第204話

 劇団エスポワールの外に出たとき。


 3月の冷風が吹きつけた。

 体を震わせたアキラが、へくしゅん! とくしゃみする。


「大丈夫かよ?」

「まあ、なんとか」


 レッスンで大量に汗をかいたせいだ。

 アキラの防風壁となれるよう、リョウは半歩前を歩いた。


「ねえねえ、リョウくん、お腹すいた」

「そうだな。なんか食って帰るか?」

「本当? じゃあ、あれがいい」


 アキラが指さしたのは牛丼チェーン店。

 30円引きセール中、というのぼりがゆれている。


「ひとつ訊くけど、アキラって牛丼屋に入ったことあるの?」

「ない。今回がはじめて。前から気になってはいたんだ」

「お姫様かよ。アキラの舌が満足するとは思えないが」


 とりあえず入ってみた。

 4人掛けテーブルに腰かけて、メニュー表を広げる。


「エミリィー先輩からアドバイスされたのです。とにかく食えと。もう少し肉をつけろと。そのためにはタンパク質の摂取せっしゅが欠かせないのです」

「ああ、これを機に肉体改造したいってことね」

「そうそう、適度な筋肉と脂肪がほしい」


 肉感というのかな。

 アキラは細すぎるから、手足に肉をつけた方が、万人受けしそうな体型に近づける。


 国民的なアイドルだって一緒だろう。

 骨折しないか心配になるレベルの華奢きゃしゃさは、残念ながらニーズが少ない。


「僕に欠けているものが何なのか、ずっと考えていたんだ。やっぱり、牛丼だと思う。ほら、牛って強いだろう。あのパワーが必要なんだよ」

「嘘つけ。絶対にいま思いついただろう」

「バレましたか」


 とりあえず店員さんを呼んだ。


 まずはアキラのオーダーから。

 牛丼は並盛り、具材を2倍にしてもらう。

 生卵ひとつ、あと、サラダ。


「あっ、やっぱり半熟卵もひとつください」

「生卵ひとつに、半熟卵ひとつですね」

「そうです」


 うわっ。

 そんなに食えるのかよ。

 普段のアキラなら牛丼ミニ盛りくらいが適正量だろうに。


「じゃあ、俺もまったく同じメニューで。牛丼並盛りの具材2倍、生卵、半熟卵、サラダをお願いします」

「かしこまりました」


 お水を一口飲む。


「リョウくん、そんなに食べられるの?」

「おい……そのセリフ、そっくりそのまま返すぜ」

「僕はたくさん動いたから。全身がエネルギーを欲しているのです」


 1分くらいで配膳はいぜんされてきた。

 さっそく味わってみることに。


「リョウくんって、一人で牛丼屋とか入れる人?」

「男だからな。親がいない日とか、駅前の牛丼屋にちょくちょく足を運ぶ」

「なるほど。僕は女子だから、一人では入りにくいんだよ」

「何のための男装テクニックだよ」

「ああ、その手があったか」


 アキラがポンと手を鳴らす。


「卵って? 上からかけるの?」

「そうそう、卵かけご飯みたいに」


 リョウは元々、卵をかけずに食べる派だった。

 それが今では、卵がないと物足りない派だ。

 ただし、タレの味が薄くなっちゃうのが弱点といえる。


「うまい! 意外にうまい!」


 アキラは犬みたいにパクついている。


「アキラは腹ペコだから、より一層おいしく感じるよな」

「これって何の肉かな。たぶん、米国産か豪州産の牛バラ肉を薄くスライスしているよね」

「だろうな」

「黒毛和牛のリブロースみたいな部位をつかったら、これの2倍はおいしくなると思うんだ。お肉のぶ厚さも5倍くらいにして。ほらほら、日本人の口には、やっぱり和牛が合うでしょう」

「否定はしない。絶対に正しいと思う。が……お前はいま、牛丼屋のコンセプトみたいなやつを、根底からひっくり返した」

「ん? そうなの?」

「和牛なんて採用したら、肉が一切れしか出てこない」

「ああ……納得」


 今度、うちのママに牛丼をつくってもらおっと。

 アキラはそういって携帯をポチポチしている。


 食べはじめて10分くらい経過したとき。


「うっ……苦しい……」


 アキラのおはしが止まった。

 サラダは完食したけれども、牛丼の本体は半分くらい残っている。


「無理するなよ」

「でも、食べるのも使命なんだ」


 無理やりお口に入れて、もぐもぐする。


「うっ……」

「ほら、お水」

「おぇ……吐きそう……」


 どう考えても完食は無理だな。

 白米はリョウが引き取ることにした。


「肉だけ食っとけよ。欲しいのはタンパク質だろう」

「なんか……ごめん……」

「気にすんなって」


 たっぷりと時間をかけて食べ切る。

 アキラは店を出てからも、ずっと口元を押さえていた。


「どうする? そんな状態で電車に乗れるのか?」

「しまった……移動してから牛丼を食べればよかった」


 困ったな。

 30分以上の電車移動だしな。


 アキラはプライドが高いから、うっかり吐いたら、もう二度とこの電車には乗れない! とか言い出すに決まっている。


「よしっ! アキラ! 少し散歩するぞ!」

「はい……」


 20分くらい歩かせたら、顔色がすっかり良くなった。

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