第2話

 日本と言う国は、実に様々な神の風習を受け入れる。

 元々、禁止されていたはずの宗教も、こういう形で受け入れられ、すごいと感心すべきか呆れるべきか。

 みやびは一月余りも先の行事の色に染まった街の、広場のベンチに腰掛けて溜息を吐いた。

 まだ十二月の初めなのに、どうしてクリスマスソングが流れるのか、こんなに照明が明々と煌めいているのか。

 何よりも、どうしてこんな時期に、自分は友人に呼び出されて、ここで待ち合わせているのか。

 明るい街並みとは裏腹に、暗くなってくる雅は、軽いノリで近づいて来る若い男を鋭く睨んだ。

「怖い顔だなあ、ミヤ。そんなんじゃあ、年間行事も楽しくないだろ」

 そんな女に気軽に声をかけて来たのは、雅と同じ年ごろの女だった。

 長身で静かな雰囲気の日本美人な雅とは違い、今時の若い格好も似あう愛らしい女だ。

 明るい髪色の女は、目を据わらせて自分を見返す女に苦笑した。

「君は、楽しめてるようで、何よりだよ」

「お前にも、楽しんで欲しいんだって」

「無理だよ」

 平日なのに、この人出。

 すでに人疲れ気味の雅が、げっそりと返す。

 そんな友人を見上げ、メルは頷いた。

「うん、やっぱり、今日でいいよな」

「? 何?」

「お前に、少し早いクリスマスプレゼント、あげるよ」

 何かを含んだその言葉に、雅は逆に不安になる。

「いらないよ。私も、そういうのは、用意しないし」

「お返しはいらないよ。オレの、心ばかりの気持ち、だから」

「? 余計に怖いんだけど」

 いいからと笑いながら、メルは雅を促して歩き出した。

 バスに乗って移動し、雑談しながらその外の風景を眺めていると、意外に見慣れた風景が広がって来た。

「? あおい君の山じゃないか」

 今は違うが、昔葵が住んでいた山だ。

 今は、れんが寝泊まりしているとは聞いているが、こんな所に、どんな用があると言うのか。

 首を傾げた雅とバスを降りたメルは、バス停の傍で手持無沙汰で立っていた若者に、声をかけた。

「出迎えありがとうな、蓮」

「どうしたんだ、やけに明るいじゃねえか」

 振り返った若者は、メルの後に続いて下りて来た雅を見て、目を見開いた。

 久し振りに間近で見る蓮は、また成長しているようだ。

 髪が長いのは変わらないが、目線は雅と同じくらいにまで高くなっている。

 目を見開いて女を見ていた若者が、目を細めてメルを睨んだ。

「おい、婆さん、あんた、うちの襤褸家を、壊す気か?」

「こら、人目がある場で、婆さんはやめろっ」

「んなことは、どうでもいいだろうが。きっちりと答えろよ。一体、何を企んでんだ?」

 メルの意見はあっさりと蹴り、蓮が目を細めたまま詰問すると、女は真顔で答えた。

「お前な、そろそろ、あいつをどうにかして、身軽になってくれよ。そうじゃねえと、ヒスイをここに呼びにくいじゃないか」

「会う必要もねえ人と、何で会わせたがるんだ、あんたは」

「会う必要あるじゃねえかっ。あいつは、お前の父親だぞっ」

 蓮の目が、細くなるを通り過ぎ、据わった。

「まだ、そんな寝言を言ってんのかよっ。それとも何か? オレが、本当のことをバラしちまっても、いいのかよ?」

「待てっ、もう少し、時間を置いてくれよ。言いにくいんだ、な、分かってくれよ」

「何百年かけて、真実明るみに出す気なんだよ、あんたはっ」

 完全に世間ずれしている若者に、メルの泣き言は通じない。

 話は半分しか分からないが、雅は助け船を出すことにした。

「蓮。私、家を壊す程乱暴な性格、してないつもりなんだけど、どうしてそんなに嫌そうな顔するの?」

 何故か、予想よりも反応があった。

 蓮が、一瞬声を詰まらせたのだ。

 咳払いし、直ぐに返事したが、目が少し泳いでいる。

「あんたが壊すとは思ってねえよ。うちの居候がな、あんたと会ったら、どんな反応するか不明なんだ」

「? 私を、嫌ってる人を、居候させてるのか?」

「……」

 返答に困った蓮の代わりに、メルが首を振って答えた。

「嫌うと言うより、動揺しそうなんだ」

