第5話

 シックで大人っぽい財布だった。

 若いサラリーマンが好きそうな無駄のないデザイン。


「アキラのやつ、大慌てしやがって」

 

 淡いブルーの健康保険証を抜きとる。

 その表面に不破アキラの名前を見つける。


 よし。

 アキラの私物だ。

 トランプの大富豪ではジョーカーが最強くらいの確かさでそう思う。


 しかし違和感がある。

 名探偵ならば0.1秒くらいで指をパチンと鳴らしたくなる重大メッセージが隠されている。


 生年月日か。

 いいや、知っている情報にマッチしている。


 ならば性別か。

 そうだ、アキラは男なのに、縦53.98mm、横85.60mmという黄金比でつくられたカードには『性別:女』と書かれている。


 おい、アキラ。

 この保険証、印刷が間違っているぞ。


 リョウの知能指数がもう一段階低かったら、バカ正直に性別のミスを指摘していたかもしれない。


 いや、待て。

 落ち着くんだ。


 カードの情報は正しくて、アキラは正真正銘の女である、つまり今日までのリョウの認識が間違っている、という可能性が浮上してきた。

 むしろ、そっちが本命じゃないだろうか。


 アキラの口から一度だって『僕は男です』という自己紹介を聞いたことがあるだろうか。


 男子の制服を着ていて、一人称が僕で、先生がくん付けで呼ぶから、男性と思い込んでいるだけじゃないか。


 どっちだ。

 男なのか、女なのか。

 物的証拠は女と主張している。


 ならば偽装している理由は何だろう。

 そこまで想像を巡らせて、リョウは財布を元通りにした。


 きっとアキラには動機がある。

 周りの権利や自由を侵害しない限り、男の格好をしようが、女の格好をしようが、文句をつけるのは筋違いというもの。


「お〜い、財布を忘れているぞ」


 廊下で待っているアキラに何食わぬ顔で声をかけてみた。


「財布?」

「ほら、アキラのだろう」

「あっ……いけない」


 アキラは中身をチェックすることなく財布をカバンに戻す。

 こちらに対する信頼は嬉しいが、もう少し警戒してほしい気もする。


「なあ、アキラ」

「どうしたの?」

「新しいマンガのアイディアを閃いたのだが……」


 リョウは悪役みたいに口角を吊り上げた。


「主人公はごく平凡な男子高校生で、昔からの親友がいるのだが、その親友が実は女の子でした、というストーリーはどうだろうか。刺さる人には刺さる気がする。もちろん、親友(女)のモデルはアキラにしようと思う。美男子の代表として、率直な意見を聞かせてくれ」

「あわわわわわっ⁉︎」


 アキラはこの世の終わりみたいな悲鳴をあげる。


「無理があるだろう! 性別を偽装できるほど、学園生活は甘くない! リアリティに欠けるから駄作になるのが目に見えている! やめるべきだ!」

「そうかな。意外にイケるんじゃないかと期待したのだが……」

「だいたい、親友(女)がやっているのは、ハイリスク・ノーリターンのバカげた行為だ! 読み手が納得しない!」

「なるほど……ボツか……」


 当の本人がいうのだから、女が男と偽って生きるのは相当に苦労するのだろう。


「まったく、何を言い出すのかと思えば、実にくだらない」

「すまん、忘れてくれ」


 学校を抜けて、同じ電車に乗り、同じ駅で降りる。

 アキラとその家族が住んでいるマンションの前で別れる。


「また明日ね」

「おう」


 そして風呂上り。

 アキラと他愛のないメッセージを交換しながら四コマの続きを描いた。


 ありふれた日常。

 今日という24時間が終わる。


 リョウはベッドに寝転がった。

 ぼんやり天井を見つめていると、リョウくん、という甘い声が耳朶じだの奥から蘇ってきた。


「アキラが女だとすると、俺は毎朝女子を迎えにいって、一緒に登校して、一緒に飯を食って、一緒に下校しているのか。SNSのやり取りもアキラがメインだしな。でも、あいつ、女子とも普通に会話するから、そこが解せない。女子のコミュニティーが苦手という雰囲気でもなさそうだし……」


 断言できることが一つある。

 アキラはリョウの存在を必要としている。


「ハイリスク・ノーリターンのバカげた行為……」


 コーヒーに溶けていくミルクのように疑問が頭の中をグルグルする。


 翌朝、リョウは部屋のカーテンを開けた。

 これから一波乱あるような、そう見せかけて何もなさそうな、どっちつかずの空模様が広がっていた。

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