第5話

 そこまで辿り着き、銀髪の男のジャケットを羽織った時、セイはようやく気付いた。

 拳銃を手に入れた代わりに、自分の武器を失くしている事を。

 崖を滑り落ちた時に落としたか、あの男が掏り取ったか。

「……血は争えないとは、よく言ったものだな」

 後者の様な気がして、若者はつい一人笑ってしまった。

 感傷に浸る前に、携帯電話で連絡待ちしている男に、電話を入れる。

 注意を促して電話を切り、とんでもない場面で初対面した男を、じっくりと思い出した。

 セイが成長を止めた時、ロンが何やら複雑そうにしていたのは、あの父の子にしては小さかったせいだろう。

 母親が小柄だからだと言い聞かせても、若者自身釈然としない。

 珍しく感傷に浸り過ぎて、男が傍に来て声をかけるまで、その気配に気づかなかった。

「保冷剤と氷を、大量に持たされた。これで冷やしながら、取りあえずは固定してやれとさ」

 振り返ると、長身の男が立っていた。

 マイバックを、片手に提げた姿が妙に似合う、鬼にしては温和な雰囲気の男だ。

 返事をする前に、男はてきぱきとセイの右腕を取り、応急処置をする。

「ったく、あんたの昔の姿を知らない奴が見たら、卒倒物じゃないか。薬が効いてるのか?」

「ああ。痛みが完全にマヒしてる。これのお蔭で、薬の眠気は中和されてるし、心配されるほどでもないよ」

「……こんな怪我でも、寝たら治るのか?」

 心配する男に、セイは曖昧に答えてから、首尾を訊く。

「オレが、古谷を出る時にはまだ、その兆候はなかったが、石川と高野には知らせて置いた。内密に動いてくれるはずだ」

「そうか」

 こういう時は、体を分散できればいいと思う。

 出来ないから誰かに頼るしかないのが、とても歯がゆい。

「今からでも、練習してみようかな」

「ん? 何をだ?」

「分身の術」

 男、瑪瑙めのうは眉を寄せて、セイの額に手を当てた。

「熱はないな。薬のせいだな。あんたが何人もいたら、世界のあちこちで、ここみたいな宗教じみた場所が出来るぞ」

「何人いても、ここにいる分には、困らないだろ?」

 唸る男と共に立ち上がり、若者は顔を上げた。

 この上の方に、目的の者たちの隠れ家がある。

 この件を知ってから今まで、これ以上の悪さが出来ぬよう、目を光らせていたのだが、こうなっては仕方がない。

 森岡家の面々の裏の顔を、世論と法の二つの分野から、同時に流す。

 どちらの影響も受けない連中の片づけを、今のうちにやって置くつもりで、セイはここに来ていた。

 協力してもらうに当たり、数人の知り合いには自分の調査結果を、全て話してあった。

 その上で、瑪瑙はここにいる。

「あんたの言い分を、信じていないわけじゃないが、本当に堕ちる所にまで堕ちているのか? 更生の余地は、ないのか?」

「その時期は、とっくの昔に終わってる。あんたは、奴等よりも長くあそこに捕らわれていたはずなのに、こうして真面目な鬼に落ち着いたじゃないか。あの時であんなに幼かった奴らが、更生する気があるなら、こんな所に集まらないだろう」

