私情まみれのお仕事 お家絡み編
赤川ココ
第1話
そこは、この地でも有名な観光名所だが、身投げも多い場所でもあった。
老人は、ついつい交通機関を用いてここまで来たが、そんな気は微塵もない。
微塵もないが、ぼんやりと滝を眺めるさまは、見る者からするとそう見えてしまうかもしれない。
そう言う考えが頭にあって避けた訳ではないが、今日は休日ではない平日の中日だ。
この数か月の間にあった出来事が、年を老う身には重くのしかかり、そんな様子を見て他人に気遣われたくなかったのだ。
ある会社の会長の座を辞し、ほんの数か月だ。
娘婿に後を譲り、隠居生活を楽しもうと思っていた矢先の、二つの悲劇。
それは老人にとっては信じられない話であり、何度も警察や周囲に訴えた。
だが、無駄だった。
いつの間にか、自分には年による病があると言う認識が、良識ある者達の中にも浸透してしまっていて、信じる者がいなかったのだ。
なぜそうなったのか、誰が画策してそうなってしまったのか。
考えるのも、疲れていた。
滝が真正面に見える池沿いのベンチに腰掛け、老人はぼんやりと水の流れを見つめる。
平日で、遠足や旅行も少ないこの時期でも、暇な若者はいるらしい。
昼を過ぎる頃、老人がいる隣のベンチに、テーブルを挟んで若者が三人集まった。
若い三人は、何やら明るく話していたが、隣で座る老人の様子に、何か感じたらしい。
「……場所を、移動しないか?」
無感情な声が、他の二人に切り出した。
それに答えたのんびりとした声が、面倒くさそうに言う。
「もう腰を落ち着けたんだ、面倒くさい。大体、今時珍しくもないだろ。爺さんの身投げなど」
明らかに自分の事を言っていると、老人はぎょっとして振り返るが、気にせず声が続けた。
「本当に身投げした時に、すぐに逃げれば問題ない」
「そうか? そこに、監視カメラがあるのに?」
「お前が改竄しろ、改竄」
「無茶、言うなよ」
無感情な声が呆れて返した時、黙っていたもう一人が笑いながら言った。
「話に夢中で、気づかなかったと言えばいいだろ。オレたちが移動するまでの大事じゃねえよ」
あんまりな言い分に、老人が思わず立ち上がった。
隣の席に歩み寄り、無言で睨む。
藤に覆われた席に座って、目を丸くする三人は、予想以上に若かった。
まだ十代に見える三人の内、一番若そうな若者が、笑みを浮かべた。
驚くほどに、包容力のある笑顔だ。
腰まである長い黒髪を、後ろでしっかり束ねたその若者は、老人を見ながら言った。
「ふうん、怒る元気があるなら、身投げはねえんじゃないか?」
「世を儚む年でもない様だ。そこまで生きたのなら、天寿を全うしてから死んでも、あまり変わらんぞ」
薄く笑いながらのんびり言う若者は、その若者より年かさだが、若いのには変わりなく、十代後半位だ。
瞳の色が薄い印象を受けるその若者は、場所替えを提案した若者を見た。
「何を警戒していたんだ、お前は?」
「……そう言う警戒じゃないんだけど、まあいい。もう、話を進めよう」
溜息を吐いて答えたのは薄色の金髪の、色白の若者だった。
現れた老人を、一瞥した後は、こちらを見ない。
言いながら、上着から紙切れを、二枚取り出した。
それを見て、年かさの若者が笑みを浮かべる。
「やっと、オレたちの報酬か。永かった」
「遅くなってすまなかった。片づけに、少し手間取ったんだ」
「痛い目見た分、少しくらいは色、ついてんだろうな?」
金髪の若者がテーブルに置いた紙切れを、二人の若者は当然のように受け取って、その数字を見た。
小切手らしいその紙に書かれた数字の額を、見るともなしに見てしまった老人が、思わず目を剝いた。
