最低恋愛

@soon090323

第1話

あの日、私は確かに幸せだった。


新緑の輝く、その時期にしては少し暑い日。

私たちは、愛する人と人生を共にすると、少し汗ばんだ手で指輪を交換し合って、神と家族に愛を誓い合って笑った。


結婚すると決めたのは、ずっと一緒にいるのが当たり前だと思ったから。

愛しているから、とか、幸せになりたいから、なんて大それた事は考えてなかった。

ただ、この関係が永遠に続くことが自分にとっては自然だと思ったから、私は世間一般の人がそうするように結婚を決めて、彼の名字である小林に名前を変えた。


少なくとも、その時私はこの結婚を後悔する日が来るとは夢にも思ってなかった。


「ただいまー」


帰り慣れた玄関で靴を脱ぎながら、私はリビングにいるであろう夫の啓介へ声をかけた。


(また脱ぎ散らかしてる…)


夫は靴を脱ぐと揃える事なく、そのまま放置するタイプだ。

しかも、下駄箱へ仕舞わない。

だから、私が少しサボると我が家の狭い玄関には夫の靴が散乱して、私の靴を脱ぐスペースが無くなってしまう。

私はいつもそれが嫌だった。


小さくため息をついてから、私は夫が今日履いていないであろう靴を下駄箱へ仕舞い、今日履いていたであろう靴は玄関へ爪先が向くように向きを変え左右を整え、同じように自分のヒールも揃えてから、スリッパに履き替えリビングへ続く扉を開けた。


部屋に入ると、寝巻き姿でソファーに横たわる啓介が、ちらりとこちらに視線を向けてからおかえりもなしに言った。


「最近、帰り遅くない?」


啓介のその姿を見る限り、彼は結構前に帰ってきたことがわかる。

それもそうだ、だってもう0時をとっくに回っているのだから。


「あー、うん、最近仕事忙しいし、終わった後ついつい飲みに行こうってなっちゃうんだよね」

「へー、」


何の気なしに言ったであろう啓介の一言に私はどきりとした。

言った言葉に嘘はない。

最近仕事が終わるとつい社内メンバーで軽く飲んで帰ろうという話になって、飲み会が続いて遅くなっているのは事実だから。

どきりとした理由は他にある。

それは、家に早く帰りたくないから飲みに行っているという、私の気持ちに気付かれたのかと思ったからだ。


「まあ、あんまり飲みすぎるなよ」

「うん」


啓介はそう言いながらこちらに目も向けずバラエティ番組を見ていた。

私は目も向けられていないのに、責められている気がして、こそこそと隠れるように寝室へ行き着替えを持って、お風呂場へと急いだ。


シャワー中に考えることはいつも同じ。

明日の仕事のスケジュールを頭の中で確認する。

別に仕事が好きなわけじゃなくて、それ以外のことを考えたくないだけ。


啓介のこととか、帰りたくないこととか。

家庭には考えたくないことが多いから、考えないために仕事の事だけを思い出すのだ。


啓介のことは好きだ。

多少の不満があろうと、怒るほどではないし、彼も彼なりに私に我慢してくれていることを理解しているから。

でも、何故だか家に一緒にいる事が嫌だと思う事が多くなった。

別にきっかけはないのだが、ただ誰かがずっと同じ空間にいるのがたまにとてつもなく疲れる時が誰にだってあると思う。

私の場合はその相手が夫だっただけだ。


ただ、それだけだ。



「まあ、結婚なんてそんなもんだろ」

「ですかねー」


翌日、会社の喫煙所で飲み仲間であり先輩である、原田さんとばったり会った私は、昨日の飲み会お疲れ様でした、という社交辞令の後、夫といると疲れるという、原田さんにとって心底どうでもいい話しをした。