 瑪瑙は詰まった。

 的を得た答えだったからではなく、これはセイなりの誉め言葉だと、はっきりと分かったせいだ。

 斜面を登り始めた若者の後を、咳払いしながら追い始めた瑪瑙は、直ぐに立ち止まった。

 前のセイも、呼び止める前に足を止める。

 ただならぬ気配が、突如現れた。

 何かが斜面の上の方から、転がるように走って来る。

 立ち尽くすセイを咄嗟に抱え、瑪瑙は身を隠した。

 予想以上に抵抗なく、しかも軽い体を抱えたまま身を潜めていると、泣きながらその傍を走り去る人物をやり過ごした。

 子供だ。

 その姿を捕え、つい動こうとする瑪瑙を、今度はセイが抑えた。

「大丈夫だ、あそこに……」

 言い終わる前に、その意味が分かった。

 子供の後姿を追った目が、別な何かを映した。

 木の上から音もなく飛び降りた、若い男。

 少年と呼んでもいい位のその男は、子供を掬い取り、直ぐに木の上へと飛び上がった。

 安堵する瑪瑙は、すぐに気持ちを切り替えた。

 子供を追って、数人の気配がバラバラな方向から、近づいて来たのだ。

 その数は、五人。

 きょろきょろと、辺りを見回しながら合流した男たちを見て、瑪瑙は舌打ちしそうになった。

 夜目にも目の血走り具合が分かる、大柄なその連中に、見覚えがあったのだ。

「くそっ。久し振りの獲物がっ」

「あんな小さいガキだ。どこぞに隠れているだけだ」

「かくれんぼか。面白え」

 そんな事を口々に言いながら、暫く探索する気配が続く。

 諦めが悪く、男たちが斜面を登り、隠れ家へと戻ったのは、数十分後だった。

 その間瑪瑙は、飛び出してそいつらをぶん殴りたい気持ちを、必死で耐えていた。

 一人の子供を、五人がかりで追いかけ、それを獲物と称していた。

 それを知っただけでも、手遅れだと感じとれる奴らだった。

「……くそっ」

 セイはあの時、邪魔をした子供たちを排除しようとしていたが、多恵が止めた。

 まだ若者よりも幼く、将来を見込まれると感じていたからこその、制止だったはずだ。

 厳しい寺に一人ずつ預けられたのだから、更生して天寿を全うしている者が、一人はいてもよかったはずだ。

「信仰心は、中々抜けないらしいな。預けられた寺で、全員真面目に修行していたらしいが、世話係の僧がいなくなった頃に、全員が出奔している。奴の事を、よっぽど好いていたんだろうな」

 奴、そう言う声音が、セイのいつもの声より固い。

「……奴も、いるのか?」

「ああ」

「いい度胸だな、あんだけ痛い目見たのに、またこの辺りを縄張りにするとは」

 話に聞いた時には、昔馴染みの背後にいる、更なる昔馴染みがいる事を、察することが出来なかった。

 いや、セイは意図的に、その存在が漏れないような、話し方をしたのだろう。

 古谷が係わるある事件。

 身近な刑事たちの上司に圧力をかけ、刑事事件での起訴が難しくなった事件が、セイを動かすこととなった。

 念入りに調べ、奥の方にまでそのメスを切りこませ、森岡家の面々がそれぞれ係わっている暴挙を、明るみにして来た。

 が、それを世間に知らしめるかどうかは、別だった。

 人智の沙汰ではありえない話も、中には含まれていたのだ。

 セイは、古谷が係わった件と、森口律が念入りに罠を張っている件は、どちらも世間へ知らせるべき問題だと、結論付けた。

 時期が来たら、律とも相談の上で、解決へと踏み出せるはずだと。

 もう一つの件、蓮が係わる件も、この二つと連動しているから、おのずと解決に向かうだろう。

 問題は、後の件だった。

 耳は疑うが、人が係わる事件の一つ。

 だが、これを明るみにすると、その被害者家族にまで、世間の好奇の目や批判が集まるであろう事件だ。

 そして、その後の証拠隠滅に、先程の五人が係わっていると、調べがついていた。

「しかし、今はあの件は抑えているんだろう? あの子は何処から、連れて来られたんだ?」

 ある施設が係わった、外に漏れない事件。

 その施設がなくなった事で起こっていた余波を、約一年前から抑え込むために、セイの願いを聞いた連中が、それぞれ動いていた。

 連動した動きではないが、それぞれの警戒心は、どの方向からの騒動にも瞬時に動ける、そんな構造になっていた。

「我慢の限界だったんだろう。一人でいる子供は、その気になればいくらでも探し出せる。そう言う気力を、我慢に当てられなくなった時点で、救えないな」

 セイの容赦ない言葉は的を射ていて、瑪瑙は溜息で答えるしかない。

「で、まさかとは思うが、あいつらの後に奴も、今夜のうちに片付ける気じゃないよな?」

「うちの連中が動き始めたら、すぐに調べがつきそうだ」

 セイはどの道、今のこの状態で帰らないと、事が収集しないと分かっていた。

 だが戻ったとしても、あの連中は自分のこの有様に怒り、この状況を作った連中を探す方向に動き、更にとんでもない行為に走ってしまうだろう。

「私がこのまま戻ってしまったら、その行為に走る度合いが高くなる。そう分かっていても、止められるかどうか分からない。なら、知られて困る部分は、今の内に消すしかないだろ」

