第18話 もう一人の私

 あれだけの辛辣な連絡をよこしながらも、津島は時間がある時には他人行儀ではあるが返信だけはしてくれていた。

 航空幕僚監部に転属し、半年後に昇任。

 人事公表で彼の役職が明らかになったのを目にして愕然とした。

 もっとも過酷で忙しいポジションについてしまったのだ。

 つまり、あの最後のデートから2か月後の転属直後から何か雲行きが怪しくなったのはこのポジションを背負うために前任者のあとをつき業務を引き継いでいたことが分かった。

 そして、何とか蜘蛛の糸をたぐりよせるようにつながっていた連絡が1年以上も途絶えた。

 普通ならば、これが終わりだろうに、私はどうにも終わりにできそうにない。

「やつれたねぇ」

 スマホに送られてきた津島の現状写真に目を落とす。

 送信元は佐竹だ。 

 佐竹は、津島に家族がいる安らぎを知ってほしいとやけに真面目に話し、それができるのは私だけなんだから負けるなと励ましのメールをくれていた。

 私より私を信じてくれている佐竹の存在にひたすら感謝だ。

「どこで私はまちがったのだろうか。 他に誰かいるのだろうか」

 今の津島は恋愛なんかしている場合じゃないってことは佐竹が知らせてくれるからよくわかっているのに、それでも大きくなりすぎた不安は私の心を押しつぶす。

 あの時、もっと違った言葉をかけれていたらと何かが違っていたのだろうか。

 過去は消すことはできないし、未来はちっとも読めない。不安しか残らない。

 でも、人間、不快な感覚のある者と食事はしないし、散歩もしない。

 ましてや二人きりで会おうとはしない。

 つまりは、嫌いではない、不快ではない。それのとどのつまりは好意があるはずだと信じたい。

 まっすぐな愛情は時に裏切れない強い圧迫をもたらすかもしれない。

 では、まっすぐではない愛情ならばなかったことにしてもよいのか。違うはず。

 相手を傷つけたくないのは何故なのか。

 そこには、大切に想う心があるはずなのだ。

 それが恋なのか愛なのか、同情なのか。

 まともに向き合ってこそ、答えがでるのだ。

 そのどれかだと気づいてもらうためには、時に痛みを伴う瞬間をさけることはできない。

 ふんわりとした関係では、すべてが曖昧で、傷つくことはないが、何も始まりはしないし、何も得るものはない。


『嫌われたくない』


 誰もがぶち当たる片思いの究極の足枷。

 嫌われたくないから、相手の顔色をうかがう。

 嫌われたくないから、本音を真綿でくるむ。

 嫌われたくないから、背伸びをする。

 嫌われたくないから、自分の中にある汚い感情を閉じ込める。

 それで、結果、何を得るのだろう。

 作った自分を受け入れてもらい、愛されて、壊れないものがあるのだろうか。

 壊れてしまうものは、何なのか。それはきっと自分自身の愛情だろうと思う。

 愛が壊れたら、きっと、すべて失う。

 女はそんな生き物だ。

 何のための片想いだ。

 愛してもらいたいのはやまやまだけれど、本当の願いはなんだ。

 傍から見たら、とっても熾烈極まりない模擬遠距離恋愛の私だが、時々、真理なのではないかという想いにたどり着くタイミングがある。

 恋愛において『愛したい相手がいること』が一番幸せなのではないかと思う。

 相手探しからしないといけない人より数段進歩的で素敵な環境のはず。

 その上、良いも悪いもあるものの、いろんな感情が自分自身に隠されていることを知る絶好のチャンスでもあるはずだ。

 見つけたからには、相思相愛を目標に突き進むしかない。

