第3話

 高校一年になった。

 関東の私立校で無事進学でき、周囲の同級生とは適当に付き合いながらも、その生活を満喫している。

 森口もりぐち水月みづきは、その日の昼休み、保護者から連絡を受けた。

 携帯への連絡で、そのこと自体珍しいのに、今夜は戻れそうにないと言う断りの電話だった。

「仕事が、立て込んでるのか?」

 大物政治家の隠居に際しての後片付けは、既に随分前に終了し、今はまだ無名のその後継ぎを警護しているはずの保護者の言い分に、水月は首を傾げた。

「ええ、少し厄介な事になりました。夜ご飯は適当に食べて下さい。でも、決して、台所には立たないでくださいね」

 何度か豪快料理を試そうとして、台所近辺を足の踏み場もない状態にしたのを根に持って、保護者はしっかりと釘を刺してくる。

 だが、水月はそんな忠告に返事をせず、静かに尋ねた。

「厄介な事とはなんだ? あの狐の後継ぎは、無害な男だろう?」

「その人とは、無関係です」

 素っ気ない返事に、水月は小さく笑って呼びかけた。

りつ、今、どこにいる?」

「……」

「言わずとも、直ぐに行く。学校への早退連絡、早急にしろ」

 簡潔に、しかし有無を言わさぬその声に、電話の向こうの相手は溜息を吐いた。

「近くの空港にいます。待ちますから、交通機関で来てください」

 昼間の爆走は、目立つと言う律の言い分に従い、水月はすぐに空港に向かって、合流した。

 そして夕方の今、地元よりはるか南に位置する地の、ある屋敷内の中庭に、進入している。

「……不法侵入じゃないか。まずいんじゃあ?」

 言いながらも一緒にいる水月に、その傍に控える女が苦笑してから答えた。

「まずいんだけどね、それはお互い様だ。ここの連中、人を一人拉致して連れ去った。それを、取り返しに来ただけなんだよ」

 中々、物騒な話だ。

 厄介の一言で語れない話に、水月は逆隣りに潜む保護者を見上げた。

 昔の教えを徹底的に守り、その気で匂いを嗅がないと女と分からない程の変化をした律は、隣の会話に混ざらず、建物の方を険しい目で凝視していた。

 その傍に、音もなく男が近づいて来る。

 振り向きもせず、律が問う。

「どうだ?」

「はい、見つけました。既に自我が崩壊気味のようで、それが気がかりですが、回復可能な状態です」

「そうか。最大限の治療の、準備をしておけ」

 男は頷いて、少し躊躇った。

 続きを無言で待つ上司に、男はもう一つ報告する。

「例の人の方は、今、奴の部屋にいます。指示通り、その場所の特定と火種の用意をしましたが……良かったのでしょうか。あの腕、もう……」

「準備が出来たのなら、それでいい。余計な事は考えるな」

「は、すみません」

 建物を睨んだまま、律は次の指示を出した。

「十分後、騒ぎを起こせるように待機しろ。救出する」

「了解しました」

萌葱もえぎ、お前も行け」

 萌葱と呼ばれた女は無言で頭を下げ、水月に笑いかけてから姿を消した。

 二人になったが、何かを問いただす前に、律の懐から振動音が聞こえた。

 目を動かさずに携帯を取り出し、相手を確かめずに電話に出る。

「……どうしたんですか? また何か難しい話ですか?」

 相手の声を聞いた律は、少しだけ表情を緩めたが、別な緊張が生まれたようで、空いた手を握りしめた。

「いえ、こちらには何も連絡はありませんが、どうしたんですか?」

 慎重に答えながらも、何故か顔を強張らせて頷いた。

「そうですか、分かりました。連絡が来たら、あなたに知らせます。はい」

 必死で柔らかい声を作って電話を終えた律は、切った途端盛大な溜息を吐いた。

 何かに毒づきたいのを耐える為に、そんな溜息を吐いたように見える。

「どうした? 今の、オキだろう?」

 心を許したはずの相手からの電話の後にしては、表情が優れない。

 水月の心配の声に構わず、律は隠れていた場所から出て、屋敷の方へと歩き出した。

 余りに無防備な動きに、少年は驚きながらもすぐ続く。

 素早く屋敷に入り込み、迷うことなくある部屋に忍び込んだ。

 小さくないその部屋の板張りの床は、やけに散らかっていた。

