第219話

 4月。

 そろそろ春休みも終盤である。


 アキラが凛々りりしくなった。

 リョウが近くにいなくても、毎日レッスンに通っているのかと思うと、誇らしいような、物悲しいような、落ち着かない気持ちにさせられる。


「足元、気をつけろよ」

「ありがとう」


 アキラの手をとって電車から降りる。


 駅のホームから空を見上げたとき、やわらかい春風が鼻先をかすめた。

 こうして劇団に足を運ぶのは4回目だ。


「リョウくん、なんか迷っている?」

「ん? そう見えるか?」


 ニャンコ柄のトートバッグを提げたアキラが、キョトンと小首をかしげる。


「上の空って感じ。マンガが思うように進まないの?」

「そういうわけじゃないけれども……」

「僕と一緒だと、いつも楽しそうなのに。それとも、楽しいのは僕だけかな?」

「いやいや、俺も楽しいよ。感情表現が下手ですみませんね」


 レンの一言が引っかかっていた。

『自分の描きたいものを描くというより、自分の読みたいものを描くべき』というやつ。


「俺がバカだから、アキラに教えてほしいのだけれども……」


 自分が描きたいもの。

 自分が読みたいもの。

 この2つは一緒じゃない?


「いやいや、違うでしょ」

「そうなの?」

「字面が違う。だから、意味も違う」

「そうなんだけれども、ニアリーイコールじゃないかな?」

「いや、違うね」


 アキラはキッパリ。


「だって、僕、たくさん本を読みたいけれども、アウトプット欲求がないから、書きたい作品なんて存在しないんだ」

「それって、つまり、アキラにノーベル文学賞クラスの文才があっても、書きたいストーリーが存在しないってこと?」

「そうそう。生活に困窮こんきゅうしたら筆を取るかもしれないけれども。書きたいものはゼロ。だって、書くより読む方が、僕の性分に合っているし」

「へぇ〜」


 その発想はなかったな。

 たしかに『書きたい作品』=『読みたい作品』じゃない。


 赤信号に引っかかったので足を止める。


「料理にたとえると理解しやすいかも」

「料理に?」

「おいしいオムライスが食べたい、と、おいしいオムライスを作りたい、は別だろう」

「そうだな。お店に足を運ぶか、お店のキッチンに立つかの違いはあるな」

「そういうこと」


 ますます理解できない。

 けっきょく、どちらもオムライスが好きなのでは?


「たぶん、レンちゃんが主張したかったのはね……」


 描きたいものを描いて成功する。

 これは天才のやり方。


 そういう人間は実在する。

 でも、一握りだけ。


「よくITの起業家がインタビューで答えるだろう。こういうサービスがあったら便利だと思いました。でも、世の中に存在しませんでした。だから、自分で立ち上げました。そうしたら大ヒットしました。株式が上場して、ウハウハな毎日です、みたいな」

「ありそうな話だな」

「そこまでの行動力、普通はないだろう。欲しいサービスがなかったら、諦めるか、別のサービスで我慢するだろう。だって、自分でつくるなんて最強に面倒だから。でも、やる。そういう人になれ、とレンちゃんはいっている」

「ようやく納得できた」


 レンって、言葉を端折はしょりすぎるんだよな。

 アキラに相談して正解といえる。


「でもさ、自分の読みたいものを描いて成功するのも、天才のやり方じゃないの?」

「ああ、そうか。いわれてみるとそうだね」

「ダメじゃねえか」

「とにかく前進しろってことだよ」


 そんな話をしているうちに劇団についた。

 リョウは受付のところで見学者の入館カードをもらう。


「やっほ〜。今日は彼氏くんが付き添いなんだ〜」


 軽薄そうに声をかけてきたのはカトリ。

 いつもアキラに良くしてくれる男性。


「あら、今日は早いのね。レッスン開始まで、まだ1時間はあるんじゃないの?」


 こっちはエミリィー先輩。

 アキラを何回か泣かせた女性。


「かわいい子がいる……て思ったら、なんだよ、アッちゃんかよ」

「トオルくん……恥ずかしいからやめてよ」


 アキラの頭をポンポンしているのは、兄のトオル。

 今では演劇の大先輩にあたる人だ。


「ここでは俺に敬語をつかえよ」

「はぁ⁉︎」

「け・い・ご……understand?」

「ぐぬぅ⁉︎ ……やめてくださいませんか、トオルお兄様」

「よしよし」


 アキラを完全に屈服させて、トオルは満足そうにしていた。

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