 実のところ、相思相愛なんてことが叶うかはわからないけれど、少なくともあきらめたりはしない。

 それぞれに想いを深める時間もタイミングもあるはずだから。

 どちらが先に好きになったかなんて結局どうでもよいのだと思える日が来るように。

 ほとほと、我ながらあっぱれの徹底的に女やってるなと思う。

 たった一人の男のためにどれほどまでの時間を割こうというのか。

 愛する津島とは同じ物事を一緒に見ていたとしても、かなりの温度差はあるだろうけれど、私はそれでよいのだときっとストレートに言葉にすると思う。

 同じだから愛しいは違う。違うから愛しいのだから。

 愛することは戦いだ。

 津島との戦いではなく、自分との戦い。

 私は自分が抱えている想いと同じ分だけの想いを返してくれないと嫌だと泣き喚いたわけではない。

 ただ透き通った水のように、一点の曇りもない想いのまま寄り添ってきたはずだ。

 どうして、そんなことができたのだろうと考えてみると、ふっと笑みがこぼれた。

「好きなものは好きなのだから仕方ない」

 相手を好きだという気持ちに迷いがない。それ以外になんの疑念もない。

 いつだったか、悩み切った私にある先輩がこう言っていた。


『愛は二人で足して100点ならいいのよ。 たとえ、あなたが100点、彼が0点でも、足したら100点なんだから、やっていけるのよ。 そのうち、点数を少しずつ分けてあげればいいだけなんだから。 それくらいの覚悟がなくて愛を語るな』


 目から鱗だった。あまりにも斬新すぎる片想いでも幸せになれる方程式。

 愛にあふれている方から愛を分けるシステム。


『あなたが100点をやめない限り、終わりじゃない』


 では、相手がマイナスになったらばどうするのか、とかはこの際考えないことにしたのを覚えている。

「どんな時も私は私らしくいたはず。 あの人を傷つけようと動いたことなんてない。 だったら、それを証明するしかない」

 不安すぎてがんじがらめになってしまう心を精一杯はねつけてみたけれど、それすら受け入れてやらねばならない気がした。

 曽祖父の残した写真と手紙を手にして、じっと見つめ、読みなおす。

 曽祖父の持っていた写真の中の男の人は、あの鹿屋で出会った中佐殿だ。

 ちょっと人を食ったような中佐殿の笑みを思い出す。

 中佐殿は現代の津島に見えて仕方がない。

 そして、その人を愛した女性の最期の手紙に何度も何度も勇気づけられることとなる。


『尾上少佐

 私が貴方のそばに居たら、貴方は貴方でいられなくなるのでしょうか?

 貴方はたかだか女一人に影響されて、お仕事ができなくなってしまう程度の方なのでしょうか?

 そろそろ降参していただけないでしょうか?

 私はかの大国にだって負けはしませんから。

 何があっても、貴方が降参するまで、私はあなたを愛しぬくと決意いたします。

 本当にお覚悟くださいね』


 痺れる一文だ。

 命がけでこの女性は愛を訴えている。

 そして、戦時下であり、命が簡単に奪われていく中にあって、悪あがきしろと鼓舞している。

「……すごい勇気をもらった気がする」

 心を届けることは私にもできることだ。

 私の知っているあの男はクズではない。

 何か理由があるのなら、それが過ぎ去るまで待っていればよいだけだ。

 鹿屋であったあの中佐殿が白旗をあげた女性の強さを体感しながら、私は自分もなかなかに負けていないことを知る。

 そう、私は彼からのメールを大人しく受け入れていたわけではない。


【津島さん、私は結婚して誰かを安心させるために生きなければなりませんか?

