第65話

 タクシーが住宅街を右へ左へと抜けていく。

 メーターのカチカチが止まり、運賃が確定する。


「はい、着きましたよ」


 目的地はアキラのマンション前。


『家まで送ってあげなさい』

『お母さんは終電まで残るから』


 そういってお札を握らされた。


 援護射撃のつもりだろうか。

 母親のお節介というやつが、今日だけは心底ありがたかった。


 とても静かな夏の夜。

 リョウは手を伸ばして、かんざしの位置を直してあげる。


「じゃあな」

「また連絡する」


 アキラはエントランスに入ろうとしない。


 顔を上げたり、そらしたり。

 果ては泣きそうな顔になったり。


「手術のこと、心配すんなって」

「うぅ……」


 頭をポンポンして落ち着かせた。


「それに、下を向いていたら、虹を見つけることは出来ないって、ハリウッドの喜劇王がいってたぜ」

「リョウくん……」


 泣きらした目元がアイチークみたいに赤い。


「おやすみ」

「おう、おやすみ」


 アキラはエントランスに一歩入って……。

 くるっと反転し、リョウの胸に飛び込んできた。


「今日はありがとうね!」

「おう……」

「上を向いていたら、虹は見つかる?」

「見つかると思う」

「もしリョウくんが見つけたら、僕に教えてくれる?」

「うん、教える」

「だったら……」


 グリグリと。

 アキラが甘えるように頭を押しつけてくる。


「僕も虹を見つける。その時は、真っ先にリョウくんに報告するよ」

「ああ、とても楽しみにしている」


 アキラはニカッと笑ってから、バイバイと手を振った。


 ただの友人。

 単なるクラスメイト。

 あの嘘が時間を置いて胸にチクッと突き刺さる。


 そして手術の日。


 母と一緒に病院へやってきた。

 エメラルド色の手術着をまとった不破パパと対面する。


「奥さんには一度説明したことですが……」


 今年だけでも何百件と事例がある手術。

 患者さんが命を落としたり、後遺症が残ったり。

 そんな報告はゼロ件とのこと。


「過度な緊張はなさらないでください」


 心が楽になった。


「どうか主人をお願いします」


 頭をさげる。

 一瞬だけ不破パパと目があって、アキラのことが脳裏をよぎった。


 待つこと数時間。

 母はずっとお祈りポーズをしている。


 リョウは立ったり座ったりを繰り返した。


 ジュースを飲んで、トイレにいって。

 またジュースを飲んで、またトイレにいって。

 不毛なループでお財布を無駄に軽くした。


 パチン。

 手術中のランプが消える。


 不破パパが出てきて、一目で成功だとわかった。


 母が涙ぐむ。

 神様に向かってするように、何度も何度もお礼をいう。


「ありがとうございます、本当に……」

「1時間くらいで麻酔から覚めます。そうしたら、ご主人と会話できますから」


 不破パパはいつだって事務的な口ぶりを貫いている。

 元からそういう男性なのか。

 外科医の特性なのか。


「宗像リョウくん、娘のことで、少し話す時間をくれないか」

「かまいません。ここで待っています」


 ほんの数秒だけ。

 人情味あふれる父の顔を見つけた。


 そして中庭。

 ベンチに座った二人の手には、お茶のペットボトルが握られている。


「私は過去に、アキラの友人の親を、手術中に死なせたことがある。先日、あの子が取り乱したのには、そういう背景がある」

「はい、本人から聞きました」

「よっぽど信頼されているのだね、君は」


 不破パパは眼鏡の位置をくいっと直した。


「誕生日プレゼントでもらった眼鏡だ。トオルとアキラから。40歳の節目だったから、はっきり覚えている」


 何年前かわからないが、当時のアキラは小さかったはず。


「私は、医者としては80点かもしれないが、父親としては20点くらいの人間だ。家のことは、基本、妻に任せてある」

「それは人の命を預かる大切なお仕事だから?」

「言い訳としては、申し分ないね」


 反応に困ったリョウは、手の中のお茶をくるくる回した。


「アキラが私に意見するのは珍しい。だから、この前の夜は、少し驚いた。感情を爆発させるアキラを見たのは久しぶりだった」


 父に向かって、主張して、抵抗して、逆らった。


「君は、何か努力していることはあるかい。勉強以外で」

「毎日マンガを描いています。一流のプロを目指しています」

「マンガはいい。人を動かす。私が医者になったのも、きっかけはマンガだ。私くらいの世代だと、娯楽が限られていたから、そういう医者は少なくない」


 リョウの胸がじ〜んとなる。

 大人からマンガを肯定されると、心が温かくなる。


「がんばる君の姿が、アキラを変えたのだろうな」

「わかりません。俺だって、いつも応援されていますから」

「誰かの成長を見守るのは楽しい。がんばる人を応援するのも楽しい。私は親だから、それを知っている。アキラだって、トオルに負けないくらい努力している。いまは苦しい時期だろうが……。乗り越えられるか、乗り越えられないか、アキラ自身が決めることだ」


 不破パパはすくっと立ち上がる。


「ありがとう。アキラのこと、よろしく頼む」

「あの!」


 リョウは思い切って呼び止めた。


「本人と話してやってくれませんか?」

「アキラと?」

「お時間が大丈夫でしたら」


 木の陰からアキラが顔を出す。


 チラッ! チラッ!

 リスみたいにキョロキョロ。


 不破パパが小さく笑う。

 初めて見せる笑顔だった。


「すまない、アキラと二人だけにしてくれないか」

「はい」


 ベンチから立ち上がるとき、リョウは遠くの空に虹がかかっているのを見つけた。


 マンガはいい。

 不破パパの一言が今日のお土産みやげだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る