第60話

 8月にしては、ちょっと涼しい。

 最高気温が32℃くらいの日。


『夏祭りのコンディションとしては申し分ないですね』


 お天気キャスターのお姉さんが解説していた。


 ここは満員電車の中。

 ギュウギュウのすし詰め状態である。


「リョウくん」


 天使のささやくような声がする。


「絶対に僕を独りにしないでね」

「この人混みだから、離れたくても離れられない」

「でも……」

「心配するなって」


 リョウの右手はアキラの腰まわりをホールドしている。

 アイスショーの男女がギュッと密着する感じ。


 なにこれ。

 満員電車なのに楽しい。


 車両が揺れるたび、アキラが抱きついてきて、二人の距離がゼロになる。


「アキラ、お前、びっくりするくらい細いな」

「ちょっと、冗談はいわないで」

「本心だって」


 また電車が揺れた。

 リョウの足元に鈍い痛みが走る。


「うわっ⁉︎ ごめん! リョウくんの足、踏んづけちゃったかも」

「大して痛くないから平気だよ」

「でも……」

「いいから、いいから」


 背中をポンポンしてあげる。


「次の駅でまた人が増えるな。アキラを守らねば」

「あぅあぅ」


 照れ顔にさせて遊ぶの。

 最高レベルに楽しい。


 男装アキラも悪くないけれども……。

 やっぱり、女子アキラの方が、観察していて楽しい。


「浴衣とか甚平を着ている人、けっこう多いな」

「カラフルな世界って感じだよね」

「もちろん、アキラが一番似合っているぞ」

「リョウくん……そういう褒め言葉は……僕の心を酔わせる」


 アキラが唇を尖らせて、ぷいっと視線をそむけた。


「まんざらでもない?」

「バカバカバカ〜」


 口では反抗しつつ、リョウの腕の中で大人しくしている。

 さびしがり屋の猫みたいで本当にかわいい。


「ちょっと、リョウくん」


 アキラがのぼせた顔でいう。


「右手、右手……」

「ん?」


 いけない。

 知らないうちにお尻に触れていた。


「すまん。わざとじゃない」

「リョウくんだから許すけれども、場所が場所だから、ね」

「おう、次からは気をつける」

「……うん」

「本当にごめん」

「いいから」


 そんなに嫌じゃなかったのかな?

 ついバカな妄想をしちゃう。


「そろそろ目的地に着くな」

「うぅぅ〜」

「嬉しくないのか?」

「少し緊張するから。リョウくんは?」

「こうしてイチャイチャするのが楽しい。ずっと電車でいいかも」

「うはっ⁉︎ この変態さん……」


 変態ってセリフ。

 マンガ家志望にとっては、むしろ褒め言葉なんだよな。


「変なことを質問してもいいか?」

「どうしたの、急に?」


 暑さの残っている駅のホームで、たっぷりと深呼吸する。


「500円あげるからお尻を触らせて、とお願いしたら、許可してくれるか?」

「はぁっ⁉︎」

「いや、その、真面目な話だ。インスピレーションの電流みたいなやつが、ビリビリって、さっきの電車内で走ったんだよ」

「バカチン! いくらリョウくんでも、500円なんかじゃ、僕のお尻は触らせないよ!」

「……だよな」

「アホアホアホ〜! リョウくんのド助平すけべ! これから楽しいお祭りなのに!」

「すまん、すまん、許してくれ」

「むぅぅぅぅぅ〜」


 アキラがふくれっ面を向けてくる。


「触りたきゃ、触れよ!」

「はぁ⁉︎」


 今度はリョウが頓狂とんきょうな声をあげる番。


「たくさん人目があるのに、堂々と触る勇気があったら、触ってみなさい」

「おい……こら……周りの人に聞こえるだろうが」

「今ならタダだぞ。恥ずかしいのか」

「俺を試しやがって」

「ほれほれ、触られても別に減るものじゃない」


 ちくしょう。

 アキラの負けず嫌いに火がついた。


 しかし、ここは駅のホーム。


 少女のお尻をナデナデするなんて。

 健全なるハイティーンには許されない行為。


 う〜ん。

 触るべきか、退くべきか。


 リョウが逡巡しゅんじゅんしていると……。

 あろうことか……。


「タッチ〜!」


 7歳くらいの男児が、すっと手を伸ばして、アキラの尻に触れた。


「うにゃあ⁉︎」


 アキラは冷水をぶっかけられた猫みたいな顔になる。


「ちょっと! こら! 知らない人に何やってるの!」


 半ばパニックになったのは男の子のお母さん。


「だって、触れるものなら触ってみろって、このお姉さんが、お尻を向けてきたから」

「そういう問題じゃないでしょう!」

「だったら、どういうモンダイ?」


 男児に悪びれた様子はない。


「救いようのないおバカさんね、あんたは!」

「それは、お母さんの子だから」

「このバカタレ!」

「バカっていう方がバカなんだよ」

「ああ……もう……誰に似ちゃったのかしら。きっとお父さんね、まったく」


 この後、悩めるお母さんから長々と謝罪されたが、アキラの方が何倍も恥ずかしそうにしていた。


 こんな赤っ恥……。

 3年に1回ってレベルだと思う。

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