原田さんは本当にどうでも良さそうにそう相槌を打って紫煙を吐き出した。


「まあ、俺のほうに来ないことだな」


原田さんの言う俺のほう、というのはバツイチ側の人間のことだ。

彼は若い頃結婚して、子供が小さいうちに別れて、その後養育費を払いながら暮らしていると聞いた。

離婚原因は奥さんの浮気だったらしい。


「さすがに結婚して3年で離婚はしたくないですねー」

「まあ、そんなこと言ってるうちはなんだかんだ離婚しないよ。本当に離婚する時はもうそんなことどうでも良くなるから。」

「へー、経験者は語りますね」

「うるせぇよ」


原田さんは、私より10以上歳上で、かなり上の先輩に当たるのだが、飲みにいく回数が多いからか何故か話しやすい。


「まあ、なんかあったら相談くらい乗ってやるよ」


原田さんは、そう言って笑った。

私は彼のその優しさに触れる度に、モテそうなのに、なんでモテないのかな、と不思議に思うけど口には出さなかった。


「お、2人ともお疲れ」


2人で話していると、喫煙所の扉が開いた。


「あ、お疲れ様です」

「お疲れ様です」


入ってきたのは、葛西本部長だった。

葛西本部長は、私の上司であり、原田さんと同じくよく飲みに行くメンバーだ。

なんなら、私と原田さんが飲みにいくきっかけはいつだってこの葛西本部長だと言っても過言ではない。


「昨日飲みすぎたね」

「いつもじゃないですか」


葛西本部長の一言に原田さんがすぐさまツッコミを入れる。

葛西本部長はそれを聞いて笑った。


「今日も行く?週末だし」

「あー、俺打ち合わせ終わるの21時なんですよね。小林は?」

「私は20時には終わりますかね。葛西さんは?」

「うーん、僕も20時くらいかな。それじゃあ原田くん後から合流する?」

「はい、なる早で終わらせます!」

「原田さん、そう言っていつも遅れるじゃないですか」

「いや、今日は早めに行ける、はず!」

「私、原田さんのその言葉信じてないんで」


原田さんは、私たちの飲み会に予定通り来たことはない。

いつも仕事が長引いて遅れてくるのだ。

だが、別にそれを葛西本部長も私も気にしたことはない。

言ってしまえば慣れているのだ。


「じゃあ、どこかお店探しておきますね。あとで連絡します」

「わかった」

「よろしく」


私はそう言ってタバコポーチをまとめてから2人に挨拶をして喫煙所を後にした。


そして、デスクへと戻りながら携帯を取り出して啓介へ短く連絡を入れる。


<今日も飲みに行ってきます>


送る前に少し胸が痛んだ。

昨日帰りが遅いと指摘されているにもかかわらず、今日もまた飲みに行くことへの罪悪感があったから。


でも、同時に少しホッとしていた。

今日も早く帰らなくていい理由が出来たから。



「葛西さん、お疲れ様です。」

「うん、お疲れ様」


20時を少し過ぎた頃、私と葛西本部長は自社ビルのエントランスで落ち合い、事前に連絡をしておいた居酒屋へと歩き出した。


「今日忙しかった?」

「まあ、そうですね。プロジェクト会議があったので、そこそこバタバタしました」

「うちの部門には慣れた?」

「うーん、一応慣れてきました」


葛西本部長は、元々私の上司ではなかった。

他の部門で燻っていた私を自分の部門へと引き抜いてくれたのだ。


「今日は早めに帰ろうね、昨日も遅かったから」

「そうですね。私、絶対カラオケ行きましょうとか言い出すんで、止めてくださいね」

「ハハ、うん、止めるよ」


会社のメンバーで飲むと、だいたい居酒屋へ行ってからカラオケに行くのが定番。

と言っても、別にメンバーの誰もカラオケが好きなわけではなかった。

ただ、なぜかこの流れが定着してしまっているので、私は居酒屋で飲み終わるとついカラオケ行きますか、と言ってしまう。

葛西本部長はいつも、早く帰ると言いながらそれを止めてくれたことはない。

だから、おそらく今日も私たちは居酒屋に行ってカラオケに行くのだろう。

なんてったって今日は週末の金曜日だ。

みんな早く帰らないといけないという意識が低い。


私たちは、周囲を少し気にしながらビルを後にした。

特にやましい事があるわけではないのだが、2人で歩いていることが噂になると面倒だからだ。


「原田くん、何時くらいになるって?」

「打ち合わせ21時までって言ってたから多分22時くらいに来るじゃないですかね」

「相変わらず忙しそうだね」


仕事の話をしながら、最寄駅にある居酒屋へ2人で入りビールを注文する。

その間におしぼりで葛西本部長が顔を拭いているのを見て、私はおじさんだなぁと思って少し笑った。


「昨日旦那さん、大丈夫だった?」

「最近帰りが遅いねって言われました」

「だろうね。少し控えたほうがいいんじゃない?」

「じゃあ誘わないでくださいよ。葛西さんは?奥さん大丈夫でした?」