 誰かの上着らしきものが散乱し、端の方にある書斎机の上も、物がぶちまけられている。

 律はその有様を見下ろし、苦い顔で書斎机に近づいた。

 机の上に散らばる物を見下ろし、古風の携帯電話と、昔懐かしい刃物を手に取った。

「……」

 舌打ちしかねない顔で振り返り、黙って見守る姿勢になった水月を連れて、その部屋を後にした。

 人の気配や匂いはするが、警戒する気配はない。

 妙に緩い空気が、部屋のあちこちで感じられる。

 この感じは、大事が終わった後の、安堵しきった頃の空気だ。

 ここで騒ぎを起こされても、警戒心が薄れたここは、直ぐには動けまい。

 そう判断する水月は、律が向かっている部屋に気付き、立ち止まった。

 奥まったその部屋からは、興奮した男の匂いがする。

 相手は男の興奮に沿っている様子もなく、かと言って抗っている様子もない。

 動かず反応もないと言う事は、動けない者を相手に、そういう場面が繰り広げられていると言う事だ。

 しかも、性別に違いはあれど、人間ならばすぐに分かるはずの相手の匂いが、水月にすら嗅ぎ取れない。

「……まさか」

 先程のオキとの電話の様子と、無言を貫く律の様子に、少年は事情を察した。

 部屋の前に立ち、そっと手を伸ばして扉を細く開けた律は、ノブにかけた手を強く握り締めた。

 怖いもの見たさで、部屋をそっと覗きこんだ水月も、小さく唸る。

 小太りの男の、半裸の後姿が見えた。

 同じように半裸にされた相手の姿に興奮し、未だ最悪な場面ではないが、薬か何かで抵抗のない者の体を、嫌らしい手つきで触る様は、このまま飛び掛かって斬りつけたい気分にさせる光景だ。

 見ていられず、少年が保護者の弟子を見上げた時、丁度その手が動いた。

 滑るようにポケットに手を入れ、そのまま手にした物を構える。

 目を疑った。

 普段使っている警棒ではなく、明らかに殺傷能力のある、小さな拳銃だったのだ。

 銃口の先には、興奮する小太りの頭がある。

 引き金に手がかかる前に、水月が思わず声を張り上げる前に、予想もしなかった変化があった。

 ぼんやりと薄目で空を見ていた、寝所の上の若者が目を剝いたのだ。

 馬乗りになっている男を力いっぱい突き飛ばし、不意を突かれた相手に蹴りを入れる。

 目を疑う少年の前の扉まで素早く向かい、その隙間から室内を隠すように背を向けて立った。

 薬まみれにしては、機敏な動きだ。

「こんな所で、何やってるんですかっ」 

 金色の髪を乱したまま、若者が吐き捨てるように言ったが、息を乱しているのは今の動きのせいだけでは、ない様だった。

「ここまで大っぴらに動いたら、駄目でしょうがっ。しかも、何を、ぶっ放そうとしてるんですっ?」

「……こちらには、こちらの事情がある。お前さんこそ、何でこんな所に来てるんだっ? それこそ、おかしいだろうっ?」

 声を籠らせた責めの言葉に、律も小声で反論した。

「お前さんは、私の件では、係わっていないはずだな? どうしてここにいるっ?」

「それが分からないから、大人しくしてたんですっ。それなのに何で、あなたが……」

「こら、ちょっと待て」

 つい、水月が会話を遮った。

 それでようやく、学生のはずの少年がここにいるのに気づいたセイは、目を見開いて振り返った。

 更に何か言いかけるのを、水月は低い声で遮った。

「お前、まさか、さっき動かなかったのは、狸寝入りでやり過ごす気だったから、なのかっ?」

「ええ、その通りです。この子は、状況を把握するためという言い訳で、あのおどろおどろしい状況を、寝たふりでやり過ごす気だったんですっ。ただ、今は逃げるのが面倒だ、と言うだけの理由でっ」

「お前な、そんな事、平気でやってると親が知ったら、泣くだけじゃ済まんぞっ」

 責め口調の少年に、振り返ったまま反論しようとする若者の前に、律が言った。

「オキから、連絡があった」

 目が合った若者に、律は静かに言う。

「お前さんと連絡が取りたいんだが、電話が通じない。今、どう言う仕事に係っているか分からないかという、よくある電話だ。今の事は知らないが、何か連絡があったら知らせる、そういう返事で事足りたが、問題は、そこじゃない」