驚く老人に気付かぬ振りで、小柄な若者が問う。
「オレたちでこれだけだとすると、お前は、何倍貰えた?」
当然と言う口調の問いに、金髪の若者は眉を寄せた。
「あのな、今回は、あんた達の報酬までは、徴収できない事案だったんだよ。私の分を二等分したんだ。少しは感謝してくれ」
「これの二倍? おい、リヨウの奴、あそこまでやらせといて、お前をそんな安くで見積もったのか?」
「こんなものだろ? 土地も買ってもらったし、その分も含めてかき集めたのがそれだ。足りないなら足すけど」
目を剝いたままの老人の前で、二人の若者は呆れた顔になった。
「お前、金銭感覚が、おかしくないか? あって困るもんでもねえだろうが」
「なくても、不便はない」
きっぱりと言い切るその様は、聞いていて気持ちがいいものだ。
つい感慨深げに若者を眺めてしまった老人の前で、小柄な若者が切り出した。
「他に割の合う仕事、ねえか?」
「今のところ、ないよ。そういうのは、あんたの方が、探しやすいんじゃないのか?」
「お前が今、係わってる仕事は、人がいらねえのか?」
口調が、少しだけ変わった気がして、老人が若者を見ると、金髪の若者もそう感じたのか、ゆっくりと慎重に答える。
「ああ、いらない。実入りのいい仕事でもないから、勧められないよ」
「そうなのか? オレはてっきり……」
やんわりと言って、小柄の若者が不敵な笑みを浮かべた。
「どこかの金持ちの依頼で、
老人が、弾かれるように振り向いた。
黒々とした目が老人を見返しながら、答える。
「違うよ。その件とは、全く係わってない」
「ほう、なら、何で、その爺さんから、早く離れたがったんだ?」
金髪の若者が、やんわりと微笑んだ。
向けられたわけでもない老人ですら、つい見惚れるほどに綺麗な笑顔だ。
「これ以上、あんた達といて、この人の話に巻き込まれたく、なかったんだよ」
「へえ、姿も見てねえうちから、森岡家のご隠居だと、分かってたのか」
「今はまだ、顔を覚えてる人、少なくないはずだよ。あんただって、知ってたんだろ?」
小柄の若者が、笑みを濃くした。
「今、顔を合わせたからな。言われるまでは、隣にいるのが、このご老体だとも思わなかったぜ」
微笑んだままの若者に、小柄な若者はやんわりと切り出した。
「つまり、森岡家の仕事ではねえが、森岡家の面々を調べなきゃならねえ仕事は、引き受けてるって訳だな。しかも、このご老体の動きも把握する必要があるような、重大な仕事だ」
「……婿が、金で雇っているのかっ? 私を、監視してるのかっ」
老人が、こらえきれずに金髪の若者に攫みかかった。
「あいつ、娘や
目を見張る若者二人に構わず、怒りに任せた老人は大声で喚いた。
「やれるものならやって見ろっ、只で殺されてやるものかっ。お前なんぞ、返り討ちにしてやるっっ」
「あの、森岡
攫まれている若者が、無感情な声で静かに呼びかけた。
「誤解ですから、落ち着いて下さい」
まだ肩を攫んだままの老人越しに、もう二人の若者を見て、苦い顔を向ける。
「頼むから、誤解を招くような言い方は、止めてくれ。迷惑だから」
「どう、誤解だと言うんだ。お前さんが、私の行動を把握しているのは、事実なのだろう?」
「事実ですが、狙うために把握しているんじゃ、ないです」
言い切り、若者は老人の目を見返した。
「守秘義務があるので、詳しくは話せませんが、仕事上での万全な準備の過程で、あなたの動きは把握させてもらっています」
「何故だ?」
「それは……」
首を傾げ、若者は答えた。
「あなたが、痴呆を患い始めていると、疑われているからです」
老人は、思わず詰まった。
