす要因になったのだと、多恵から聞いた。

 その時は、大事にはならないだろうと思っていたのだが、その後のあの狐がやらかした所業は、その自分よがりな頼みごとをしてしまった事を、大いに後悔させるものだった。

「あなたに、あの狐の所業が知れてしまった後も、何度か機会はあったようですが、その全てを取り逃がしています。今度こそは、逃がすまいと言う意気込みが、ああいう形での隠匿になっているんでしょう」

 あれは、並大抵の者では破れない。

「……ん? まさか、お前さんは……」

 話の治まりどころに気付き、凌は顔を険しくした。

 代わりにエンは、笑顔を濃くして頷く。

「あの子を出し抜くには、長く張られているあの『結界』を、破ってしまうしか、方法はありません」

 セイを崇拝する者たちの動きを把握し、ある現場に行ったエンは気づいた。

 そこを守っていた石川一樹は、被害縮小のための最小限の壁だと説明したが、その割には不透明な壁だったのだ。

 蓮は一か月前、あの狐の正体を、あっさりとばらして見せた。

 その上で、石川がいるそこを見に行ったら、何らかの壁で塞がれており、これを破って本命を逃がしたくないと、放置してきた旨を伝えた。

 釘を刺して、事件から自分たちを遠ざけようとしているのだと、その時は思っただけだったのだが、深く考えるにつれてそれもおかしいと感じた。

「ミヤもオレも、あの狐が、蘇芳と言う狐や寿さんと繋がっていると言う事を、知った上で憎んでいると、蓮は知っている筈なんです」

 だからこそ、やるなら直接狐を狙えと言われているのかと思ったのだが、会った弁護士は別人だった。

「何も考えずに狙っていたら、こちらが返り討ちになるかもしれない相手でした。こんな相手を、あの狐が手下に置けるはずはない。置けるとしたら……」

 エンは、そこで言葉を切った。

 唸る凌と雅の答えも、そこで違えず同じになっていた。


 高野信之は、苦い顔で文句を並べた。

「こういう事は言いたかないが、あんた、少し口が軽くはないか?」

「どうせ、あの兄ちゃんには、手出しが出来ないんだろう? なら、正直に話した方が、無駄な体力はいらない。儂は、争いは苦手なんだ」

 答えるのは、小柄な男だった。

 愛嬌のある男だが、妙に目鼻が丸く、体も丸い。

「ああいう、人好みの体をすると、体が凝ってたまらん」

 塚本家の離れの、テーブルの上に長々と寝そべるその男を見下ろし、小柄な女が溜息を吐いた。

「判断を間違えた。こんな奴だと分かっていれば、放ってはおかなかった。いや、今からでも遅くはないか。封印しよう」

 明るい色合いの瞳を向け、白髪の女はゆっくりと両手を合わせた。

 それを見て、慌てて男が飛び起きる。

「こ、こらっ。今儂が姿を消したら、流石に問題になるぞ」

「……と、この狸は言ってるが、どう思う?」

 女が、呆れ切った声をかける先は、塚本伊織の持つ携帯電話だった。

 その電話は、未だ謹慎中の若者と繋がっている。

「正直、もう用はない気がする」

 無感情な声が、無慈悲な事を言った。

 小柄な男は呻き、電話の方に身を乗り出す。

「それはなかろうっ? こちらは、最大限の協力をしたつもりだ、今更、口封じはひどい」

「別に、口封じとは言ってないだろ。封じるのは、口じゃなく全体だ」

「こらっっ。意地が悪いと、見目が悪いくせに更に悪くなるぞっ。精進せよと、昔から言ってるだろうがっ」

 呆れる女と、白い目で見下ろす二人の男に構わず言い切り、源五郎と名乗る狸は咳払いした。

「大体、何をそんなに慌てているのだ? あんな立派な壁を作って放置して、何か月たつと思っているのだ。その間、誰にも触られた事がないと言うのに……」

「誰にも、気づかれてなかったから、触られなかっただけ、なんだよ」

「ん?」

 正確には、協力者たちが上手く、その存在を誤魔化してくれていた。

「あんたがせめてもう少しの間、あの狐の振りをしていてくれていれば、気づかれる前に治まったのに」

「いやいや、ちと待て。あのエンという兄ちゃん、儂を見る目が、ゴミを見るような目だったぞ? ゴミを分解して土に返してやろうと言うような、恐ろしい目だ。あれを間近にして、正体を隠すなど、誰が思うか?」

「……あのな、別に、そのままの狐の振りをすることは、無かったんだ」

 高野が、呆れ切ったまま返した。

「実行しそうになったら、オレが止めた。というより、何の為にあんたを警察まで呼び出したと思ってたんだ? そう言う分別のない事をさせないために、決まっているだろう? あんたは、弁護士としての対応をしていれば、それでよかったんだ」