「……分かってんなら、せめて、家以外で会わせろよ」

 つい嘆く若者に、メルは真顔で返した。

「何言ってんだ、分かってんだろ? あいつは、ミヤと顔合わせと聞いたら、逃げる。だから、知らせず会わせるのが、一番いいんだよ」

「……仕方ねえな」

 溜息を吐き、蓮はようやく歩き出した。

 山を登りながら、携帯電話を出して、誰かを呼び出す。

「……出ねえな。ちっ、また緊急案件が入ったか。間が悪いな」

「ん? 仕事があるのか?」

「仕事じゃねえが、昼から、会う約束がある」

 メルの問いに何でもないように答え、若者は別な相手に電話をかける。

 一言二言話し、すぐに電話を切ると、溜息を吐いた。

「駄目か。仕方ねえ、腹をくくるか」

 何やら心に決め、蓮は足早に歩き出す。

 ついたのは、昔懐かしい小屋の前だ。

 少しずつ、古い部位は修理しながら住んでいる小屋は、意外に頑丈な作りに見える。

 蓮は、小さな戸口に立って、中に呼び掛けた。

「おい、客が来た。茶を頼む」

 気楽な呼びかけに、すぐに出て来たのは、長身の男だった。

「珍しいですね、初見の御客ですか?」

 言いながら中から顔を出した男は、穏やかに笑いながら雅を見た。

「……」

 雅の顔が、驚きで引き攣った。

 対する男の顔も、笑顔が固まり、後ずさる。

 よろめいて柱を攫もうとする男の腕を、蓮が寸前で捕まえた。

「これ以上、壊すんじゃねえ」

「す、すみませんっ」

 我に返って謝ってから、男は蓮を見た。

「な、何で……」

「オレじゃなく、婆さんに訊け」

 すがるような目がメルに移ると、女はしたり顔で言った。

「お前な、いつになったら、居候を辞めるんだ? いい加減、雅の元に戻らないと、迷惑なんだよ」

「だったら、前もって言ってくれよ。心の準備が……」

「心の準備? そんなもん、必要ないだろ。会えば後は、どうとでもなるんだよ」

 胸を張った言い分に、男は困って固まったままの雅を見た。

 上から下まで男を見て、再び顔を見上げた雅は、久し振りにその名を呼んだ。

「……エン、か? 本当に?」

 答えられない男に歩み寄り、女は更に尋ねた。

「エンなのか、何で、ここにいるんだ? 私は、てっきりもう……」

 その後の言葉が続かず、顔を伏せる女を見下ろし、エンは呟く様に答えた。

「すみません……」

「謝ってくれとは、言ってないっ」

 着古された上着を攫み、雅は遮った。

 混乱し、戸惑う二人の様子をしばらく見守った蓮が、頭を掻いて声をかけた。

「中に入って話そう。エン、茶と、昼飯の用意を頼む。ミヤ、そいつから話すより、まずは、そいつがここに来た経緯を、オレから話してやるよ」

 その提案に、振り返った女の目は、恨みがましい。

「その話の後で、怒りでもなんでも、そいつにぶつけろよ。外なら、いくら暴れても構わねえから」

 その目に笑いかけながら、若者は静かに促した。

 こんな状況を作り出した者を思い浮かべ、毒づきながら。


 早い話が、この家の前に、エンが倒れていたのだと言う。

「それは、いつ?」

「あんたらが、古谷に腰を落ち着けたと聞いた年の、冬だ」

「……じゃあ、いなくなって、すぐだね」

 どんよりと呟く女が座る前方に、ちゃぶ台越しに座った蓮が、記憶を遡って話し出した。

「朝起きて外に出たら、雪に埋もれてエンが倒れてた。随分長く倒れてたようで、見つけた時には意識がなくてな、助け出して一応の処置をしてから、セイの元に知らせた」

 が、セイの反応は、恐ろしく鈍かった。

「ああ、あの時は、まだ解散直後だったから」

 雅が頷き、メルも暗い顔で頷く。

「そうらしいな。反応が鈍いんで、ちと不思議だったが、エンに後で聞いた。あいつ、仲間を粛正したらしいな」

 人がいなくなった時期を見計らって動いた、自分を排除しようとする仲間たちが、庇ったジュリの命を奪った。

「あの時、エンを支持する動きが、見受けられたんだ。あの子の姿かたちが、余りにも頼りなかったんだろうね。男衆が出払った隙をついて、あの子に頭を下りるように迫った上で、命を奪おうとした」