 あなたがいるから私でいられるのに、他を探せるほど器用ではありません。

 それに、あなたを好きだと思う私の気持ちを外に出すのは並大抵の勇気ではなかった。

 女にも戦いはあるし、信念、覚悟はあります。少なくとも、私の気持ちや愛情は妥協ではありません。

 私は一方的に幸せにしてもらおうとは思いません。

 私はあなたと一緒に幸せになりたい。

 あなたを幸せにしたい、幸せにしてみせるとさえ思っています。

 私の幸せは私が決めますよ。

 まだ何も始まっていないのに、私に愛されてもみないうちに評価しないでください。

 仕事に邁進してください。

 それが寂しいとは思いません。

 あなたの言う普通の恋愛など、相手があなたでないのなら私にはどうでもよいのです。

 私の愛情をバカにしないでください。

 それにもう、あなたと過ごした時間で惚れさせた責任は十分にありますからね】


「今更ながらによくもここまでするりと言えたものだなぁ」


 津島はこのやりとりの後も、メールをしぶしぶだったろうけれど返してくれていた。

 面等向かって話し合うことも電話ではなすこともない、互いの温度がわからないメールだけ。

 今はもう粘り強く待つしかできないけれど。

 助産師として毎日をまっすぐに生きるしか、私は時間をやり過ごす方法をしらなかった。

 面白くもない日常をすごしながら、目に飛び込んでくるニュースにうなだれるしかない。

 防衛省に影響がでるだろうと明らかにわかるほどに社会情勢が一変するような事件が連発する。

 津島はどうしてこうも変革期にとんでもない部署のとんでもない役割を与えられてしまうのだろうかと脱力せざるを得ないことばかりだ。

 そして、自衛隊関係の知人すべてが口をそろえて激務という部署で、彼にはがっつり管理者の役職がついている。

「またなの!?」

 私はテレビ画面に映し出されるニュースにうんざりだ。

 普通の日本人ならばあまり気にもならないニュースが私には何よりも重要だ。

 北朝鮮のミサイル、中国の領空侵犯、日米・日英・日豪共同訓練、新しい戦闘機の導入、地震、航空自衛隊がらみの訓練や事故、防衛省管内の不祥事、テロ対策等々。

 休憩中にスマホでみるニュースや緊急速報をみていると、ここ最近では同僚も気にして、話しかけてくるようになった。

 ほんのわずかではあるのだけど、興味のなかった日本人がちゃんと日本の置かれたことに、ある意味で興味をもって考えるきっかけになっている。

「津島さんは大丈夫なの?」だなんて心配してくれる。

「大丈夫なわけないですよ」と答えながら笑うのが日課になった。

 自衛官も人間だということを知ってもらってよかったのかなとちょっとは思う。

「強くなりたい。 ぶっちぎりで信じぬけるように」 

 手の中にある写真。

 うらやましいほどにその写真の中の女性は幸せそうに笑っている。

「あなたも苦労されたのですか?」

 あの手紙を読む限りは、大変なご苦労をされた様子だったけれど。


「大変だったわよ」


 背筋が寒くなり、一瞬振り返るのを躊躇したけれど、迷わずふりかえった。

「なるほど。ばっちり心残りがあったわけですか……」

 心残りや未練があると、どうあってもあの世へいけないらしい。

 大概、お化けさんは皆、その心残りをわかってほしくて出てくるものだ。

 写真の中のあの可愛らしい女性の本物はもっと綺麗だ。

 肩までで丁寧にそろえられた柔らかな髪や綺麗に整った目鼻立ち、とびぬけた美人ではないけれど、あの中佐殿が愛したたった一人の優しすぎる女性。

「私が怖くないの?」

 彼女の方が恐る恐る近づいてくるのがどこかおかしい。

「もちろん、怖いですよ」

 でも、本当のところは自分に欠けている物と接触できたような喜びが勝っていた。

「そうよね」

 くったくなく笑うけれど、病の人独特の線の細さがある。こればかりは職業病。すぐに体調が悪い人がわかってしまう。観察眼という哀しい性。

「病気だったんですよね」

「そう、病気。 私は病気で戦線離脱しちゃったのよ」

 彼女は寂しそうな翳りのある微笑みを浮かべる。

「私、鹿屋でお会いしたんですけど、あなたの想いはちゃんと届いてましたよ」

 どうしてか、彼女に伝えてあげなくちゃと思ってしまった。

 彼女は少し驚いたように目を見張って、それは嬉しそうに形の良い唇をひきあげた。

「中佐と逢ったことがあるの?」

「お逢いしました。 後悔ばっかりだと話されるから、あなたの気持ちを代弁しておきました」

 彼女は顔の奥に明るい灯がともったように微笑んでくれた。

「さすが川村中尉のひ孫さん。 あなたの曽祖父様は私と中佐を助けてくれた恩人よ。 とっても大切にしてくれていたの。 中佐のことが大好きでね。 あの人はすごいんだって、私より嬉しそうにして。 本当にすごい人だから、あんなに武骨だけど赦してほしいってね。 どっちが恋をしているのやらって、たまにやきもちやいていたわ」