 白狐は、目を据わらせて黒い瞳を見返し、続けた。

「その電話の背後に、人の気配があった。仕事仲間にしては多く、それ以上に緊張感が滲む連中の気配だ」

「え……」

 若者にしては珍しく、顔を強張らせた。

 その様子を見ながら、律は肝心な事を口にする。

「間違いない。お前さんが昔、解散させた連中が、再び集い始めているんだ。お前さんが、何らかの危険にさらされていると、既に気づかれている」

 動揺して顔を伏せたその背に、律は真剣に言った。

「もう少しだ。後もう少しで、こちらの件は治められるんだ。今更、あの連中の餌食には、させるな。この意味、分かるな?」

「……」

「驚いている暇はないぞっ、返事はっ?」

 どすを利かせたその声に、若者は必要以上にびくりとした。

「は、はい。すみませんっ」

「よし」

 律は息を切らして頷き、手にしていた物を部屋の中に放り入れた。

「あと三分後だ。騒ぎが起こるから、お前さんもそれに乗じて逃げろ。いいな、連中を、早く安心させてやれ」

 言い捨てて、相手の返事を待たずに歩き出した。

 外に出て一息ついた弟子に、水月はようやく声をかける。

「あの子が戻れば、安心するか?」

 扉越しに見た、若者の姿。

 それを見て疑問を抱いた少年に、律は疲れたように答えた。

「安心してから、あの現状にした者を、草の根分けても探し出そうとするでしょうね」

 だがそれは、難しいはずだ。

「あの子の周囲には、様々な筋のプロが控えています。側近の思惑より、あの子の意志を尊重して、叶えるに足りる力を持つ者たちです。その人たちが、全力で阻止に動くはず」

 昔、盗賊と呼ばれた殺し集団の復活を、阻止しようと動くはずだ。

「それが不発でも、あの子の丸め込みの技量が上がっていれば、時間稼ぎにはなるでしょう」

 こちらの案件が動くまでの、時間稼ぎ。

 理屈で動かないあの連中を、その間だけでも留めてくれていれば、こちらとしては有り難いと、律はようやく笑った。


 母親夫妻が経営している喫茶店に、例の自動車が車体を寄せた時、様子見の段階は過ぎていると気づいた。

 他に客がいないのを確かめ、注文する代わりに母に切り出す。

「御免、出直す」

「え、どうしたの?」

「間に合わなかったら、早めに窓を開けて、換気してくれ」

 真顔でそんな事を言う若者に、ライラは何かを感じたらしい。

 カウンター内の大男と目を合わせ、足早に扉に向かうセイの背中を見送った。

 結構、強めの薬だ。

 換気をしてくれてはいるはずだが、これはウルには大打撃な量だった。

 眠気と戦いながら、残した両親を気にしていたが、事態はそれどころではなくなった。

 嘘だろ……と、連れていかれた先で、セイは頭を抱えたくなった。

 険しい顔で見下ろす、小太りの男。

 十年で、何があったと心配するほど変貌した、ある事件の関係者だった。

 この事件の当事者であるその男が、なぜ自分を狙ったのかという、戸惑いからの嘆きではない。

 この男と家族は、刑事事件に値する話だけでも、五つの件を有する、いわば最悪の案件だったのだ。

 これでは、どの件を目的とした拉致か、判断できない。

 薬で鈍った体に、部下たちは殴る蹴るの負荷を与えた後、拷問へと切り替えたが、曖昧な尋問の前では、何も反応できない。

 答える気は毛頭ないが、何かを知りたいなら、何を知りたいのか明確に訊いて欲しいものだ。

 どうせ、生かして返す気は、無い筈なのだから、それ位優遇してくれてもいいのにと、耳障りな音を聞きながらも、セイは嘆いた。

 だが、どの件が目的なのか、唐突に分かった。

 部屋に放り込まれた私物を見下ろしたまま、セイは動揺をやり過ごしていた。

 律がここに現れたのも驚きだったが、聞かされた内容が衝撃だったのだ。

 時間がないと、上に羽織る物を見繕って手に取り、私物に手を伸ばす。

 刃渡りの長さが法律で変わって以来、重宝している武器と、折り畳み型の携帯電話だ。

 電話を開くと、メールが二件入っていた。

 着信は、数件入っている。

 メールの一件は、蓮だ。

「さっさと脱出しろ」

 何もかもを分かったかのような、文面だ。 