 立ち尽くして、その刃を受けようとしたセイを、ジュリが庇った。

 倒れる女にすがる若者に、笑顔を向けて囁く友人の顔を、雅は鮮明に覚えていた。

「そこで、キレたんだよ、セイは」

 メルが続けたが、雅は違うと知っていた。

 あの笑顔は、残った仲間を怯えさせ、躊躇いなく自分に異を唱える者を殺戮したが、それは、正気のままの所業だった。

 その証拠に、雅の言葉を解し、直ぐに振り返った。

 あの時、早めに戻ったロンとゼツは呆然として、セイの姿に憤って成敗する事を願う反乱分子を、抑えきれないでいた。

 そんな様子に業を煮やし、雅へと矛先を向けた者がいたのだ。

 エンのすぐ近くにいる女で、弟子でもある雅が、エンの崇拝者であると思い込んだそいつは、セイの成敗を願った。

「我々は、エン様こそが、頭にふさわしいと思うのですっ」

 そんな事を言う者たちに、雅は優しく笑った。

「なら、エンの為に、死ねるか?」

「勿論ですっ」

「そう、じゃあ、死んでもらおうか」

 優しく笑ったまま言った女のその後の行動に、男たちもメルも、身を凍らせた。

 そんな仲間たちの目を受けながら、雅はセイに声をかけたのだ。

「もう、君を害する者はいないよ」

 そう、呼びかけた。

 初めて行った大量の殺戮に、体が悲鳴を上げるのを感じながら、雅は出来るだけ優しく、若者に語り掛けた。

 振り返って、女の有様を見たセイは、素直に顔を歪ませた。

 何かを言いかけて、声を出せない若者に、雅は笑いかけた。

 声が震えないように気を付けて、話しかける。

「私は、君がここの連中をどうしたいのか知ってる。その為なら、どんな手助けもすると昔言っただろ? 半分は私が受け持ったから、もう、止まりなさい」

 体が強張ってしまった雅を、セイはすがるように抱きすくめた。

 その辺りから後の事は、ここで話さない。

 あんな、愛らしいセイを独り占めしてしまった、負い目があるのだ。

 メルも話したいと思わないのか、そこで話を戻した。

「……まあ、色々とごたついている時に、エンの怪我が深刻なものだと分かって、その後、姿を消した」

 生きる気が、無くなったのだと雅は思った。

 そう言った女に頷き、蓮が続ける。

「死ぬ気で姿を消したのに、何故か葵が住んでたここに来た。一度も足を踏み入れたことのねえはずの、この場所に」

 疑問だったが、何となくそれを画策した者は分かった。

「あいつの親父が、ここに誘導したんだろうな」

 何故かは知らないが、一応親として気にしていたのかもしれないと、蓮は思う事にした。

 そう納得した上で、蓮はその後のエンの処遇を、セイに切り出したが、若者の反応は鈍かった。

 そのまま放って置いてやってくれと、あっさり言われた。

 事情を知らないままだったあの時、反論しようと口を開く前に、セイは首を傾げた。

「そんな状態のエンを置いて来た時点で、あんたもそのまま放って置く気じゃ、なかったのか?」

 そう言われて、蓮は青くなった。

 図星、だったからではない。

 留守を頼んだ者の、方向感覚を忘れていたのに、気づいたせいだ。

「あんたな、オレや婆さんを、この件で責めるのは仕方ねえが、葵は責めるなよ。あいつがいなかったら、オレが戻った頃には、エンはここにはいなかった」

 慌てて戻った蓮が探し出した時、山の奥の方で半泣きになった葵を、エンは戸惑いながら宥めていた。

「方向音痴はあいつも知っていたが、まさか、自分の住処の山でまで迷う奴とまでは、思ってなかったらしい」

 その後、元の状態に戻るまでには時間がかかったが、元々働き者だったのだろう。

 自失状態は、意外に早く溶けた。

