第173話

 リョウの自室にて。


「そろそろ出発しないと遅刻しちゃうよ」

「わりぃ……もう少し待ってくれ」

「それ、3回目だよ」


 背中にポコポコと猫パンチを食らう。

 そんな妨害にもめげずに、リョウは最後の一コマを完成させた。


 この2ヶ月くらい、ずっと同じ短編を描いている。

 寝ても覚めてもマンガ……は言い過ぎだが、生活の一部みたいなものだ。


「よし、いくか」

「ほら、封筒。急いで、急いで」


 時間がないので、乾いてないインクを、ティッシュに吸わせておいた。


「いってきます、お母さん」

「いってらっしゃい。リョウをよろしくね」


 うちの母親とアキラの会話が、仲良し親子みたいになっている。


「はい、リョウくんのマフラー」

「おう……わりぃ」


 ドアを開けると2月らしい鈍色にびいろの空が広がっていた。

 今夜あたり、雪が降るって、ニュースでもいっていたな。


 電車にガタゴト揺られながら出版社へ。

 フロントのところで氷室さんを呼び出す。


「いつも付き合わせて、わりぃな。アキラだって半日潰れるのに」

「今日のリョウくん、わりぃわりぃ連呼しすぎ! お前はわりぃわりぃ侍か⁉︎」


 ぷっと吹き出す。


「そこは素直にありがとうでいいんだよ」

「おう、ありがとう」


 エレベーターが開いて、氷室さんが出てきた。


「うぅ〜、一階はさむ〜。それじゃ、打ち合わせしようか」


 氷室さんの奥さんが風邪を引いた、みたいな話を聞かされた。


「俺経由で、うっかり菌を感染うつしちゃうかもしれないから。カナタ先生たちは、あとで入念に手洗いうがいをしておいてね」

「承知です」


 さっそく原稿のチェック。

 毎度のことだが、何回やってもドキドキする。


「へぇ、なんか色気が出てきたね。いいんじゃない。うんうん、前回より良くなっているよ」


 第一印象はOK。


 かといって油断することなかれ。

 氷室さんは持ち上げてから落とすタイプなのだ。


 思ったとおり、指摘・ダメ出しの連続。

 わざわざ定規じょうぎを持ってきて、キャラクターの長さを測りはじめた。


「人体の比率ってあるだろう。こっちは7頭身なのに、こっちは6.5頭身くらいで、こっちは7.5頭身くらいだよね。疲れている証拠じゃない? プロの先生が、意図的に比率を崩すのなら理解できるけれども……違うよね」

「はい、違います」

「まずは意識を徹底てっていして。それから呼吸するくらい当たり前のレベルで完ぺきにこなして。曲がりなりにも、新人賞をとった立場なんだから」

「……はい」


 カッチーン!

 いや、当然すぎる指摘なんだけれども!


 なんか腹立つ!

 氷室さんに腹立つというより、見落としてきた、あるいは手抜きしてきた自分に腹立つ!


「あと、前から気になっていたのだけれども、カナタ先生のマンガの世界って、風速ゼロメートルなんだよね」

「風速……ですか?」

「服とか、髪とか、揺れないでしょう。良さげなシーンでも、風速ゼロメートル」

「はぁ……たしかに」

「長いこと4コマを描いてきたから、その時のクセが引き継がれているのだと思う。うちのレギュラー陣でも、そういう先生はいるけれども……。カナタ先生は、せっかく繊細せんさいな絵を描けるんだから、もっと揺らしていいと思うよ。女の子のスカートとか、髪のリボンとか。ちょっと練習してみよっか」


 なんか褒められた。

 モチベーションが3倍アップ。


「ヒロインの黒タイツいいね。インパクトあるし。差別化できるし。人の記憶に残ってナンボだから。ストーリーラインはこのままで、もっと細部を磨いていこうか」


 黙っていたアキラが、ハイハイハイ! と手を挙げた。


 毎回、ペン入れが必要なのですか?

 鉛筆の状態で持ってきたらダメなのですか?

 みたいな質問だった。


「このままだと、リョウくんの手が腱鞘炎けんしょうえんになりそうです。十分なリターンは期待できますか?」

「そうか、助手くんは根性論とか嫌いだもんね」

「はい! 大嫌いです!」


 嘘つけ……。


「2人のことを信頼しているから、ぶっちゃけるけれども、カナタ先生のペン入れ、技術的に下手クソなんだ」

「えっ⁉︎ 下手クソなのですか⁉︎」


 なんでアキラがショックを受ける。


「線がね、たとえるなら、歩き方がぎこちない犬だよね」


 ぐはっ⁉︎

 そりゃ、下手クソだな!


 才能がないわけじゃない。

 積み重ねてきた時間が圧倒的に不足している。

 ペン入れの上手さだけなら、新人の中でも半分より下。

 みたいなことをストレートに指摘された。


「筋トレと一緒だよ。集中して、地道に、コツコツ取り組むしかないよね。その代わり、成果は絶対に出るから」

「わかりました、僕が鍛えさせます!」

「大丈夫かな? 逆に心配だな」


 あっという間に打ち合わせ時間が終わった。

 ありがとうございます、と礼をのべて編集部を後にする。


「買い物でもして帰るか。まだ日暮れまで時間があるし」


 エレベーターの中でアキラに手をモミモミされる。


「何やってるの?」

「僕の生命エネルギーを、リョウくんの右手に移しているのです。元気になってほしいのです」

「おい、かわいすぎるだろう」

「あぅあぅ」


 一階につくまでの間、アキラの肩を抱きしめた。

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