警察や顔見知りの他の取引相手達にも、そんな噂のせいで話の信ぴょう性を疑われた。
否定すればするほど確信されると、その経験上分かっている森岡翁は、只歯を食いしばって黙り込んだ。
黙った老人を見つめながら、金髪の若者はそっと身を引き、立ち上がった。
「話は終わったから、私は帰るよ。今日は、久し振りの非番なんだ」
二人の若者に声をかけ、直ぐに老人にも声をかける。
「送ります。ここで一人で思いつめても、何も解決しないと思いますよ」
「君は……」
「時効がなくなって、本当に良かったと、私は思います。後は、あなたが、それまで健在であることを、願っています」
目線が少し高い若者が、森岡翁に笑いかける。
その笑いに見惚れながら、思わず頷いた老人を促し、若者はその場を立ち去ろうと動いたが、直ぐに引き留められた。
すぐ隣に座っていた、同年の黒髪の若者が、手を伸ばしてその肘を攫んだのだ。
肩越しに振り返った若者に、のんびりと笑いながら、黒髪の若者が言った。
「随分、報酬のかき集めに時間をかけたと思っていたが、そう言う事か?」
「そういうこと?」
まだ笑みを残しながら返す若者に、今度は小柄な若者が言う。
「お前にしては、仕事の治まりを先延ばしにしているとは思ったが、こりゃあ、仕方ねえか? 先月の末に起きた件、ありゃあ、緊急の対処が、必要な案件だもんなあ」
「……あのな」
腕に力を込めて、攫まれた肘を振りほどこうとしながら、若者はやんわりと答えた。
「何度も言わせないでくれ。私は、その件には係わっていない」
「なら、どの件に係ってんだ? 森岡
目を剝いた森岡翁に構わず、小柄な若者は続けた。
「
「それ、どちらも、あの件に絡んでるじゃないか。さっきも言っただろ? 私は……」
「ああ、もう一つあるか。畑中一家の、保護」
老人は目を剝いたまま、傍に立つ若者を見た。
「……隆の女房と娘は、無事なのか?」
先月の終わり、畑中隆は森岡家の一人娘涼子を殺害し、その遺体と共に姿を消した。
遺体もなく、その被疑者すら消えてしまっているのにも拘らず、警察は証言した森岡
その直後から、畑中の夫人と娘まで行方が知れなくなり、恨みのあった涼子を殺害した後、覚悟の一家心中をしたのではと、全国で話題になった。
中々手を振りほどけず顔を顰めながら、若者は答えた。
「その件も、私は知りません」
「しかし……」
「見ず知らずの、こんな遊び人の言い分を、信じてはいけませんよ」
真顔で言い切った若者の腕を、テーブルを挟んで座っていた小柄な若者も、攫んだ。
二人が一斉に力を引き、強引にベンチに座らせる。
「……誰が、この中で一番、遊び人に見えてると思う?」
「普通に見りゃあ、お前が一番、ふざけた遊び人に見えるだろうが。棚上げすんじゃねえ」
「そう見えると思うから、そう思われてる内に、早くこの話を切り上げて、終わらせたいんだけど」
声を抑え気味にしているが、若者は危機感を抱いているようだ。
何への危機感かは分からないが、老人は訊かないではいられなかった。
「……本当に、あの件には、係わりがないんだね? つまり、本当に隆は、涼子を恨んで……」
娘婿の主張は、正しかった。
信じたくない、そう思って訴えていた自分の方が、矢張りおかしいのかと肩を落とす森岡翁を見上げ、若者も何故か肩を落とした。
藤の蔓を見上げ、しばし黙る顔を、他の二人が見守る。
「……他の人たちが、動いている案件なので、詳しくは話せませんが、一つだけ、はっきり言える事があります」
ゆっくりと切り出す若者を、他の二人は黙ったまま見ているが、何故かしてやったりという顔で、にやりと笑った。