「食事の後の片づけから始まって、オレたちの留守中の掃除もしてくれるようになって、今じゃあ、家事全般を任せてる」

「そこまで回復してるのに、何で、姿を見せないんだ?」

「あんたが、あいつを死んだと思い込んでたのも、理由の一つだと思うぜ」

 雅が、声を詰まらせた。

「それは、仕方ないだろっ。あいつ、看病しようとするこいつを、締め出したんだぞ」

 絶望が頭を支配したエンは、雅の心配を拒否した。

 その時点で、弟子としても女としても役立たずだと、雅は引くしかなかったのだ。

「あいつにそれ聞いた時、タコ殴りにしてやったからな、ミヤ」

「え、本当にしたの?」

 力強く言うメルに、驚いて訊き返してしまう雅に、蓮が冷静に答えた。

「あいつが、こらえきれずに反撃する前に、止めさせたがな」

 反撃したら、女の命が危ない。

 その時にはすでに、そこまでその負傷が変化していた。

「ん? 変化?」

「これも、戻ることを躊躇った、一因だと思うんだが……」

 蓮は、どうそれを説明するか考え、ちゃぶ台の真ん中に置かれた、籠に山盛りの小さなミカンを一つ手にした。

 前触れもなく、雅の方へと放る。

 宙に浮いたそれを、雅は反射的に受けようと、手を伸ばした。

 すかさず、そんな女に若者が注意する。

「潰すんじゃねえぞ」

「馬鹿にしてるのか。それ位の加減は、出来る」

 返しながら、雅はうまい具合に、ミカンを受け止めた。

「まあ、それが普通だな。だがな、見とけよ」

 蓮は、その結果に頷いてから、もう一つミカンを手に取り、おもむろに放り投げた。

 そのミカンは、丁度障子を開けて、盆を右手に乗せ直した、エンの前に行った。

 男は目を見開いて、反射的に左手を掲げる。

 途端に、ミカンが無残につぶれてしまった。

 その汁に驚き、盆を取り落とそうとする前に、若者はその盆を受け、唖然と見守った雅に言った。

「こう言う状態なんだ。四、五十年前から」

「そんなに、前から?」

「ああ。お蔭でな、今なら、かなり高値のはずの食器の類を、ガラクタにされちまった。これ以上、オレとしても物を壊されたくねえんだ。出来れば、熨斗つけて送り出したい気分だ。持ってってくれるか?」

 突然の提案を、女は潰れたミカンと、後ろめたそうにするエンを見比べながら聞いた。

 まだ考えがまとまらない雅を見返し、エンが気を取り直して咳払いする。

「送り出すって、セイに返されるならまだしも、この人はオレと何の係わりもないのに……」

「係わりない? お前、本気で言ってんのかよっ」

 メルがつい声を張り上げた。

「そりゃあ、諦めは早かったけどさ、お前の事は、この数十年、故人として悼んでたんだぞっ」

 言わないでくれ……雅は、メルの真剣な主張に、頭を抱えてしまった。

 故人と思い込んだら、直ぐに切り替えてしまうのは、昔からだ。

 それが誤りであると、確かめる術はあったのに、それをしなかった自分にも非はあった。


 昼過ぎに昼食を終え、四人は揃って山を下りた。

 深い話は、もう少し強い発言力のある仲介の元でと、蓮が主張したのだ。

「この後、仕事を通じて集まる二人が、仲介にはもってこいだろ」

 言いながら、蓮はまた電話を手にその相手らしい人物と話し、眉を寄せながら電話を切る。

「……やっぱ、突発の仕事が、入っちまってんのか」

 小さく舌打ちし、そのまま他の男女と歩き出した。

「仕事を通じて集まるって、待ち合わせて仕事するってこと?」

 雅が気になって問うと、蓮は首を振った。

「仕事は仕事だが、一人は只の協力者だ。出来る限りの情報を提供してもらってんだ。その件がちと、複雑な事件でな、一人で受けもって襤褸出しちまったら、次捕まえるのが骨入りそうな案件なんだよ」