 小さく溜息を吐いて、二つ目のメールを開く。

 自分の身を心配する一文と、もう一文。

「無事脱出できた後の、連絡をお待ちします」

 それを見て、心を決めた。

 まずは、律の言う通りに、この場を脱出する。

 三分はすぐに経ち、ボヤ騒ぎに乗じて屋敷の外へと出られた。

 適度な速さで、不自然に見えない様な挙動を心掛けながらも、屋敷を遠ざかる。

 小高い丘の上に立つ屋敷の下方には、市内と市外を結ぶ裏道が通っている。

 時刻は五時過ぎで、丁度工事車両が多く行きかう時刻だ。

 その道路を見下ろし、セイは静かに丁度いい車両が通るのを待つ。

 数分後、市内の方から大量の土を積んだトラックが、走って来た。

 そのトラックが真下に来る前に、若者は躊躇いなく道路へと飛び降りた。

 水を含んだ重い土は、人一人の体重の振動を吸収し、振動を消してくれた。

 うまく目的の足を手に入れたセイは、その振動で響いた腕の痛みをやり過ごし、すぐに身を起こした。

 少しの移動でも体力の消耗が激しい今、待ち時間をかけてでも退避行動が必要だ。

 トラックに乗る人間と、後ろを走る車両に気付かれぬよう注意しながら、暗くなった道路の脇に目を凝らす。

 この辺りはまだ開発途中で、山を切り開く工事の為、崖が多い。

 ガードレールの向こうが、切り崩された崖と小さな川が流れている光景は、意外にどこそこで見られる。

 この辺りも、その一つがあった。

 それを見つけ、トラックがカーブに差し掛かった時、セイはまた躊躇いなく、ガードレールの向こうへと飛び降りた。

 走り去るトラックを背に、角度がきつい場所を抜け、足場を見極めてその場に降り立ち、体勢を整えたが……その足場が、若者の重みで脆くも崩れた。

 間違えたっ。

 体勢を整える間もなく、セイは崖の下の方まで滑り落ちてしまった。


 古谷家を訪ねた四人は、子供に迎えられた。

 古谷家の一人娘だ。

 初対面のエンに、丁寧に挨拶をした綾乃は、妙におどおどとして大人たちを見上げた。

「どうしたの? セイちゃん、ここには来てないよ」

「みたいだね。間が悪いんだよね、最近」

 雅は頷いて、綾乃を優しく見下ろした。

「学校は終わったの?」

「うん、今日は、給食を食べたら、帰る日だったの。習い事があるけど」

「お父さんは?」

 綾乃は、首を傾げた。

「さっき、お出かけしたよ。法事じゃないのかな」

「そう、困ったな」

 雅も首を傾げ、少女を見た。

「君がどうして、大人が入るようなお店に、寄り道していたのか訊くにも、古谷さんを挟まなかったら、脅しに聞こえそうだ」

「お、となの人が入る、お店?」

 きょとんとして訊き返してすぐ、綾乃はぽかんとした。

「雅さん、もしかして、セイちゃん見つけたのっ?」

「ん?」

 予想外に食いついた少女に、雅は目を見開いた。

「見つけたって、どう言う事?」

「え? 違うのっ?」

 我に返った綾乃は、再びおどおどとして顔を伏せる。

「違うんなら、知らないっ」

「いや、知らないじゃないぞ、綾っ」

 メルがつい近づいて言った。

「お前、あの店で、何があったのか、知ってるのかっ?」

「知らないもんっっ」

 泣きそうに顔を歪ませ叫んだ少女に、メルは狼狽えた。

「な、泣くなよっ。悪かったから……」

 泣き出した少女を前に、動揺している女を見やりつつ、蓮がぽつりと言った。

「ガキのくせに、泣き真似が、上手いじゃねえか」

 綾乃の嗚咽が、止まった。

 それ程、冷ややかな声での呟きだった。

「蓮、怖い声出して、怯えさせちゃだめだよ」

 雅が苦笑して窘めるが、蓮は少女を見下ろしたままだ。

「怯えてんだったら、もっと泣き出すはずだろうが。お前、オレたちがここに来ると、知ってたんじゃねえのか?」

 綾乃が少し口をとがらせて、蓮を見上げた。

「……」

「そんな顔しても無駄だ。一応な、こっちの仕事にも触る話なんだ。きっちり話せ」

 綾乃は肩を落とし、朝の事を話し出した。

 セイが自動車で連れ去られた下りで、三人の男女の空気が凍った。

「拉致? 朝っぱらから?」

「この辺では、珍しいね。治安が良いのが売りなのに」