「男同士ってうらやましいですよね?」

「ずるいくらいにね」

「私はあなた方がうらやましいです。 ちゃんとつながってる。 鹿屋にいた中佐さんはあなたが大切だと言ってましたよ? それに比べ、私たちはどうなのやら」

 ついさっきまであった強気はあっさりと消え失せていた。

 口をついて出てくるのは弱音ばかりだ。

 誰かに『そんなことない、大丈夫だよ』と言ってほしくてわざと言っているような類いの質の悪い言葉だ。

 世間で幸せそうな恋人たちや夫婦をみたら、心が辛くなって、『どうして私だけ』と、自分の人生をおとしめるような黒魔術をかけてしまう。

 必死に白魔術で笑おうとするのに、『どうして』とぶり返して、涙が出る。

「あなたは生きてるじゃない? 生きていれば、まだまだあるわよ」

 綺麗に微笑むと、彼女は私の胸を指先でつついた。

「あなたのここにある彼は信じるに足らない男なの? とんでもなく大ばか者なのはよくわかるけれど。 考えてみてごらんなさいよ。 忙しいのにわざわざ時間を作ってくれたのは何故なのかしら? とんでもない仕事について、あなたの時間を無為に殺してしまうのがわかりすぎていたから、こうやって突き放したのではないの?」

「そんな良いような解釈をしても良いのですか?」

「良いように解釈してなんぼよ。 惚れた男を信じられないの?」

 かわいらしく笑う彼女の優しい表情にうっかり涙がこぼれる。

「信じたいですし、信じています。 でも、その信じ切っている自分がいることをどうやったらあの人にわかってもらえるのか……」

「泣かないでよ。 私にはできなかったことが、あなたはこれからいくらでもできる。 同じような相手に惚れたおバカな仲間として伝えておいてあげる。 ああいう男はね、大切なもののために自分が我慢したり、虐げられたりなんてことは何とも思わないのよ。 そして、愛されることに慣れていないから、仕事以外での自分の価値なんてまったくわかってないのよ。 だから、私やあなたが必要なの。 こんなことを言われなくても、あなたは魂でわかってるでしょう? この人のそばにいなくちゃって。 最初からわかっていたはずだわ」

 言葉が出ない。この人はどうしてこうも簡単に言い当ててしまうのだろう。

 私だけの秘密だったのに。

「私も同じだったのよ。 この人はだめだ~、近づいたら苦労するにきまってる!ってわかっていたのに、じっとしていられなかった。 別の人だったらどれだけ楽だったろうって腹が立つのに、他ではまったくかわりにならない。 ねぇ、あなたは私と同じなのはそれだけではないわよね? 身体の不調はいつからなの?」

「ちょうど逢えなくなった頃からですよ。 私の場合は現代医学があるから何とかしますよ」

「彼にはちゃんと話したの?」

 私は首を横に振るしかできなかった。

「話すべきよ。 迷惑をかけてしまうからと私も黙っていたの。 そしたら、後で死ぬほど怒られたんだから」

「私は経過も順調ですし、すぐに死ぬことはありません。 ……時代の違いですよ。あなたの病もきっと今なら治ってますよ。 それに、それを知っても今は動きませんよ、彼は」