 気長に待つしかない案件で、定期的に情報の交換をし、チャンスを伺っているのだと言う。

「気長にって、どれだけ待ってるの?」

「それがなあ、今年で十年経っちまうんだ」

 メルが目を剝いた。

「お前、事件って言ったよな。刑事事件なら、早いとこ解決しねえと……」

「世間に、判明してる刑事事件なら、な」

 この事件は、迷宮入りどころか、事件として見られていないものらしい。

「依頼者が爺さんでな、早く解決してやりたかったんだが、調べてる内に十年経っちまった」

 説明しながらも、その内容までは口にしない。

 聞いている方も尋ねることなく、全く別な事を尋ねた。

「もしかして、その協力者って、セイ?」

「ああ」

 仲介と聞いてもしやとは思っていたが、当たりだった。

 何故か唸り、雅が言う。

「あの子と、頻繁に会ってるの?」

「まあ、時々な。年に一度あるかないかだが」

「そうなんだ……」

 唸り続ける女に、蓮は小さく笑いながら言った。

「直接山に行って会うのは、確率低いんじゃねえのか? 電話の一つでも持てよ」

「壊しそうで、無理だよ」

 テレビをつけるのも、まだ少し怖いと言う雅に、メルは呆れた。

「お前、ちょっとそれは、遅れ過ぎじゃねえの?」

 その後何故か、時代の流れの話が延々と続き、あっという間に目的の地域についた。

 徒歩の割には、バスより早い到着だ。

 取りあえず古谷家に寄って、セイの連絡を待とうと言う事になり、向かう一同の目に、見慣れた店の、見慣れない風景が目に移った。

 十数年前に開かれた、今も昔も流行っていない、小さな喫茶店だ。

 その喫茶店の中から、何やら賑やかな気配はする。

「……何年か前にも、賑やかになってた時あったけど……」

 雅が首を傾げた。

 あの時の賑やかさは、会議途中に似た物々しさがあったが、今回は騒動の後の賑やかさ、と言うべき気配だ。

「とうとう、あそこのマスター、問題を起こしたか?」

 蓮が呟き、メルが目を剝いた。

「それまずいよ。葵や朱里まで、迷惑被るじゃん」

「ライラさんは兎も角、あの狼さんには、一度きっちりと釘を刺さないと、駄目かな」

 それぞれ好き勝手言いながら、それでもその店を素通りして行こうとする一同は、店の中から出て来た男に気付いた。

「葵じゃん、身内の尻拭いしてんのかな」

 呟くメルの目には、大柄な見慣れた男が、妙に落ち着きなく立ち、続いて出て来た男と深刻な話をしているように見えた。

「ん? どうして、検事と話してるんだろ」

「へ? 検事って、検察官の事か?」

 雅は頷き、葵の後ろの男を指さした。

「あれ、塚本検事だよ。もしかして、刃傷沙汰じゃあ?」

 続いて出て来た男を見て、蓮が溜息を吐いた。

「こりゃあ、何かやらかしたな、あのおっさん」

 三人目の男も、葵と同じ刑事だ。

 ここまで見たからには素通り出来ず、一同は店に近づいたのだが、それに気づいた三人の反応は、意外なものだった。

 雅と蓮に気付き挨拶した葵は、その後ろから来るメルとエンを見て、目を剝いた。

「え、エン、お前、姐御と一緒って事は、戻る気になったのか?」

「半強制的に、そうなりそうです。お世話を掛けました」

「い、いや、別に、世話もしてねえけどよ……随分、急だな」

 引き攣ってそう答える大男の後ろで、素直に青褪めてしまったもう一人の刑事、高野たかの信之のぶゆきが塚本伊織いおりと目を交わす。

 塚本検事は、無言で頷いてから眼鏡の位置を戻し、ゆっくり微笑んだ。

「お久しぶりです、雅様」

「うん、元気そうでよかった。聖君も、変わりない?」

「はい。見慣れぬ方々と連れ立って、どちらにお出かけでしょうか?」

 整った曇りない笑顔の男に、雅は優しい笑顔を返しながら答えた。

「古谷家で、セイの帰りを待つことになったんだ、色々、こじれてるのは知ってるだろ?」

「成程。私も最近、若とは顔を合わせておりません。お会いできましたら、よろしくお伝えください」

