第6話

 リョウはいつものように身支度を整えた。

 持ち物をチェックして、右足から靴をはき、アキラが待っているマンションへ向かう。


「おはよう」

「おう、おはよう」


 アキラに変わった様子はない。

 昨日、うっかり身分証を見られちゃったかも、みたいな想像はしないらしい。


「肩は大丈夫なのか? キングにやられた部分」

「うん、平気だよ。そっちは痛まなくなったけれども……」

「そっち?」

「昨夜、腕立て伏せをやったんだ。新記録の五回。でも、調子にのった代償として、二の腕が筋肉痛になっちゃった」

「五回だと⁉︎」


 そっか。

 こいつ華奢きゃしゃな女子だもんな、と思い直す。


「それまでの最高レコードは?」

「三回かな。そう考えると大幅に成長したよね」


 飼い主に褒めてもらいたいチワワ犬みたいな笑顔がまぶしい。


「ちなみにリョウくんは何回できるの?」

「数えたことはないが、六十回はできるだろう。体育の時間、三十回やらされたし」

「なん……だと……」


 アキラがショックを受ける。

 体育はいつも保健室で過ごすから、ありふれた男子高校生がどのくらいの体力を持っているのか、意識したことがないらしい。


 にしても腕立て伏せ五回か。

『い〜ち!』と歯を食いしばるアキラの姿を想像するとニヤニヤしてしまう。


 駅のホームについた。

 いつもの三割増で人が多い。


 電光掲示板のところには『車両故障の影響で上下線ともに……』というアナウンス。

 運転は再開したもののダイヤが乱れているようだ。


「うわぁ……今日は超満員だね」

「仕方ないな」


 ホームに電車が滑り込んでくる。


 リョウは乗客をかき分けて、反対側のドアに手をつき、アキラのために空間をつくってあげた。

 この背中が盾になっている限り、何人なんぴとたりともアキラに触れさせない戦法だ。


 しばらくすると、ほんのり甘い芳香が立ちのぼってくる。

 匂いの出どころはアキラの髪だったり、胸元だったり、シャツだったり。


 ヤバい。

 完全に女子の香り。

 意識するたびに頭がクラクラしてくる。


「リョウくん、腕、疲れない?」

「筋トレ代わりだ。気にするな」


 次の駅でさらに乗客が増えた。


 ガタンッ!

 車両が揺れたとき、リョウの背中にものすごい圧力がかかり、アキラをサンドイッチの具みたいに挟んでしまう。


「すまん、痛かったか?」

「ううん、僕は大丈夫だよ」


 アキラが上目遣いでいう。


「それにリョウくんに触れられるのは平気」


 冗談めかしたことをいい、こちらの胸板にツンと人差し指を立ててきた。


 また車両が揺れる。

 今度はアキラがバランスを崩して、リョウの上半身に抱きついてきた。


「うわっ……ごめん」

「気にするな。俺も平気だ」

「…………」

「……」


 二人とも赤面する。

 これほど尊い瞬間がこの一年であっただろうか。


「クスクス……」


 ふいにアキラが笑いはじめる。


「リョウくんに触れられるのは平気って発言、よくよく考えると危ないよね。ちょっと軽率だったかな」

「ああ、もちろんだ。学校の女子に聞かれたらスキャンダル確定だ」

「少しドキッとした?」

「ヒヤッとした」

「僕も……」


 また車両が揺れてアキラの匂いが強くなる。


「おっと」

「アキラは筋力がなさすぎる」


 いつもより人が多い通学電車は、一駅と一駅のあいだが30分にも60分にも感じられた。

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