 寒い時期なのに、保冷剤がひんやりと気持ちがいい。

 ついつい、そのひんやり感に浸りそうになりながらも、セイは再び斜面を登り始めた。

 唸りながら、瑪瑙も後に続く。

 見えて来たのは一戸建ての平屋で、ああいう身元も分からない者たちにしては、優遇されているらしく、作りも頑丈に見えた。

 山の奥に位置するここなら、多少声を張り上げても鳥か獣の声と思うか、誰かの奇声と考えるかどちらかで、気にもされないだろう。

 それは人間の感覚で、今に始まったことではないが、それを利用しようと考える奴が、一昔前はいなかったところが、大きく違う。

「人間の耳は、悲鳴と奇声、鳥獣の声と人の声の聞き分けが出来ないから、大変だな」

「気になるからと、無闇に警察に相談するのも、気後れするらしいし、本当に大変だよな」

 すぐに見に行けるならいいのだが、もしもの場合もある。

「そう言う聞き分けの装置を、今試作中らしい」

「え、どこで?」

「篠原電気工業。監視カメラと一緒に付けて置いて、人の悲鳴を察知したら、アラームが鳴るような物を、作りたいって言ってた。警察が直接動くように」

 篠原財閥、ともいえる大企業の中の会社の一つだ。

 親子二代で大きくなったその会社は、機械系の設計から部品の作成、組み立てから製品の販売に至るまでを担っている。

 県境のここは、いわば範囲外だ。

 だが、その目と鼻の先に腰を据えた連中はそんな言い訳で、起こってしまった事件を有耶無耶にする気は、全くない様だ。

「頼もしいな。都会の方では、身の安全を考える代わりに、育ち盛りの子供を自由に遊ばせることも出来ないと聞く。一つ提案だが、悲鳴を上げられずに、捕まる場合もあるだろう? 女子供が、誰かと揉み合って、連れて行かれそうになった時に、それを察知して警戒音を立てるセンサーも、出来ないか? 抑止力にもなるぞ」