 女は優しく頷いてから、不意に尋ねた。

「この店で、何かあった?」

「あ……それが、異臭騒ぎで」

「異臭? 獣臭?」

 葵がすぐに答え、雅の軽口に軽く笑った。

「どうやら、質の悪い悪戯で、匂いのきつい薬を投げ込まれたらしいんです。で、お義父さんが倒れちまいまして」

「ウルさんが? 強烈な匂いだったんだねえ」

 ウルは人の世界に慣れ気味で、巷で流れる匂いならば大抵耐えられる。

 だが、その大男が耐えられなかったほどの、異臭らしい。

「まだ朝早くて、誰も客がいなかったのが幸いして、被害者はお義父さんだけです」

「それは、良かった。でも……」

 雅は違和感を感じて、首を傾げた。

「どうして、悪戯の様な件に、塚本さんまでいるの?」

「慌てた奥様が、近場の私に連絡をくれたんです」

 連絡を貰った塚本氏が、葵に連絡を入れたらしい。

「ふうん」

 まだ、何か違和感を感じたが、雅は納得して頷く。

 会話の間、蓮は店の扉の方を凝視していたが、話が途絶えたのを見て切り出した。

「薬ってのは、どんな薬だ?」

「それがな、来た時には換気されてて、匂いも残ってなかったんだよ」

「それじゃあ、事件性があっても、調べられねえじゃん」

 メルが呆れて言い、エンが首を傾げた。

「マスターらしくないな。それだけ匂いがきつかったからだと言われれば、仕方ないが……」

「で、あの狼のおっさんは、無事なのか?」

 蓮の問いに、葵はゆっくりと首を振った。

「倒れちまって、寝込んでる」

 病院にかかるわけにもいかず、家の中で寝込んでいると言う。

「ふうん、つまり、換気したのは、夫人か」

「ああ、出来れば、大きな騒ぎにしてほしくねえらしい」

 言い分は分かると、一同が頷く中、蓮は扉の方を見たまま、沈黙した。

「? どうした、蓮?」

 葵が気にして尋ねると、その顔を見据えて蓮は笑った。

「な、何だよ」

「いや、異臭って程の匂いは、出さねえ筈だぜ、この薬は」

「そ、そうなのか?」

「ああ」

 ぎくりとした大男に、若者は不敵に笑いながら続けた。

「ほぼ無臭で、一嗅ぎすれば、吸った奴の意識を一瞬で奪い去る、裏じゃあ重宝がられてる薬だ」

 言いながら、残りの男たちを見回し、ずばり尋ねた。 

「この店の中に、マスター夫婦の他に、誰がいた? そいつ目当てで、この店に薬撒いた奴がいるって事だろ?」

 だが、動揺して狼狽えたのは葵一人だった。

「誰も、いなかったそうです」

 そう答えたのは、高野だ。

 中肉中背のその男は、がっしりとした顔を蓮に向け、笑顔を浮かべた。

「奥様の証言です。何なら、確かめてみてください」

「……」

 その笑顔を見て、エンが静かに目を見張った。

 同じように目を見張った雅と目を交わし、笑顔を戻す。

「そうか。取り越し苦労なら、良かった。蓮、行きましょう。騒ぎを大きくしたくないのなら、その処理も大変でしょうから、ここから先、部外者は邪魔ですよ」

「そうだな」

 蓮もあっさりと頷き、四人は三人の男に背を向けた。

 古谷家へと向かうその背を見送り、葵がまず苦い溜息を吐いた。

「誤魔化し切れなかった、くそっ」

「お手数をお掛けして、申し訳ありません」

「いや、礼には及ばない。これは、そうするに値する事案だ」

 塚本が静かに頭を下げるのに、高野が首を振って返した。

「誤魔化せないのも、想定内だ。あの面々の事は、古谷さんが何とかしてくれる。後は、若の連絡待ちだ」

「しかし、怪我の功名とはよく言ったものです。蓮殿の意見、参考になります。その薬の入手先を絞れば、あの方の手助けもやりやすくなると思われます」

 頷き合った刑事と検事の様子に、葵は舌を巻いた。

 あの連中を煙に巻き、裏をかいてやろうと考えることすら、葵には出来ない。

 肝の据わった二人に、大男はただただ感心していた。

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