「……どんな自動車だった?」

 動揺しているにしては冷静な会話の後、エンが静かに問いかけた。

 その空気に身を縮ませながら、少女が答えると、今度は目を細めた蓮が問う。

「ナンバーは? どこの土地でどんな番号かくらいは、見えたか?」

「松本さんの車のと同じ名前の……」

 地名とその後のナンバーを告げると、蓮が頷いた。

「それは、葵たちにも、教えてんだな?」

「うん。聖ちゃんのお父さんが、ちゃんと言っておいたって」

「なら、特定は、時間の問題だな」

 蓮は小さく笑い、言った。

「すぐに、あいつも見つかるだろ」

「……警察なんかの、捜索で?」

 雅がやんわりと返した。

 目を細めた蓮に、エンも穏やかに言う。

「運よく見つかったとしても、手遅れの可能性も、あるでしょう」

「まあ、それは、あいつの運次第だろ」

「それじゃあ、どうにもならねえよ」

 メルが最後に言い、拳を振り上げた。

「どこの誰かは知らねえが、あいつを傷もんにする気かっ? 許さねえっ」

 予想通りの展開に、蓮は小さく溜息を吐いた。

 少しは予想外の展開になってくれてもいいものを、こいつらの反応は、全くぶれない。

「じゃあ、どうすんだ? エンの話は、後回しか?」

「勿論だ。そんなもの、後でいい」

 はっきり言い切られ、当のエンも頷いている。

 それなら、蓮もここに用はない。

「ま、頑張ってくれ。オレはこれから予定通り、仕事に向かう」

「おう、悪かったな」

 あっさりと解放され、蓮は古谷家を後にした。

 遠ざかりながら、携帯電話を取り出し、本日の仕事の相棒に連絡する。

「これから向かう。セイは、来れねえ。どうやら、サカイの件に、引っかかったみてえだ。……ああ。その間に、出来る限りの情報を頼む」

 電話を切り、蓮は歩きながら深く考えた。

 セイはこの件に、係わっていない。

 情報を定期的に、流してくれていただけだ。

 なぜ奴らは、自分たちを飛ばして、セイを狙ったのか。

 それだけが、疑問だった。


 山のセイの寝泊まりする家に、仲間が続々と集まり始めた。

 呼ばれた塚本も、あっさりと事情を吐き、情報の共有をしてくれる。

 一通りの情報の交換と、その後の情報網の確立が終わった後、初めて顔を合わせる者たちが、挨拶を交わすと言う呑気な場面が続いた。

 が、緊迫した空気は居座っていた。

 夕方になっても、未だセイの安否が分からないでいたのだ。

 オキが躊躇ったのちにかけた、最後の綱もあてにならず、途方に暮れた空気が漂い始めた。

 そんな時、松本まつもと建設の社長の携帯が、着信を告げた。

 相手は滅多に電話のやり取りがない男で、まさるも目を見張ってしまったが、出た途端にすぐに切れた。

「……何だ、いたずら電話する奴じゃ、ないのに」

「どうしたんだ?」

 見とがめた岩切いわきりが問うと、松本は難しい顔で答えた。

「今、子連れで小難しい件を、取り扱ってる奴がいるんだが、そいつから、珍しく連絡があったと思ったら、切れた」

 一応、セイの人相だけでも告げて、見かけたら保護してもらおうと思っているのだがと唸る松本に、小売業者の岩切も小さく唸った。

「もう少し、範囲を広げる必要が、あるかもしれないな」

「ああ、それは、考えてた。県内中に、何とか手を広げたいと思う。市内だけだと、こういう時に、若をお助けできない」

 真顔で頷き合う二人を、松本家の二人の息子が見上げたが、次男坊が小さく父親を呼んだ。

「? 何だ?」

 次男坊のとおるが人差し指を立てて、自分の携帯電話を前に出した。

 通話中の表示があり、録音もしているようだ。

 ただならぬ様子に気付き、周囲の大人も注目する中、その電話から静かな男の声が流れた。

「お前さん、うちの社長と、顔見知りだったのか?」

 松本が、目を剝いた。

 さっき自分に電話してきて、すぐに切った男の声だ。

「だったら尚更、安心できるだろうに。どうしてそんな真似をする?」 

 落ち着いた声に答えたのは、聞き慣れた無感情な声だった。

「……本当に、松本建設の、関係者なのか。……知らなかった」

 周囲がどよめいた。

 