「畑中隆さんは、あなたの娘さんを、手にかけてはいません」
見返す老人に頷き、若者は続けた。
「隆さん本人の行方は分かりませんが、ご家族は無事です。どこにいるのかは、知らない方がいいと思います」
「隆の行方が分からないとは、どういう事だ? 涼子と、逃げているのか?」
「私が知っているのは、その位です。申し訳ありませんが、これで勘弁ください」
無感情だが、その目に申し訳ない気持ちが、浮かんでいた。
同情でないその感情が、つい、甘えを口に出させた。
「君は、随分高値で、情報を売り買いしているようだな」
「いいえ」
首を傾げ、若者は答えた。
「私が売っているのは、自分自身です。情報はその仕事内容によって、必要だから得ているだけで」
「では、君を雇えば、君が知っている情報を、私に提供してくれるか?」
「お断りします」
きっぱりと拒否され、老人は思わず身を乗り出した。
「何故だっ?」
「さっきも言いましたが、他の人たちの案件なんです。当たり障りない情報ならば話せますが、これ以上は、その人たちの動きに触ります」
取り付く島を見つけられなくなった老人に代わり、黙って見ていた幼い若者が切り出した。
「じゃあ、お前が知る限りの情報の中で、今の話が最小限での譲歩か?」
「ああ。これ以上は、漏洩先によっては、係わっている人や関係者の命に、危険が及ぶ」
若者は、金髪の知り合いに静かに頷き、老人を見た。
「森岡浩司さん、これは、あんたが良ければの話なんだが……」
「な、何だね?」
「こいつじゃなく、オレを雇ってみねえか?」
目を瞬く老人に、若者は不敵にも見える笑みを浮かべた。
「あんたが知りたい情報、あんたが調べていると知られねえ方法で、あんたに提供してやるよ。報酬は、あんた次第で色付けてくれりゃあいい。どうだ?」
「し、しかし……お前さん、随分若いではないか」
「若くちゃ、いけねえか? 若い方が、良く動けるぜ。それに……」
何故か顔をそむける金髪の若者を見ながら、意外な言葉を続けた。
「そいつより、オレの方が年上なんだ」
驚きながら、しかし当然の不安を覚える老人に、今度はもう一人の若者も声をかけた。
「何も、手探りの状態から始まる探索でもない。こいつが吐いた情報、充分な手掛かりになる」
情報と言うには曖昧な話だったが、若者にはそう聞こえなかったようだ。
「畑中隆の妻子は生存。畑中隆本人と森岡涼子の生死と行方は不明。まずはそれが分かっている事だ」
並べられた言葉に、戸惑いながら頷く老人に、幼い若者は衝撃的な言葉を投げた。
「そんな大事を、漏らしてもいいと思えるって事は、こいつの知り合いが担当する仕事には、更なる奥があるって事だ」
今回の事件など、歯牙にかけるまでもないと思える、とんでもない事案。
「こいつがもし、あんたの依頼を受けるとしても、その奥の話は報告しねえと思う。だが、オレなら、そう言う心配はない。どうだ?」
「奥の、話とは? どういう話だ? この上、何があると?」
「それは分からねえ。だが、生半可な話じゃ、ねえようだな」
老人が唸った。
返事を待つ二人を見ながら、金髪の若者はゆっくりと身を引いている。
「何が出るか、分からん、か。そうだな、障りの話だけ知っていても、後に憂いを残しては意味がない。君たちを、言い値で雇おう」
「有難い」
「? たち? オレもか? 助かるが、いいのか?」
年かさの黒髪が、きょとんと返す。
それが妙に年相応に見え、老人は微笑んだ。
「君も、次の仕事を探していたのだろう? その位の余力は、あるぞ」
「そうか、なら、全力でやるか」
「……そうすればいい。この手を離せば、もう少し全力が、出るんじゃないか?」