 それなら、喧嘩沙汰にも併用できそうだと、瑪瑙が言うと、振り返ったセイは、眠そうに答えた。

「そう言う事は、その担当者に会って話したらどうだ? 今度紹介するから」

 男は頷いて、若者がその平屋に近づいていくのを、立ち尽くして見送った。

 こんな緊張する場面でも、人の思い付きの話を聞いて返事をしてくれるところも、尊敬できるところだ。

 ドアのノブに手を伸ばしたセイは、その手を途中で止め、眉を寄せた。

 鍵が、開いている。

 いや、まだ戸締りが必要な時間帯ではないが、ドアが半開きなのは不自然だった。

 慎重にドアに手をかけ、そっと開くとその目に赤い物が飛び込んだ。

 上がり框のすぐ前の畳部屋に、血の海が広がっていた。

 その真ん中に、誰かが立ち尽くしている。

 無造作に細身の仕込み杖を振り、血を払って鞘に納めた若者が、ドアの前で立ち尽くすセイに目を向けた。

 目を見開いている若者を見ながら、鏡月きょうげつがのんびりと笑う。

「遅かったな。ここは、残っていないぞ」

「……」

 一瞬、思考が止まったセイは、反応が遅れた。

 屋根の上から音もなく飛び降りた、もう一人の若者が飛び掛かり、セイの左腕を攫む。

 そのまま頭を攫もうとする蓮と、それに抗う若者を、瑪瑙は呆気に取られて見ていたが、揉み合う二人に近づいた、もう一人の若者の動きに気付いて、我に返った。

 すぐに制止に向かうが、遅かった。

「面倒臭いから、このままでいいだろう」

 血まみれの若者がのんびりと言い、セイの体に手を触れた。

 反射的に二人を振り払ったセイが、その場で体をふらつかせる。

 その腕を、屋根から飛び降りた若者が、再び攫んだ。

 咄嗟に振り払おうとする手を抑え、静かに言う。

「薬ぐらい、抜かせろ。薬中のままだと、本当に危ねえだろうが」

 静かな中に、心配の色が伺え、駆け寄ろうとしていた男は、目を見張っていた。

 そんな瑪瑙の目の前で、蓮は静かに続けた。

「事情は、あらかた分かってる。心配しねえでも、オレは、お前の味方だ。安心して、休んでろ」

 抗っていたセイが、動きを止めた。

 ゆっくりと顔を上げ、目線が同じくらいになった若者を見る。

 微笑んで頷く蓮を見つめ、顔を伏せた。

 そのまま意識を失ったセイを支え、蓮は大きく息を吐いた。

「危ねえな。薬を抜いてからって、話だったろうが」

 文句を言う先には、血の匂いに顔を顰めている鏡月がいる。

「時間は無限じゃないぞ。短縮できるところは、して置かんとな」

 答えながら、まだ立ち尽くしている瑪瑙の手からマイバックを取り上げ、セイの腕に巻かれた保冷剤を回収する。

「ほれ、もう必要ないから、持って帰れ……という訳には、いかんな」

 マイバックを差し出しながら鏡月は少し考え、手を引いた。

「そいつには、案内してもらわねえとな」

 まだ立ち尽くしている男に、蓮は切り出した。

「もう一つの案件の奴らは、どこにいる? ……おい、瑪瑙?」

 返事をしない男は、蓮とその体に抱き着くように体を預けるセイを、目を見開いて見ていた。

「こら、殴られてえのか?」

 ドスを利かせた声が響き、瑪瑙はようやく我に返った。

「あ、ああ、すまない。何だ?」

「もう一つの案件の奴らだ。どこにいるって訊いてんだ」

「え……」

 口ごもってしまう男に、鏡月がのんびりと言う。

「証拠を隠滅する奴らがいないのでは、向こうを公にしても、警察に無駄な捜査をさせるだけだ。片付けるのが一番だ」

「こいつが、戻る段取りをまだしてねえのは、そういう心算でいたからだろう? なら、その意は、尊重してやろうじゃねえか」

 瑪瑙は、そんな三人から目を逸らしつつ、頷いた。

「分かった。ちょっと歩く事になるが、大丈夫か?」

「池上が、下で待機している」

 けろっと鏡月が言い、瑪瑙を促して歩き出した。

 促されるままに斜面を下り始めた男は、肩越しに残された二人を振り返る。

 蓮が何事もないかの様に、セイの体を支えたまま両膝を腕で拾い、抱き上げた所だった。

「……」

 小さく唸る瑪瑙に、鏡月は振り返らずに言った。

「色気のある疑いは、やめておけ。裏切られるだけだ」

「ほ、本当ですか?」

 少なくとも、先程のやり取りは、妙な雰囲気だった気がするが。

 ついそんな事を思った男に、若者はしんみりと頷いた。

「そう、見えるだけだ」

 そう、なのだろうか。

 見目がいいと、そういう見え方になるのだろうか?

 唸り続ける瑪瑙と共に、鏡月は白いワゴン車の前についた。

 運転席の方の窓を軽く叩き、窓を下げた運転席の女に声をかける。

「場所移動だ」

「はい。後ろに着替えはありますので、着替えて下さい」

「分かった」

 後ろのドアを開き、中で若者が血まみれの服を着替える間に、セイを抱えた蓮が下りて来る。

 その姿を見て、女が嬉しそうに顔を赤らめるが、すぐに声をかける。

「どうぞ、乗って下さい。あなたは、場所の案内を、お願いいたします」

 最後に瑪瑙を向いて言い、ついで自己紹介した。

「申し遅れました。わたくし、上野うえの家の顧問弁護士の、池上いけがみと申します」

「どうも、瑪瑙、です。お話はかねがね……」

 挨拶を返しながら、男は助手席に乗る。

 場所を告げると、池上は頷き、エンジンをかけた。

「急ぎの調べだけでも、ひどい現状が分かる程だ。当時は、相当だったんだろう?」

 着替えを終えた鏡月が、のんびりと声をかける。

 若干、嫌そうな声音でのその問いかけが、次の目的の連中の事だと分かり、瑪瑙は答えた。

「だが、被疑者を起訴に持ち込めなかった。森岡家の顧問弁護士が、警察の上層部を、丸め込んで、捜査を打ち切らせたらしい」

 正しくは、圧力、だったが、どちらでも変わりはない。

「本来は、連続殺人で起訴できる件のはず。ですが、被疑者の身の上が、有利に動かせる事案なのです」

 池上が言い、苦い顔で続けた。

「本当の被害者やその家族を泣かせるのが嫌で、刑事事件には携わりたくないのです」

 その事件とは、苦い後味の残るものだった。


 一年前の事だ。

 秋が深まった頃の夕方、古谷家の経営する保育園の送迎バスが一台、破壊された。

 丁度、園児たちを見送る為、運転手も保育士もバスを降りていて無事だったが、真正面からぶつかって来た大型のワゴンは、突然の事で立ち尽くす子供たちや保護者、運転手や保育士の前で急ブレーキで止まり、後ろのドアを開けたと思うと大きな男が転げ出、保護者を突き飛ばした上で、母親の元へと引き渡されたばかりの園児を一人、抱え上げた。