「まさか、内輪での話が厄介な時期に、こういう事態になっているとは……申し訳ありません、若」

 神妙に謝る塚本と高野は、明日セイの謹慎が解けると言う時期のこの事態に、頭を抱えていた。

 知られてはいけない相手に、とんでもない話が漏れてしまった。

 この事態に、電話の向こうのセイも、嘆く事しかできない様だ。

「やっぱり、練習しておけばよかった……」

「……いや、だから、それは、不味いと言っただろう?」

 呟く若者に、小声で返しているのは、セイの傍にいる瑪瑙だ。

「大体あの術は、術者本人を反映するから、あの時のあんたを分けたとしても、鳴海との決着がついたか、分からんぞ」

「ん? 何の術の話だ?」

 シロが聞きとがめて声をかけるが、向こうでは構わず会話が続く。

「あいつの力のほどは、知ってる。邪魔さえなければ、あの状態でも、問題なかったはずだ」

「……セイ、まさかそれは、現実逃避かっ? 今は、それどころじゃないだろうっ?」

 女はつい、声を張り上げた。

「あの男に知れたら、雅に知られるよりもまずいと、お前が言っていたんだろうが」

 古谷家でセイを止めた後、シロはこの狸を紹介された。

 警察に、森岡家の次男坊を引き取りに来た弁護士は、住処に突然現れた術師の元祖と、顔見知りの若者を見て目を剝いたが、同時に言った。

「儂は、何もしてないぞっ」

「知ってるよ」

 すぐに返したセイは、静かにシロに説明した。

 この時の二年前まで、この弁護士はこの狸ではなかった。

 この狸は元々、森岡みつるという名で、人生を真っ当に生きていた。

「十五の年になってから、狐の弁護士が、内密に話を持って来たのだ」

 口先で子供の勤勉さを褒め、これならその年で弁護士も出来るだろうと、褒め殺した上で交代を提案して来たのだという。

「儂の方も、あと数年の間勉強して、大人になるまで森岡家を出れないのが、歯がゆかったものでな、純粋な振りをして入れ替わったのだ」

 だが、ふたを開けてみれば、長男と森岡氏の悪行の尻拭いが、主な仕事だった。

 その上、いい身分を手に入れた狐まで、妙な事を始めてしまったのだ。

「それまでは知らなかったんだが、近くの病院の財政難を盾に、随分馬鹿な狩りをやっていたようだな、あの狐は」

 それが出来なくなったために、狐はやむを得ず、街に自由に繰り出せる立場を欲したらしかった。

「それを、お前さんは、知らなかったと? ここまで近くにいて?」

 シロが、低い声で問うと、狸は平然と頷いた。

「当たり前だ。知っていたら、儂が食い殺しておる。あんな見苦しい狩りをする獣が、まだ現存していたとは。しかも、狐だと? 地に落ちたものだ」

「まさか、こんな獣と意見が合うとは。その点は同感だ。狐とは、もう少し分別があるものだと思っていた。こんな狩りを楽しむ奴が、雅の親族とはな」

「……狩りを楽しんでいるんじゃない。あいつは、狩りの獲物が、恐怖のどん底に落とされる時に発する気配が、好物なんだ」

 それが、あの事件の被害者の、本当の死因だ。

 恐怖にかられた少女は、嬉々とした狐に、自動車の中で中身を食い殺されていた。

 空気が、凍っているのを肌で感じ、源五郎が首を竦めた。

「こら、怒るのは無理がないが、少し落ち着くのだ。奴らは、殆どが人間だ」

「あんたは、どっちがいい? このまま森岡家から立ち去るか、この人に封印されるか? どちらにしても、この家は早めに潰す予定だ。あんたの居場所はすぐに無くなる」

 まずは、次男坊に化けていた狐だと、セイはやんわりと微笑んで見せた。

「こら、何をそんなに怒っている? あの件が知れただけでは、そこまで怒ることはないだろうに? どういう風の吹き回しだ?」

 全身の毛が、逆立ちそうな気配に身震いしながらも、狸ははっきりと尋ねる。

「別に、怒ってないよ。あんたらも、変な心配するな。普通に考えてるだけなのに」

「いやいや、おかしいだろう? お前、昔のあの屋敷での空気になっているぞ」

「そうか?」

 平然と返す若者を見て、ふと思い出したように源五郎は眉を寄せた。

「そう言えばその時も、狐の娘が絡んでいたな」

「……」

「純潔の狐に妙な策略で引っ掛かって、危うくその手に落ちかかっていた娘だったが、あの娘は元気なのか?」

「……ゲンさん」

 無邪気な笑顔で、セイは切り出した。

「早く答えてくれるか。森岡家と消滅するか、この人に封印されるか」

 その笑顔に流されて答えようとして、狸は我に返る。