若者が言う言葉を受け、もう一人の若者が返した。
攫まれた腕を、未だ解放できないでいるようだ。
「……お前、本当に非力だな」
「そうだよ、非力な奴は、早く解放してくれ」
話から外れたはずの者を、何故か捕まえたままの若者は、笑顔で言った。
「これから尋問するのに、解放できるはずがないだろう」
「これ以上は、話せないと言っただろうっ?」
吐き捨てるように言われ、幼い若者がわざとらしく溜息を吐いた。
「お前が、その件を請け負ってねえのに知っているって事は、その事案が起こる場にいたってだけなんだよな?」
「……」
「仕事じゃなく、係わっていない話なら、その場の出来事として、話せるんじゃねえのか?」
やんわりとした声に、若者は詰まって黙り込んだ。
肘を攫んだままだった若者が、にんまりと笑ってその腕を離した。
その笑顔のまま、丸め込んだ幼い若者と顔を見合わせる。
何やら悪ガキどもの、悪戯を見ている気分だ。
そんな気分ではないはずなのに、少し気分が和らいだ老人の前で、金髪の若者が力なく言った。
「口止めされている事も、いくつかあるから、その部分は話せないぞ」
「ああ、分かってる。その部分は、こちらで調べるから、気にすんな」
幼い若者の答えに、深い溜息を吐いたのが、了解の答えになったようだ。
そこでようやく、森岡浩司は、三人から名を告げられ、自分が築いた家の、今起こっている不可思議な事件の全貌を、解き明かしていくこととなったのである。
年の暮れに入る、この時期。
朝だけはゆっくりと過ごせるようになって、セイはのんびりと外へ繰り出した。
この時刻は、通学通勤時間だ。
それとなく小中学生を見守りながら、若者はゆっくりとした足取りで、歩いていた。
その後ろから、愛らしい女の子の声が、体ごとぶつかって来る。
「セイちゃん、おはようっ。久し振りだねっ」
ついつい、歩きながら眠っていたセイは、我に返って振り返った。
「ああ、おはよう。朝から元気だな」
「うん。どこ行くの?」
「ただの散歩だよ。すぐ家に戻る」
並んで歩きながら、ランドセルを背負った少女は口を尖らせた。
「お父さん、心配してたよ。最近、遊びに来てくれないから」
「遊びに行ったこと、あったっけ?」
「眠るだけでも、お父さんは、嬉しいのっ。私だって、嬉しいんだからねっ」
見下ろした少女は、今年九歳になった、
小柄な少女なのだが、最近始めた柔道の為の体力づくりの影響か、ぶつかられると結構な衝撃がある。
下手な返答で、不興を買ってまたぶつかられるのも困るので、セイは少し考えて返した。
「これから、朝食でも戴きに行こうかな」
「うんっ、そうしてよっ」
嬉しそうな顔に対応の成功を感じ、若者は少し安堵したのだが……。
しばらく歩いて、不意に立ち止まった。
「? どうしたの?」
「いや、やっぱり、外で取ろうかな。気も紛れるし」
不自然な予定変更に、古谷
「セイちゃん? 気を紛らす程、お父さんと会うの、嫌?」
「そうじゃないけど……」
誤魔化すにしても、不自然過ぎると感じ、若者は正直に言った。
「どうやら、厄介ごとが来たみたいだ」
「え?」
「心当たりが多すぎて、どの件の厄介ごとか判断できない」
こういう時は、一人になって出方を見るのが一番だ。
そう思っているセイは、綾乃を見下ろして微笑んだ。
「様子見が必要なんだ。君に害が及ぶかも知れないから、ここで離れたい。これで理由になるか?」
「……」
少女の顔が、心配で曇った。
「大丈夫なの?」
「分からない。君の方を狙いそうになったら、直ぐに助けるから、その心配はいらないよ」
その心配はしていないのにそう言われ、綾乃は渋々頷いた。