 悲観的な言葉を先に口にする。

 本当は話してしまいたいけれど、それでスルーされてしまうのが今は何よりも怖すぎるのだという言葉を必死で飲み込んだ。

「でも【私はこれでも身体が強くはありません。こんな私だからこそ、素直な気持ちに忠実にしか動けないととおもいます。 逢いたい人に、いつでも逢えるのが当たり前ではないですから】って、いつかの言い合いの途中で言った気はします」

 どうにか気づいて欲しくてメールに書き込んだ内容は勇気が足りない私の遠回しなもの。

 鈍感王の津島がその内容に気づくわけがないなんてことはすぐにわかっている。

 それでも、些細な棘をメールに書き込んだことを思い出した。

「それではあの朴念仁には伝わらないかもしれないわよ?」

 心配そうな声色の彼女がしている心配は私には想定内だ。

 必死に、必死に、心の粗を隠したい。

 心の粗を、良心という鎧と前向きという兜で覆うのが私なのだ。

「病気だろうがそうでなかろうが、自衛官だろうがそうでなかろうが明日はどうなるかなんてわからない。 逢いたい人にいつでも逢えることがどれだけ奇跡かわかりましたし! 自衛官が天職のあの人には一生涯かかっても伝わらない感覚だと思います。 悲しすぎますよね」

 心の底を叩いてみると空っぽのような虚しい音が響きそうだ。

 連絡がとれて、約束ができて、逢えることがいかに奇跡だったかと思い知った。

「日本は変わったのにちっともかわらない人種がいるのね。 いつの時代も、因果な仕事よね。 それをまた天職のようにしてしまう男だから。 こちらはいつも冷や冷やして愛するしかないのよね」

「その上、普通の男と恋愛をした方が幸せだって決めつけられるんですよね……」

「そうそう。 それができるならこっちは最初から苦労しないっていうのにね!」

「いっそ嫌いになりたいです。 世界で一番大嫌いになって知らん顔してやりたい」

「そうよね。 でも、どれだけがんばっても無理な話なんだけどね。 昔も今も軍人さんは何を考えているのやら。 今の方がある意味で軍人さんが生きにくい時代かもしれないわね」

「そうかもしれない。 自衛官には服務の宣誓っていうものがあるんですよ。 あなた方の時代と違って、自衛隊は軍隊ではありません。 でも、理念は違うけれど国を護る危険な仕事であることはかわらない。 だから、それに就くからには宣誓しろ、だそうです」


【私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。】


【私は、幹部自衛官に任命されたことを光栄とし、重責を自覚し、幹部自衛官たるの徳操のかん養と技能の修練に努め、率先垂範職務の遂行にあたり、もつて部隊団結の核心となることを誓います。】


 文言を何度読み返してみても、『事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め』の部分に目が釘付けになる。

『こんなことで疲れていたら戦争に行けない』という津島の言葉を思い出してしまう。

「国の大事のために生きると宣誓している以上、有事の際には自分はそばにいない。 自分の居ない時に問題が起これば自力で解決してくれ。 あの人のいる世界はそういう世界。 だから、私はやるべきことをやり、待つべき時は待つしかできない。 あの人が宣誓したことはとんでもなく重くて、とてつもなく大きなものだから仕方がないんです」

 驚いたようにあんぐりと口を開けたままの彼女が、じっと私の顔を見ていた。

 少しだけ間をおいて、なるほどというように彼女は一つうなずいた。

「だから彼は突き放したのね。 あなたのことが心配すぎるのよ。 きっと、いつでもそばにいられる人に守って欲しかったのよ。 あなたががんばりすぎちゃうから」

 彼女の言葉に今度は私が愕然とするしかない。

 鼓動がはやくなり、動悸がする。追って眩暈もする。

「あなたをみて、私も自分が遠ざけられていた意味が今ようやくわかったわ。 なるほど、私たちは頑張りすぎちゃっていたのね」

 得心したのは彼女一人で私の思考は孤独だ。

 わからない、わかりたくても理解できない。

「ねぇ、はっきりわかったことがあるわよ? あなたという人間を彼はとってもよくわかっているってこと。 大切すぎるくせに、不器用すぎて扱いがお粗末な結果だと思うけれど。 どうするの? ここで戦線離脱する?」