 目を剝いた運転手が大男に飛びつくが、直ぐに振り落とされ道路に倒れ込む。

 縋り付く保育士を突き飛ばし、そのまま自動車の中に戻り、急発進した。

「あっという間の出来事だったそうですが、病院に搬送された二人の従業員が、ワゴン車のナンバーを覚えておりました」

 すぐに警察に通報し、搬送された二人と突き飛ばされた母親も幸いにも軽傷だったが、連れ去られた子供の安否が、なかなか分からなかった。

「陸空両方から探して、そのワゴンは見つけたんですが、連れ回している奴らが逆上して、子供に危害を加えられるのは、避けたくて。そのまま手をこまねいていたんです」

 高野と市原も応援に駆け付け、どうワゴンに近づいて子供を救出するか、徐々に犯人を追い詰めながらも、やり取りを重ねていたのだが、連絡用に持っていた携帯電話に、意外な着信が入った。

 珍しい着信で、つい電話に出てしまった高野に、無感情な声が尋ねる。

「今、古谷の前を通ったんだけど、妙に殺気立ってるんだ。何があったのか、知らないか?」

 古谷に直接訊いても、誤魔化されるか曖昧に返されるかだろうと考え、警察関係者に訊くことにしたらしい。

 こういう情報を、一般の人に流すのはと思うのだが、この人を一般の人と判断してもいいのだろうかとも思う。

 悩む高野の後ろから、市原があっさりと答えた。

「実はな……」

「市原さんっ、守秘義務はどうしたんですかっ」

 言いながらも、そのまま話すに任せた高野も、同罪だ。

 同乗者が他にいない時で良かった、無線でなくて良かったと、男が最低限の前向きで考えている内に、話を聞き終えた若者が言った。

「……今、どの辺りだ?」

 それにも、あっさりと答える市原に返事をしてから、セイは電話を切った。

 次に連絡が来たのは、三分後だった。

 無感情ながら固い声で、若者が短く告げる。

「子供は、車から出された」

「わ、分かりました」

 どんな手を使ったのかとつい感嘆したが、続く言葉で全く違う事態だと気づいた。

「堤防の上手側に、救急車をつけてくれ」

 更に短く言い、セイは電話を切ったが、完全に通信が切れる前に、まずに飛び込む音が聞こえた。

 その音で、何が起こったのか分かり、高野は青褪めた。

 慌てて待機していた救急車の、出動を要請する。

「ワゴン車を追って確保したのは三人、まだ十代の若者たちでしたが、すぐに署へと引っ張りました」

 そして、子供の方は……。

「堤防付近の川の中に投げ込まれたようで、直ぐに助けられて救急搬送しましたが、すでに、手遅れでした」

 投げ込まれた子供は、水を飲んでなかったと、助け上げたセイが、力なく言った。

 つまり、何らかの事情で子供は車内で心拍停止となり、邪魔と感じた犯人どもは池に投げ込んだのだ。

 刑事の中には同年代の子供がいる者もおり、そうでなくてもこの非道な行いに憤った高野たちは、徹底的に被疑者の起訴の手続きを進めていたのだが、それが打ち切られた。

「犯人の一人が、森岡家の次男坊だったんです。いたずらで子供を攫ったが、こんな大事になるとは思わなかったと、訳の分からない言い訳をしてくれていたんですが、弁護士が間に入り始めてから、こちらが不利になりました」

 しかも、それでも捜査を続けようとする高野たちに、上司が待ったをかけたのだ。

「どういう圧力のかけ方をしたのか、えらく真剣に打ち切りを強要したようです。呼ばれた奴も、クビ覚悟で捜査を続けると息巻いていましたが、それは止めました」

 要は、警察としてこの件を調べ上げるのは、限界となったのだ。

「というか、うちの署の管轄じゃなかったのも、限界となった理由の一つですが」

 高野たちが管轄している地域なら、誰がどんな圧力をかけて来ても、上司も黙認してくれるが、あの辺りはまだ、土地持ちに弱い。

「……という事は、お前も葵さんも、出稼ぎ状態だったのか?」

「ああ。ちと、変な話があってな」

 エンの問いかけに、高野は曖昧に答えたが、それに続いたのは長身の男だった。

 松本社長より三つ年上のその男は、二代目の篠原社長だ。

「実は、最近、病院の土地をそのまま、購入したんです」

「え、どうして?」

 松本がつい、敬語を忘れて尋ねると、篠原も言葉を崩した。

いつきの事故の時な、身に染みたんだ。例え命の危険が伴わないはずの症状でも、担当医師次第でそれも万全ではないとな。金田の弟の病院は、小さすぎるだろう? 救急指定にしようにも、医師不足でそれが出来ないと聞く。だから、金田と連携することにした」