 最近、平和である。

 どの位平和かというと、借金まみれの父を持つ、中学生の真摯な思いに耳を向け、ついつい仕事をあげるようにと、松本に掛け合ってしまう程だ。

「平和慣れは、怖いんだぞ。体が鈍る」

 真顔で言う大男は、色白の肌と銀髪のせいか、妙にほっそりとした美男子に見える。

「はあ」

 相槌を打つ方は、今年中学生になった少年だ。

 大沢おおさわしのぶというその少年は、サラ金に手を出した父親の死に際して、松本家に助けてもらった。

 出世払いでいいと、借金を肩代わりしてもらったのだ。

 松本建設の従業員には、そう言う訳ありの若者が多い。

 その中で、忍は最年少だ。

 借金は肩代わりしてもらったが、義務教育の間の給食費や教材費が、母親の負担になると、忍は松本家にバイトを申し込んだのだ。

 若すぎると渋った社長に、家事手伝いのお小遣いのつもりの仕事ならいいのではと、提案してくれたのが、一緒にいる大男だ。

 凌と名乗るその男は、夕方のこの時期に、ある屋敷の近くの川沿いを探索すると言って、忍を連れ出していた。

「あの屋敷は、ある名士の別宅なんだ。今の代の当主になってから、何故か羽振りが前以上に良くなってな、こういう別宅が他にもある」

「後ろ黒い家、なんですか?」

「ああ。オレたちは下手に触ると、藪蛇になりかねないから、今のところは時々見て回るくらいしか出来ない」

 物騒な話に顔を歪めた忍に、凌は真面目に頷いて見せた。

「自爆する素質は、大いにあるんだが、どうやら優秀な弁護士がついているようだ。そいつを負かせる奴が出てこない限りは、この辺りに管を撒き続けるだろうな」

 余りに目に余る仕儀で、それを止める事態になっても、こちらが手を出したと証明できるものを残さぬように、凌が動いているのだと言う。

「そんなところを、僕が手伝うんですか?」

「手伝うと言うより、オレが失敗した時の、連絡役だな。万が一、捕まって見ろ。松本建設は大打撃だ」

 意外に重大な役回りだ。

 首をすくめた忍を連れ、男は先に立って川沿いを歩いていたが、不意に足を止めた。

 目の前の崖が、地崩れを起こしたのだ。

 何かが巻き込まれたのか、大きな音と共に何かが滑り落ちて来る。

「あの辺りは、土が乾いてるからな。誰もいなくて幸いだった」

 そう言って通り過ぎようとして、再び足を止めた。

 滑り落ちて来たものが、身動きした。

 生き物だったかと目を凝らし、目を見張る。

 人、だった。

 膝をついて蹲る様に座る姿は、忍よりは大きいが、凌より遥かに小さい。

 弱いながらも早い呼吸を整え、身を起こしたその人物は、立ち尽くす二人の人影にぎょっとして、身を竦めた。

「大、丈夫か? どうして、こんな所を落ちて来たんだ、お前さん?」

 見下ろした顔は色白く、月明りでも分かる程に整っている。

 金髪のその顔を見下ろしたまま、凌は何とか声をかけたが、戸惑いが頭を占めていた。

 見返す方も、黒い瞳を揺らし、戸惑っている。

 意外に若いその人物に近づき、忍が息を呑んだ。

「凌さん、この人、手……」

 我に返ってその指摘された方を見ると、座り込んだ若者の右腕が、力なく落ちたままだ。

 その手の向きが、おかしい。

「お前さん、まさか……」

 低い声になってしまうのを止められず、そのまま尋ねた。

「森岡家の別宅から、逃げて来たのか?」

 若者が、無言で目を見開いた。

 すぐに険しい目になったのを見て、慌てて言いつくろう。

「勘違いするな、オレはそことは係わりない。むしろ、敵対する立場だ。安心しろ」

 言ってから、ついつい言ってしまった。

「お前さん、そんな状態で、良く逃げて来れたな。普通なら逃げる気力を失ってるぞ」

 思わず感心してしまった男に、若者は意外にも無邪気な目を向けた。

 不思議そうな顔に苦笑し、凌は若者の前に膝をつき、忍に声をかける。

「勝に電話してくれ。森岡の被害者を保護したってな」

 何気なくそう言って、ポケットから出した携帯電話を、少年の方へと放った。