「ちょっと待てっ。それでは、儂は助からんじゃないかっ」

「余計な事を思い出す奴は、正直迷惑だ」

 きっぱりと言い切った若者に、宥め口調で声をかけたのは、それまで成り行きを静かに見守っていた、古谷氏だ。

「若、あなたがお怒りなのは、充分に理解いたしました。私も微力ながら協力いたします。ですが、お願いいたします。どうか、その怒りに流される事だけは、抑えて下さい」

「心配しなくても、あんたらにまでは飛び火させないよ」

「そんな心配、欠片もしていませんよ」

 高野が苦笑して首を振ると、顔を曇らせた。

「我々は、あなたの八つ当たりを、見届けるつもりです。協力も惜しみません。ですが、その八つ当たりだけで、留めて欲しいんです」

 セイがきょとんとした顔で、同行した男たちを見返した。

 その顔を、男の最年少の塚本はつい、見つめてしまった。

 そんな男に構わず、古谷が言い切った。

「どうか、ご自分を地獄に落とすような試みは、お控えください。それさえお約束下さるのなら、我々は、悪にも染まりましょう」

「いや、染まる必要は、ないだろう?」

 シロが、男たちの心からの懇願を、真面目に蹴った。

「正攻法で、森岡家は潰せる。私が雅に頼まれて調べた時でも、随分沢山の埃が出た。今はもっと出て来るんだろう? それを全て世間に晒すか否かはセイ、お前に任せるから」

「儂をこのままそっとしていてくれるなら、充分な情報を、森岡家の内側から提供する。お前さんにとっても、その方が楽ではないのか?」

 この一年、情報を流しながら、適度に森岡家に仕えて来た狸は、一か月前の事を思い出して嘆く。

「……緊急の事態になったと言うのに、連絡が取れずにいた挙句、折角近くに来ながら、こちらが繋ぎを取る前に逃げてしまうとは。最近の若者は堪え性がなさすぎるぞ」

 また白い目で見てしまう高野に構わず、シロが続く。

「まあ、逃げるに至った経緯を聞いたら、仕方がないとも言えたが」

 その逃げるに至る原因である、森口律の受け持つ件と、蓮が進めていた件がこの年末、動き出した。

 森岡浩司とその娘涼子が再会し、今の当主である篤史を弾劾する姿勢を、世間に知らしめたのだ。

 新聞やゴシップ誌にも騒がれている中、セイはその騒ぎの鎮静と、側近たちの諦観を待っていたのだが、簡単には諦めないのがあの連中だった。

「だから、戻る前に片をつけようと思っていたのに」

 一年前は、怒りを糧に動こうと思って、止められた。

 怒りが萎むと、扱いに困る相手、というのが例の狐への感情だ。

 一か月前セイが向かった先は、昔慈悲で逃がした連中の元だったが、その近くにもう一人いる事が分かっていたから、ハンデのあるあの時に動くつもりだった。

 なのに、そいつにたどり着くどころか、その前の段階で足止めを食ってしまった。

「……まあ、そういう事態も予測していたから、蓮たちを遠ざけたんだがな」

 瑪瑙は、蓮と鏡月を連れて向かった先での事を、思い出しながら溜息を吐いた。

 そこを見た途端、二人は黙って目を交わした。

「……何で、あれが分かるかな。オレは言われてなかったら気づかなかった」

「蓮は昔から、あの手の事には敏感だった。それより、お前だ。あんなもの、良く作ろうと考えたものだな」

 瑪瑙のしみじみとした言葉に、電話越しにシロが続いた。

「穏便な方法は通じないと言う事は、あの仕掛けが有効になった訳だ」

 こちらの事情も考えない連中相手なら、この手を使うしかない。

 やれやれと首を振った女の耳に、電話の向こう側で交わされる小声が届いた。

「……今、石川殿から連絡がありました」

 古谷氏の、静かな報告だった。

「つい先ほど、四五人の方々が、相次いであの仕掛けに引っかかったと」

 それは、セイが一年前から仕掛けていた、巧妙な仕掛けだった。

 電話のこちら側と向こう側で、歓声に似た声が上がるが、若者は溜息を吐いた。

 この手は、使いたくなかった。

 引っかかった男の内の二人は、きっと大いに悩んでしまう事だろう。

 セイが小さい頃に隠れていた場所で、身の安全の確保のために罠の張り方を教えてしまった男と、一度同じような罠にはまって、結果仲間の一人を死に追いやってしまう事となった男の二人だ。

 だから、諦めて欲しかったのにと、若者は秘かに嘆くのだった。

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