 三年前、篠原氏は妻の斎を、事故で亡くした。

 救急搬送された先で担当した医師が、一般女性の事故と誤診し、処置をしたせいだった。

 当時、中学生だった息子が駆けつけた時には、母親は死に、まだ目立たない程に小さかった、妹となるはずだった胎児も、流産していた。

 最愛の妻を死なせ、一人息子となった子供を悲しみのどん底に落とした医師を、そんな判断ミスを犯す医師を雇っていた病院を、篠原氏は許せなかったが、同時に痛感した。

 まだまだ、この辺りは田舎の方で、医者も設備も万全ではないのだ。

 そう考えた敏腕社長は、優秀な医師となった金田の弟を巻き込もうと、病院の土地を探し始めたのだ。

 買い取ったのは、経営不振で手離された病院で、医師も看護師も丸ごと採用した。

「優秀な奴だけ選って、そのまま働かせる予定で、今は改装中だ」

「ちと、待て。あんた、その改装、どこに依頼した?」

「ん? 聞いてないのか? お前の兄貴の奥さんに、話を通したんだが」

 松本は目を細め、隣に静かに座る凌を横目で見た。

 松本勝の別腹の兄は、跡目争いが起こる以前に世を去った。

 その妻は病弱だが、建設物のデザインの腕が確かで、建築物を一から作る依頼の時は、依頼者の希望したデザインと、それを元にした間取りを作った後、作業員の手配の依頼が来る。

 改装だけでも似たような流れで、そのかなり前の過程で、社長の目に止まるはずなのに、それがなかった。

「その予定だったが、この病院にいた看護師がな、妙な話を言って来たんで、作業を中断している」

 凌が笑いながら言い、その向かいで溜息を吐くロンに声をかけた。

「ここから進展するから、あからさまに嫌がるな」

 セイが寝泊まりしている山の頂上の家から、古谷家に呼び出されて来たのは、篠原和敏と金田始だ。

 話をする上で、必要な人員だと言われて呼び出したのだが、世間話に明け暮れそうな空気が、事情を聞く側のロンを嘆かせていた。

「その病院は、結構大きな敷地を有していてな、だからこそ、あの地を選んだんだろうが……」

 その中に精神科があり、入院病棟もあった。

 そして、少し奥の方に、要介護の患者が入院する、病棟があった。

「その、二つの病棟は、今迄いた病院のどこよりも患者の出入りが激しかったそうだ。受付の人間は、退社希望だったんで話は聞けなかったんだが、残った記録を見ると確かに、転院や退院が短期間にあった」

 誰かが入院してきても、すぐに転院を希望する保護者が出て、去っていく。

 それだけなら、何か曰くがあるのかと、その担当看護師にならない様祈る位で、さして気にも留めなかっただろうと、その看護師は言った。

「気になったのは、その転院したはず患者の保護者が、一度乗り込んで来たからだそうだ」

 つい、最近だったと、その当時看護師は言った。

「患ってはいるが、一時的なものだと診断され、入院していたはずの娘が、なぜいないのだと半狂乱で、病院側としては、転院が保護者同意の元と思っていたから、混乱するしかなかったそうだ」

 困って医院長に話を通し、保護者と病院の間に入った人物が、ようやく事を治めてくれたが、保護者の方のあの剣幕は、本物だったと看護師は思い返していた。

 自分が来る前にも、似たような保護者が来たと、年配の看護師が言っていたとも話し、興味を持った凌にその看護師も紹介してくれた。

「そっちも似たような話だったが、それとは別に面白い話をしてくれた」

 経営難とはいえ、今迄何とか病院を潰さずに済んだのは、患者を金持ちに高値で買い取ってもらっていたからだと言う、あり得ない噂が暫く流れていたと、その年配の看護師はしんみりと話した。