 再び若者に目を向けると、目を剝いた若者が身を引いた。

「勝? まさか、松本建設の?」

「何だ、うちの社長を知ってるのか? なら……」

 言いかけた凌の顎に、固いものが突き付けられた。

 気づいた忍が小さく悲鳴を上げて、電話を切ってしまう。

 固い筒状な物のその感触は、見えない凌にも何なのか分かった。

「立って、離れてくれ」

 いつの間にか、自分の懐の中の拳銃が、若者の手の中にある。

「おい、やめろ。実弾入ってるんだ。間違って撃ったら、まずい」

 言いながら、忍が握り締めた携帯電話に、集中する。

 両手を上げて立ち上がり、そっと後ろに下がる男を見届け、若者はゆっくりと銃口を前に定めた。

「あんた、松本家と知り合いなのか?」

「ああ、社長にも、よくしてもらってる」

 頷いた男の前で、若者は深い溜息を吐いた。

「お前さん、うちの社長と顔見知りか? だったら尚更、安心できるだろに。どうしてそんな真似をする?」

 静かに問う凌を見返し、若者はかすれた声で呟いた。

「本当に、松本建設の、関係者なのか。……知らなかった」

 様々な感情が、その最後の言葉に込められていた。

「オレの事は、今はどうでもいいだろう。お前さん、その腕は、早く手当てをした方がいい。そうしないと、動かなくなるどころか……」

「それこそ、どうでもいいです」

 無感情に、若者は男の心配の声を遮った。

「すみませんが、暫くでいいんです、私に会った事を、松本家には伏せて貰えませんか?」

「何でだ? 手当よりも、大事な事があるとでもいう気か?」

「すぐに、死ぬ怪我じゃ、ありませんから」

 平然と言われ、凌は表情を険しくした。

「お前さん、一体何者だ?」

 どういう肩書なのかという意の問いに、若者は無感情に首を傾げた。

「何者と言われても、答えられません。自分でも何者なのか、はっきりと分からないんです」

「……」

「これは、後でお返しに上がります。詫びもその時に。どうか、お願いします」

 凌は頭を下げられて、空を仰いだ。

 星が綺麗だと感嘆しながら、言う。

「銃で脅しながら、願い事するな」

「すみません」

「だが、分かった。事情は知らないが、よっぽど優先しなければならない事が、あるんだろう。しばらくは、黙って置く」

「……有難うございます」

 銃を構えたまま、若者は深々と頭を下げた。

 そのままそっと移動するのに、男が呼びかける。

「寒いだろう? 持って行け」

 言いながら脱いだジャケットを、若者の足元へと放り投げた。

 逃げるのに必死だったのか、若者の来ている上着は、薄いシャツだけだ。

 見ているだけ、で寒い。

「ちゃんと、詫びと共に持って来てくれ。いいな?」

 放り投げられた服を見下ろし、男を見返したその目は、戸惑いがあった。

 笑いかけて頷いてやると、また深々と頭を下げる。

 ゆっくりとジャケットを拾い上げ、若者はゆっくりと歩き出した。

 その背が斜面を遠く登るのを見送ってから、凌は携帯電話を持ったまま固まっている、忍を振り返った。

 電話を取り、声をかける。

「透、それ、一応社長に……」

「叔父上っっ、何で素直に、あの子を行かせたんですかっ?」

 すごい剣幕の男の声が、凌を遮った。

 目を細め、その台詞の意を考えてから、低く返す。

「何では、こっちの台詞だな。ロン、お前いつから、あの子を保護してたんだっ?」

 電話口で、甥っ子が詰まった気配があった。

「どういう教育をしてくれたんだっ? 人を銃で脅すような子に、育てたのかっ? 意外に様になってたぞ」

「怒ってるんですか、褒めてるんですか?」

 どちらだろうかと、凌もつい考えた。

 生きていただけでも、驚きだった。

 もうこの世にいないと、ずっと前に諦めていた子供が、先程急に、目の前に現れたのだった。

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