 膝を抱えたままで動けなくなっていた心を揺さぶられ、私は唇をかんだ。

「戦線離脱なんてしませんよ!」

 気が付いたら、悔しくて言い返していた。

 彼女にのせられていたのだろうけど、もう一度、心に灯がともる。あのパンチの効いた手紙の作者だけあって、威力は抜群だった。

「そうこなくっちゃ! ……きっと仕事がとんでもない忙しさなのよ。 それが収まればまた少しずつ道は開けるわよ。 前は無理だったことも、次にはかわるっているかもしれないじゃない? それにね、意外とこの時間の経過は彼には必要なことだったのかもと私なら思う。 そうやって、良い方へ思い込んででも突き進む。 あなたはどうするの?」

 得意げに笑って見せるお化けの彼女が限りなく頼りがいのある同志に見えた。

「あなたは強くなったし、大切なことは見落としてない。 自分を立て直して、自分で立てるようになって、自分の意志で彼を待てるでしょう? そして、彼は仕事にどっぷりつかってわかることがあるはず。 これまでは見えていなかったものが見えていたりしてね」

 救われたような明るい心が体の真ん中に戻ってきたような感覚がした。

「でも、ご存知の通りの頑固者だから。 あなたが白旗をあげさせてあげないと。 自分でがんじがらめにしてしまっているだろうから、降参できるように環境を整えてあげるのよ。 負けるが勝ちっていうでしょう? だから、何度だって挑むのよ。 次は変わるかもって。 そのうちに、彼が降参ですと言いやすくなるように、丁寧に、丁寧に待ってあげるの」

 達人にしか見えない彼女の言葉に思わず聞き入ってしまった。

 彼女と話すと津島が恋しくてすぐにでも飛んでいきたくなる。

「できることはまっすぐにぶつかることだけ。 私にはもうできないけれど、あなたはまだできるのだから。 当たり前のように毎日一緒にいられて、ずっと幸せに過ごせてきたと思っていたのに最後に抱きしめられないくらいなら、砂をかむような想いをしても、最後に抱きしめることができる方が勝ちなのよ。 そうでしょう?」

 何があったとしても、最後に手に入れることができるのならまだ私は終わりじゃない。

 彼女の言葉が心底、嬉しくて泣けてきた。

 愛してくれないから不安になるのは違う。

 私の願いは愛して欲しいではなかったはず。

 私に愛させてほしい、愛して良いよと認めて欲しかった。それだけだった。

「私はきっとあなたにこの魂の核を届けるために居たような気がするわ。 あなたと触れ合って、私は私の恋が成就していたことがようやく分かった。 これでも、本当は病気だからそばにいてくれたんじゃないかって不安だったのよ……。 でも、良かった」

 彼女は安堵と幸福でゆっくりと目を閉じて、一筋の涙が頬を伝う。

「私はお二人と出会えて、こうして伝書鳩ができてよかったです。 それに、もう一度戦えるようになりましたし。 あなたは早く中佐さんのところへ行ってください」

「ありがとう。 ねぇ、頑張りなさいよ? これからもこれ以上にきついこともあって、自分という人間の底をみるかもしれない。 それでも、必ず浮上するのよ。 あなたみたいな娘のところへ戻らない男なんているわけない。 私が保証するから」

 見ているこっちが幸せになれてしまうような満面の笑みで彼女は笑った。

「じゃあね。 続きができるもう一人の私さん」

 鹿屋で逢ったあの中佐に負けず劣らずの悪戯っぽい笑みで、彼女は手を振ってくれた。

 ふわりと海の香りが漂ったかと思うともうそこに彼女はいなかった。

 そして、例のごとく私はぶっ倒れた。

 一晩中うなされていたにもかかわらず、母曰く、時々ニコニコ笑う奇妙な状態だったそうな。





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