「まさか、そこまでとは思うが、あの状況だとあり得たかも知れない」

 転院や退院する患者は、全て女かまだ十歳に満たない子供だったからだ。

「一度、看護師も一人不審な辞め方をしているから、滅多な疑いはかけられなかったと、そう言っていた」

「そんな事を聞いたもので、一応この人に、あの周辺を探索してもらうように頼んだんだが……話を、通してなかったんですか?」

 篠原が、意外そうに凌に問うと、松本が代わりに答えた。

「森岡が怪しい動きをしているから、あの辺りを見て回ってみると、一方的に言われただけだ」

 苦い顔の男の、肩を軽く叩いてやりながら、銀髪の男は続けた。

「看護師の言う、その病院と保護者の間に入った人物の容姿が、森岡家の弁護士のものと、一致したんでな」

 律の隣で、顔を伏せたままだった水月は、顔を上げて凌を見た。

「名は? 何と名乗ってるんだ?」

酒井さかい鳴海なるみ、です。その、病院の件、患者の保護者側から相談があったんです」

 高野が、静かに答えた。

「河原の管轄の地の話です。だから、森岡家の影響でもみ消された」

「? もみ消されたのは、その子供を連れ回して死なせた件じゃ、なかったのか?」

 エンが、ふと気になって問うと、高野の傍で座っていた河原が苦い顔になった。

「それも含んでの森岡の件が、もみ消されました。いや、偶然とはいえ、捜査関係者の娘が狙われるとは、思わなかった。お蔭で、同僚の一人が今、使い物にならない」

 春日かすがみやこ、それが連れ回され、命を落とした子供の名だった。

「ですから、道路交通法と過失死傷で裁判を起こし、損害賠償を搾り取ろうと思っているのです。勿論、そのようなあぶく金、亡くした命の代償にはなりません。ですが、気休めになればと思うのです」