その頭を軽く叩き、セイは傍の喫茶店へと足を向ける。
その目立つ後姿を見送り、綾乃も学校へと足を向けたが、若者が入った店の前に、自動車が止まったのを見て、再び立ち止まった。
そんな少女に気付いて、知り合いの少年が気楽に挨拶して来た。
「綾乃、おはよう。どうしたんだ?」
「
黒いランドセルを背負った、一つ年上の少年が、さされた方向を見て目を細めた。
「……何だろ、変な雰囲気だな」
黒いワンボックスカーから、数人の男が静かに飛び出し、喫茶店の扉を開く。
何かを投げ入れた後すぐに扉を閉め、内側から開いた扉の中から、誰かを引きづり出した。
引きづり出されたその人物を見止め、二人の子供は息を呑んだ。
綾乃が、思わず走り出す。
「綾っ、駄目だっ」
聖が我に返って追いかけるが、どちらも間に合わなかった。
ぐったりとした、金髪の若者を乗せた自動車は、既に走り去り、肩で息をする少女が立ち尽くしていた。
「何だ、どういうことだよ?」
呟いた聖は、違和感を覚えて、喫茶店の方に目を向けた。
妙に、静かすぎる。
無意識にポケットからハンカチを取り出し、扉のノブに手をかける。
ゆっくりと開いた扉の内側から、薄い煙が外に漏れる。
ガスではない、不思議な匂いが鼻を衝く。
「まさか、何かの薬か?」
聖が青ざめた。
「で、電話っ、警察に電話……」
今まだ残る公衆電話にお金を入れ、番号を押す。
「大変ですっ、お店で、薬がまかれましたっ」
相手が出た途端まくし立てると、相手は沈黙した後、静かに答えた。
「聖? お前、学校はどうした?」
「へ? 父さん? 何で……」
目を瞬いて呟き、聖はとんでもない失敗に気付いた。
「ああっ、間違って、家にかけちゃったっ」
「聖ちゃんっ、間違え方、おかしいよっ」
「父さん、御免、110番しないと。切るね」
取り乱したまま言う息子に、父親は呆れた声で言った。
「110番は、赤ボタンを押せば、通話は無料のはずだ」
「そ、そうだったね。じゃあ……」
「聖、学校をさぼって、どう言う騒ぎに、巻き込まれてるんだ?」
呆れた声の父親に、聖はすがるように答えた。
「若が、誘拐されたんだよっ」
電話口で、男が息を呑む。
「若が? 確かか?」
「うん。綾乃が、喫茶店に入るのを見てるし、その後僕も、連れ去られるの、見た」
「……」
「お店の中、薬で充満してるんだ。警察呼ばないとっ」
「いや、待て。まずは、119番だ」
冷静に、父親が告げた。
「場所は何処だ? こちらから連絡を入れておこう。お前たちは、直ぐにその場を離れて、学校に行きなさい」
「で、でも……」
「セイちゃん、大丈夫なんですかっ?」
必死な綾乃の声が、親子の会話を遮った。
「綾、大丈夫だよ。あの人、意外に頑丈だし」
「でも……」
「聖の言う通りだ。心配ない」
塚本氏が、電話の向こうから優しく答えた。
「あの人の事なら、心配ないが、それよりも、心配しないといけない事がある」
「?」
「この事を、側近方には、知られてはならない」
子供二人が、はっとして顔を見合わせた。
「問われて隠すのは難しいが、訊かれるまでは、黙っていなさい。分かったね?」
そうでなければ、この地を揺るがす騒動になりかねないと、塚本氏は真剣に言いつのった。
「わ、分かりました」
「学校へ行きなさい。遅刻の言い訳を作って、電話しておくから」
大人の言葉に頷き、子供たちは電話を切った。
心配しながらも学校へ行き、いつも通りに過ごした。
その後、とんでもない騒動に発展するなど、予想も出来ないまま。
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