「うち?うちはもう帰る頃には寝てるから」


葛西本部長は、既婚者でお子さんがいるが、その割にしょっ中飲み歩いている。


「まあ、葛西さんは元々会食も多いですしね」

「うん、だから会食なのかただの飲みなのかもうどうでもいいのかもね」


そう言って笑う彼を見て、うちの夫も毎日遅く帰ってくればいいのに、と思った。


「亭主元気で留守がいいってやつですね」

「まあ、そうなのかもね」


私は30歳で、葛西本部長は45歳。

その割にジェネレーションギャップを感じないから、彼はノリが若いと思う。


「まあ、私の場合は逆ですけどね」

「でも、旦那さん、留守がいいって思ってないだろうから、うちとは違うでしょ」

「そうですね」


それから私たちは、仕事の話をしたり、ニュースで読んだ記事の話をしたり、本当に当たり障りのない会話をした。


「原田くん、そろそろ来るかな?」

「そう言えば連絡ないですね」


携帯を確認すると、時刻はもう21時45分だった。

私は原田さんへ連絡を送る。


<何時くらいに終わりますか?>


返信はすぐに帰ってきた。


<あとちょっとかかるので、先にカラオケ行っててくれて大丈夫!>


「葛西さん、原田さんは今日もカラオケ行く前提みたいですよ」

「まじで?」

「ほら」


私はそう言って葛西本部長へ原田さんから来た連絡を見せる。


「今日は行かない予定だったのにね」

「まあ、流れってやつでしょう。金曜だし。」

「だね。じゃあとりあえず、そろそろ移動しようか」


カラオケに行くのは止めると言っていた葛西本部長は、あっさりそう言ってお会計を頼んだ。


<いつものカラオケに先に行ってますね>


その間に私は原田さんに連絡を入れた。

原田さんからは可愛らしいスタンプで<りょうかい!>と返ってきた。


「あ、いくらでした?」

「いいよ、別に」

「いや、昨日も多めに出して貰ってますし、」

「じゃあ今度多めに出して」


葛西本部長はそう言ってレシートの詳細を見せないでお会計をした。

彼はいつもそう言って、私に多く出させてくれたことはない。



「何飲みます?」

「うーん、ハイボールで」

「じゃあ私もハイボールにしよ」


カラオケに移動した私たちは飲み物を頼んだ。

カラオケに2人きりでいるところなんて、会社の人に見つかったらシャレにならないよね、なんて最初の頃は言っていたのに、2人で入るのはもう3回目だった。

と言っても、いつも後から誰かが合流するので、ずっと2人きりということはなかった。


「これで原田さん来なかったらウケますよね」

「移動しててって言ったの原田くんなのにね」


そう言って雑談している間に注文してきたハイボールが届いて、私たちは本日2回目の乾杯をした。


「歌います?」

「うーん、原田くん来てからでいいんじゃない?」

「まあ、昨日も歌ってますしね」


そう言いながら私たちはタバコに手を伸ばす。

カラオケルームには、最新曲の広告を流すテレビの音と、他の部屋から漏れてくる歌声が響いていた。


「旦那さんに連絡した?」

「今日も飲んで帰るって言いましたけど、カラオケに行くとは言ってないですね」

「早く帰らないと心配するよ」

「お互いさまじゃないですか」


葛西本部長はまあね、と笑った。


私と彼は似てると思う。

別に家庭に不満はないが、お互いに家に帰りたくないと思う虚しさを抱えている。


「結婚ってなんですかね」

「何って?」

「いやだって、ずっと一緒にいたいから結婚したはずなのに、帰りたくないって思ってしまうのは矛盾してません?」

「矛盾…。そうかもね」

「結婚しないほうが良かったのかなってたまに考えます」

「やってみないと分からない事が多いからね、そう思うのは結婚したからかもよ」

「そうかもしれないですね」


私たちはそう言って少し無言になった。


「でも、そう思っちゃうのは、寂しいことだよね」

「…はい」


そう言われて少し泣きそうになった。

愛しているはずなのに、一緒にいたくない。

そこに本当に相手を思う気持ちはあるのか。


私が泣きそうなことに気づいたのか、葛西本部長はソファーに置いていた私の手を握った。


それは良くない流れだとわかっていた。

わかっていたのに、私はその手を払い退けないで握り返してしまった。

葛西本部長はそれに気付くと少しだけ私のほうへ距離を詰めてきた。


(ああ、これは良くない)


今日は飲み過ぎたんだ、お互いに。

そう思って、私は手を握ったことを謝ろうと顔を上げた。


その瞬間、寂しそうな目で私を見つめる彼と目があって動けなかった。


それは、同情だったのかもしれないし、ただの下心だったのかもしれない。

ただ、気づいたら私は彼の唇に自分の唇を重ねてしまっていた。

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