 古谷氏が力強く言い切った。

「……セイは、その話に深く絡んでいたのか?」

「裏で、だ。姿を見せないように、慎重に動いておられた。いや、初めは、違ったようだが」

 エンの問いに答えた高野が不意に笑い、古谷と並んで座っていた塚本を見た。

「……話さねば、なりませんか? これは、極秘にしたいのですが」

「どうせ、姐御には、知られているんだろう?」

 塚本は溜息を吐いてから、重い口を開いた。

「実は、松本さんの所の様に、うちにも元祖と、呼ばれる方がおります」

「あら、どんな?」

 つい、いつもの口調で問うロンに、凌が顔を顰めるが気にする者はいない。

「血の繋がりはありません。初代の塚本を育て、代々守って来てくださった方なのですが、体が弱く、外に出て来ることはありません」

 それなのに、ある時、古谷家にただ一人で現れた。

「しかも、高野さんや私を呼び出し、古谷さんの時間の都合のつく時を見計らって、乗り込んでこられたのです」

 ただでさえ白い顔を、青白くさせながら現れた元祖は、慌てた塚本と何が起きたのか分からず戸惑う二人の前で、言い放った。

「あいつを、止めろっ。あんなやり方じゃあ、あいつ自身の身が、もたない」

 何のことかと顔を見合わせる三人に、驚くような事を言う。

「ここに呼び出したから、お前たちで説得しろっ」

「は? 誰を……」

「いや、呼び出されたけど、ここじゃなかったよな?」

 無感情な、しかし若干呆れ気味の声が、答えた。

「済まない。一緒に来たんだけど、まさか玄関から入らない程の、礼儀知らずとは思わなくて」

 聞き慣れた声に振り返った三人は、ぎょっとして固まった。

 玄関から案内されてきたセイは、驚きで顔を引き攣らせた、古谷夫人を後ろに従えていた。

「わ、若? どうされたのですか?」

 目を剝いたまま古谷氏が尋ねると、セイは微笑んだまま首を傾げた。

「何が? どうもしてないよ。この人に呼び出されたのに、逃げられたもんだから、追って来ただけだ」

 嘘だと、その場の三人は確信した。

 これは、相当不味い状態だと。

「……古谷家には、代々の当主の覚書が残っております。当主になる前にそれに目を通したのですが、その中に、あの時のお話が残っておりました」

 セイが仲間たちを殺戮するに至った経緯と、その前触れ。

「……あの時にも、初めは無邪気に笑っておられたと」

 その後、一切の表情を消し、雅が止めるまでその顔が変わることはなかったと、言い伝えられていた。

「まあ、その後、その無邪気な笑顔が、そんな前触れにしか浮かばないのは勿体ないので、精進するようにと、書き添えられているのですが」

 兎に角、その時の笑顔も、三人を見惚れさせるのに、充分な破壊力があった。

 そうなる前に危機感を持てたのは、塚本家の元祖が口の中で悲鳴を上げたせいだ。

「ほら、おかしいだろっ? 絶対こいつ、何か考えてるっ」

「そりゃあ、少しは考えてるよ。仕事もしてるし」

 微笑んだままのセイの言い分は無視して、シロと名乗る女は説明した。

「伊織に頼まれた件を、詳しく調べ直していたら、こいつの形跡もあったんだよっ」

「個人的な調査にまで、難癖付けるのか、あんたは?」

 返す若者を凝視し、塚本氏が恐る恐る切り出した。

「もしや、森岡家の次男坊の件を、詳しく調べておいでなのですか?」

「ああ。でも、あくまでも興味本位だから、あんたらの邪魔はしないよ」

「してるじゃないか。お前、何か隠しただろ?」

 女を見つめて答える時も、セイの笑顔は変わらない。

「隠してはいないよ。あんたらには係わらない部分は、調べられない様にはしたけど」

「それを、隠したって言うんだよっ」

「必要のない部分なんだから、いいじゃないか」

 そんな問答を聞きながら、三人は黙って考えた。

 そうして、初めに声をかけたのは古谷だった。

「若、もしや、私の保育園の園児と従業員が巻き込まれた件、何か裏があるのですか?」

 振り返るセイに、高野も確信した問いを投げる。

「森岡家の係わる件は、あれだけでは、ないんですね?」

「警察は、調べようとしていたけど、捜査を打ち切ったんだろ? なら、話す必要もないはずだけど」

「ですが、あの地では打ち切られた、というだけです」

 きっぱりと言い切った刑事に、若者は眉を上げた。

「あんたの所で、続けてるのか?」

「うちの上の倅が、順調にいけばあの地への配属になるでしょうから、それまでに出て来る杭は打っておきたいのです」

「……明彦あきひこは、そんな年齢だったっけ」

 痛い指摘だが、高野の言葉は本音だった。

 まだ、警察学校で学んでいる最中の息子だが、いずれはキャリア官僚として、故郷に舞い戻る。

 身内が署内で揃う事はなさそうだが、その近辺で陣取れるようになる手はずだ。

「森岡家が害になると言うのなら、早めに排除したいのです」

「篠原さんが、あの辺りの土地を買い取った話は、もう耳に入っておりますか?」

「相変わらず、豪快な人だよな」

 塚本の問いに頷いた若者に、この中で一番若い男は頷き返して言った。

「病院を再建するに当たり、あの家は障害になります。ですから、世間的にも早めに排除したいのです」

「それは、他の方向からされるから、心配いらないよ」

「じゃあ、どの方向から、お前は狙ってるんだ?」

 シロが青白い顔のまま、言いつのった。

「お前、小細工なしであの家に、ぶつかる気じゃないのかっ?」

「そこまで、無謀じゃない」

 頑なな若者に、女はついに宝刀を抜いた。

「分かった。こうなったら、腹をくくって吐いてもらおう。伊織」

「はい」

「雅を呼べ」

「分かりました」

 すぐに頷いた塚本が、携帯電話を取り出す。

「待てっ」

 珍しく、セイが声を張り上げた。

「……呼ばれたくないなら、正直に話せ。私が、どうして、お前が何かを隠したと気づいたと思ってる? その前に、あの周辺を調べた事があるからだ。あるはずの情報を隠すなんて芸当、お前くらいしか出来ないだろ?」

「こういう引っ掛けにかかる程に、怒っておられるんですね」

 しみじみと、塚本が言った。

「お忘れですか? 雅様は、通信機類を持っておりません」

 その時集った三人は、この地に最も長く根付いていた家柄で、セイだけではなくその側近連中にも、物おじしない。

 だからこそ呼ばれたのだろうと納得していた三人は、女の望み通りに若者を一歩引かせることに成功した。

「その時、若が調べた森岡家の内情、この内の一つが、そちらの森口様の受け持つ案件だから、係るなと釘を刺されております」

 律が、黙ったまま頷いた。

 説明する気のない狐に眉を寄せつつ、オキが確認する。

「……お前の件で、セイに危害が及んだんじゃあ、ないんだな?」

 水月とは逆隣りにいる男を一瞥し、律は首を振った。

「違うとは言い切れません。先週、これまで動かずに行き先が不透明だった件が、急に動いてしまったので、それが原因だとは思うのですが、私の方の件と係わりがないとも言い切れないのです」

「先週……もしや、あれが原因ですか?」

 古谷氏が、珍しく目を剝いて声を上げた。

「ええ。どうもその件が、あなたの御家族にまで、危害が及びそうになった原因のようです」

「なるほど、だから、若が……」

 古谷氏が、これまた珍しいほどの深い溜息を吐いた。

「ん? 何の話だ? 分かるように、説明してくれ」

 エンが、穏やかに声をかけた。

 その声音に、若干のいら立ちが混じっているのに気づいた高野が、苦笑してから答えた。

「先週の森岡家絡みの事件なら、あれだろう? 畑中隆と森岡涼子の発見の記事」

 先週ある山奥で見つかった、二つの白骨遺体の件だった。

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